カニエ・ナハ『なりたての寡婦』(カニエ・ナハ、2018年11月30日発行)
カニエ・ナハ『なりたての寡婦』は、本のつくりにとまどう。「第一部 フランス式の窓」「第二部 なりたての寡婦」から構成されていることになっているが、「第二部 なりたての寡婦」はタイトルしか見当たらない。落丁本かな?
でも、まあ、こんなことは関係ないか。
好きな部分を好きなように読んで、自分の好きな風に感想を書くだけだから。
最初に短歌のようなものが書いてある。
「二羽の蝶々」「二匹の蝶々」「同じひとつ」「おなじ一つ」。似ているけれど違う。違っているけれど、気にしないな。このときの「気にしない」は「意味」はどっちにしろおなじ、と私が思っているからだ。ほんとうは違うのかもしれないのに。私はいい加減な読者なので、めんどうなことは考えない。そうか、蝶々と花は入れ代わってもおなじか、とちょっと頭の中に「記憶」のようなものが残る。
これとどういう関係があるのかわからないが、短歌(?)と見開きの、左のページには、こんなことばが書いてある。
これは何かなあ。日記みたいな文体である。
次のページ、また短歌が二首。
これにも違いが含まれているが、同じものも含まれている。微妙だなあ。「ぶかぶかの帽子」は、前に読んだ「まぶかにかぶる帽子」に似ている。こうやって引用してみると(転写してみると)違いがわかるが、さーっと読んだ感じでは「帽子」の印象が強いので、違うというよりも「似ている」というか、共通のものがある、という印象の方が強い。
左ページの日記風のことばを読むと、さらにそんなことを思う。
「かけっこ」「ゴールのテープ」。似ているなあ。同じことを言っている。でも、よく見ると微妙に違う。「自転車」の部分は完全に違うので、「かけっこ」の部分の微妙な違いは吹っ飛んでしまう。同じだと思い込んでしまうなあ。
で。
問題は、それでは「かけっこ」の先生のことばは、どっちが正しい? 映画なのだから、「声」は変らないはず。あるいは、どちらも間違っていて、それを再現しているカニエのことばが正しくないという場合もあるな。
正しくなくても、そこから何かを感じる。そのとき、私の感じは、どう定義できる? 正しい感想? 間違った感想?
正しいとか間違っているというのは、どうでもいいことなんだと思う。
何かを思う、ということが大切なのだ。
カニエもことばを動かすとき、何かを思っているはずだ。蝶々の短歌の場合、その変化は「推敲」のあとを残していると言えるか。何を明確にするために、書き換えたのか。そういうことは、書いたカニエにもわからないかもしれない。読んでいる私の方はもっとわからない。「同じひとつ」と「おなじ一つ」というのは、単なる書き間違えかどうかもわからない。
それでも何かがわかったつもりになってしまう。共通することばをたぐりよせ、意味をでっちあげ、わかったつもりになるのだ。ここにはこういうことが書いてあったと「要約」してしまうのだ。
この「わかったつもりになってしまう」ということが詩を読むことかというと、そうではない。カニエは逆のことを指し示そうとしている。微妙に違うものがある。それは何か。ほんとうに違うのか。そういうことを疑問に思う、考える、つまりことばを動かすことが詩である、と。
と、書いてしまうが。
いい加減な感想である。
違うと気づく、疑問に思うというのもすぐに共通項(意味)になってしまうからね。
変なものを読んだ、ということだけが、はっきり言える。どこが変か、これ以上はめんどうくさくて書けない。私が変なのか、こういう作品を書くカニエが変なのかも含めて、書いてもしようのないことだと思う。
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「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
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ここをクリックして2500円(送料、別途注文部数によって変更になります)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
なお、私あてに直接お申し込みいただければ、送料は私が負担します。ご連絡ください。
「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
カニエ・ナハ『なりたての寡婦』は、本のつくりにとまどう。「第一部 フランス式の窓」「第二部 なりたての寡婦」から構成されていることになっているが、「第二部 なりたての寡婦」はタイトルしか見当たらない。落丁本かな?
