詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

添田馨『クリティカル=ライン』

2019-01-31 11:32:00 | 詩集
添田馨『クリティカル=ライン』(思潮社、2018年12月25日発行)

 添田馨『クリティカル=ライン』の「帯」に「詩の批評を〈批評〉する」と書いてある。そうすると、私が書くのは、詩の批評の批評への感想ということになるのか。詩がとても遠くになるなあ。
 66ページにこんなことばがある。

私たちの戦後思想を輪郭づけてきた言説の定型、つまり「告発の文体」では、もはや震災後の世界を語るのは困難なのだと瀬尾は言うのである。

 「瀬尾」は瀬尾育生のことである。「告発の文体」というのは、鮎川信夫、吉本隆明が用いた文体。「戦争」が人為的行為だったので、戦争責任を問うという思想的スタンスが成立した。しかし「震災」は人為的行為ではないから「告発の文体」では対処できない、ということらしい。
 私にはよくわからない。
 確かに震災の起点は「人為的行為」ではない。プレートの移動だ。しかし、大地震、津波とどう向き合うか。予測をどうするか。防災をどうするか。これは「人為」の問題だ。原発事故も同じ。巨大津波にどこまでそなえるか。予備電源をどう確保するか。事故が起きたとき、どう対処するか。これは「人為」の問題だ。
 「人為」の有無が「告発の文体」が有効か、無効かの「基準」だとすると、まだまだ「告発の文体」が活躍しないといけない。

 ここから、大きく飛躍するのだが。

 「告発の文体」は震災以後は有効性を持たないと、簡単に(?)言ってしまっていいのかどうか。(正確には、瀬尾はそうは言っていないが、私にはそう「聞こえる」)
 こういう、いかにも学者らしい完結した思想が、いま、逆手にとられていないだろうか。
 どういうことかというと。
 安倍政権下で起きつづけているさまざまな大事件。資料の改竄、隠蔽、破棄。それにかかわった人間の責任問題。その「告発」がさまざまに行われているが、「告発の文体」なので、有効性がない、と簡単に退けられるという風潮が起きていないか。
 菅はいつも「問題ありません」と言う。「人為」があっても、「人為」を告発することは無意味である。いま問題なのは、「人為」を超えることがらである。そのことを問題にしなければならない、という「言質」を菅に与えることにならないか。つまり、悪用されないか。
 別な例で言おう。
 安倍は憲法改正をもくろんでいる。その主眼は「自衛隊の明記」だ。なぜ自衛隊を憲法に明記するか。「震災復興に自衛隊ががんばっているのに、自衛隊は憲法違反だと友達から言われたら、自衛隊員の子供たちがかわいそうだ」。石破が安倍との討論で主張したように、そんな主張で友達をいじめる子供はいない。でも、安倍は、そういう形で、大災害は「人為」とは無関係だ、という論を利用している。そして大災害後の「人為」に焦点を当て、それを評価する。批判する人を許さない、という論理を展開している。(繰り返すが、誰も災害救助に出動している自衛隊を憲法違反とは主張していない。)

 こういう「批判」に対して、瀬尾(あるいは添田)は、きちんと反論できるだろう。そしてその反論は、私の感想を簡単に打ち破るだろう。(でも菅も安倍も同じことを繰り返す。)
 瀬尾、添田の論理は「完結」している。矛盾がない。だから、「正しい」と主張できる。
 私は、ここにいちばんの問題がある、と考えている。
 論理的に正しく完結していれば、それでいいのか。
 憲法問題で言えば、たとえば井上達夫が主張していることは、論理的には完結していて、矛盾を指摘し、矛盾があるから間違っている、と反論することは私にはできない。(ほかの人なら、できるかもしれない。)論駁はできないが、私は井上の主張が「納得できない」。