でも、まあ、こんなことは関係ないか。
好きな部分を好きなように読んで、自分の好きな風に感想を書くだけだから。
最初に短歌のようなものが書いてある。
二羽の蝶々が同じひとつの花だったこと あとに影法師だけを残して
二匹の蝶々がおなじ一つの花だったこと まぶかにかぶる帽子が眠る
「二羽の蝶々」「二匹の蝶々」「同じひとつ」「おなじ一つ」。似ているけれど違う。違っているけれど、気にしないな。このときの「気にしない」は「意味」はどっちにしろおなじ、と私が思っているからだ。ほんとうは違うのかもしれないのに。私はいい加減な読者なので、めんどうなことは考えない。そうか、蝶々と花は入れ代わってもおなじか、とちょっと頭の中に「記憶」のようなものが残る。
これとどういう関係があるのかわからないが、短歌(?)と見開きの、左のページには、こんなことばが書いてある。
「みなさん、いいですか。」と先生が話している。「このあと、かけっこのとき、ゴールの、テープのところに着いても、そこで立ち止まらないでください。そのまま、走りつづけてくださいね。わかりましたか。」昨夜みた映画の中で不意打ちのように、数日前になくなった女優K・Kの声が聴こえてきて、しかしその姿はなく、声だけが聴こえてくるのだった。
これは何かなあ。日記みたいな文体である。
次のページ、また短歌が二首。
ぶかぶかの帽子に蝶々がとまってそのままずっととまったままの時間
とまったままの砂時計のなかでこぼれない砂が静止したままの蝶々が
これにも違いが含まれているが、同じものも含まれている。微妙だなあ。「ぶかぶかの帽子」は、前に読んだ「まぶかにかぶる帽子」に似ている。こうやって引用してみると(転写してみると)違いがわかるが、さーっと読んだ感じでは「帽子」の印象が強いので、違うというよりも「似ている」というか、共通のものがある、という印象の方が強い。
左ページの日記風のことばを読むと、さらにそんなことを思う。
「みなさん、このあと、かけっこをしますが、」と先生が話している。「ゴールの、テープのところに着いても、そこで立ち止まらないでくださいね。そのまま、走りつづけてください。わかりましたか。」自転車に乗っているとき、光に完全に覆われていた。
「かけっこ」「ゴールのテープ」。似ているなあ。同じことを言っている。でも、よく見ると微妙に違う。「自転車」の部分は完全に違うので、「かけっこ」の部分の微妙な違いは吹っ飛んでしまう。同じだと思い込んでしまうなあ。
で。
問題は、それでは「かけっこ」の先生のことばは、どっちが正しい? 映画なのだから、「声」は変らないはず。あるいは、どちらも間違っていて、それを再現しているカニエのことばが正しくないという場合もあるな。
正しくなくても、そこから何かを感じる。そのとき、私の感じは、どう定義できる? 正しい感想? 間違った感想?
正しいとか間違っているというのは、どうでもいいことなんだと思う。
何かを思う、ということが大切なのだ。
カニエもことばを動かすとき、何かを思っているはずだ。蝶々の短歌の場合、その変化は「推敲」のあとを残していると言えるか。何を明確にするために、書き換えたのか。そういうことは、書いたカニエにもわからないかもしれない。読んでいる私の方はもっとわからない。「同じひとつ」と「おなじ一つ」というのは、単なる書き間違えかどうかもわからない。
それでも何かがわかったつもりになってしまう。共通することばをたぐりよせ、意味をでっちあげ、わかったつもりになるのだ。ここにはこういうことが書いてあったと「要約」してしまうのだ。
この「わかったつもりになってしまう」ということが詩を読むことかというと、そうではない。カニエは逆のことを指し示そうとしている。微妙に違うものがある。それは何か。ほんとうに違うのか。そういうことを疑問に思う、考える、つまりことばを動かすことが詩である、と。
と、書いてしまうが。
いい加減な感想である。
違うと気づく、疑問に思うというのもすぐに共通項(意味)になってしまうからね。
変なものを読んだ、ということだけが、はっきり言える。どこが変か、これ以上はめんどうくさくて書けない。私が変なのか、こういう作品を書くカニエが変なのかも含めて、書いてもしようのないことだと思う。
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「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
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ここをクリックして2500円(送料、別途注文部数によって変更になります)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
なお、私あてに直接お申し込みいただければ、送料は私が負担します。ご連絡ください。
「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(4)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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