 添田は藤井貞和の「人類の詩、前書」に触れて、藤井の書いているものを読んで、「誰もがとっさに受ける印象は、おそらく戸惑いと疑問のない混じったものに違いない」と書いている。「疑問のない混じった」は「疑問のいりまじった」か「疑問のないまざった」か。ちょっとわからない部分があるのだが。私の感想を言えば、藤井の文章を読むと、あれれれっと思う。そのまま藤井の論理にしたがって自分のことばを動かしていけるかというと、うまく動かない。でも、そこには何か、まだ書き切れていないものがある。ことばを探している、と感じる。つまり「完結」しているというよりも、まだまだ「開かれている」という感じがして、興味深い。藤井のことばを自分なりに言い直し、動かしてみたいという感じになる。ことばを誘われるものがある。
 私は、これは大切なことではないかと思う。
 もし「告発の文体」が通用しないというのが現在の状況なら、「告発を無視する文体(菅の文体)」が通用しない「文体」こそ、私たちに必要なのではないか。
 もし藤井が菅に向かって「大震災は憲法違反だ」と主張したら、菅は「問題ない」と答えることができるか。「問題ない」とは答えられない。違う答え方をしないといけない。そういうものをひきだす「知恵」のようなものが、藤井のことばのなかには動いている。
 わけがわからないものに出会ったとき、わけがわからないのに、「おもしろい。がんばれ」といいたくなるのに似ているなあ。サザン・オール・スターズやピンクレディをはじめてみたとき、「わからないけどおもしろいから好き」と感じた。それに似ている。私は、こういう「興奮」を信じている。それは役に立たないかもしれない(?)けれど、自分を傷つけることはない、という感じ。
 井上達夫の論は、(瀬尾育生の論も?)、正しさで完結しているという意味では、きっと「役に立つ」ものなのだと思うが、私はそういう「役に立つ」ものには加わりたくない。自分の好き勝手ができなくなるなあ、という危険を感じてしまう。







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添田 馨
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池澤夏樹のカヴァフィス(43)

2019-01-31 08:27:13 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
43 エウリオスの墓

美しいエウオノス。
彼はアレクサンドリアの人、二十五歳。
父からはマケドニアの旧家の血を引き
母方は歴代の行政長官を出した家柄。
アリストクレイトスについて哲学をおさめ、
パロスからは修辞学を学んだ。
テーバイでは聖書を研究し、アルシノイトス地方の
歴史一巻を書いて、少なくともこれは後に残る。

 池澤は「登場する人名はすべて架空」と書いている。
 名前が架空なら、そこに書かれている他のことがらも架空になる--と考えるのが普通かもしれないが、逆かもしれない。名前は架空だが、彼が行ったことがら、「哲学をおさめ」「修辞学を学び」「聖書を研究し」「歴史書を書いた」はほんとうということかもしれない。そういう人は実際にいただろう。
 カヴァフィスはどうだったのか。私はカヴァフィスの人となりというか、来歴を知らないが、そういうことをするのが夢だったのだろうと思う。
 ことばは「事実」を書くと同時に、まだ実現していないものをも書くことができる。そして、人間というのは不思議なもので、まだ実現していないものの方をほんとうの自分の姿だと考える。つまり、それへむけて動く。
 「42 文法学者リシアスの墓」の感想で「シェークスピアが英語の慣用句を多用したのにならってカヴァフィスもギリシャ語の慣用句を多用したのだろう」と書いたが、正確には、シェークスピアが英語の慣用句を多用したのにならってカヴァフィスもギリシャ語の慣用句を多用した「かった」のだろう、と書くべきだったかもしれない。

より貴重なものは失われた--彼の姿、
アポローンの幻かと思われたその美しさは。

 しかし、これは「理想の自画像」というよりは、「現実の恋人」の姿と読みたい。恋人に、「哲学をおさめ」「修辞学を学び」「聖書を研究し」「歴史書を書い」てほしかったのだ。自分の「鏡」になってほしかったのだ。
 そういう「欲望」が隠された詩。






カヴァフィス全詩
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