絹川早苗『ボタニカルな日々』(A Factory 、2019年03月06日発行)
絹川早苗『ボタニカルな日々』は立ち止まって読む詩集だ。「木とともに」が印象に残る。
いきなり「人生訓」のように始まるので、ちょっと読むのがつらい気持ちにもなるのだが、私は木が好きなのでつづきを読む。
こう展開する。
「寂しさ」を思い、そこに共鳴している。ジャーナリズムに登場してくる「一本松」とは少し違う。そこが、なんとなく、いい感じだ。「人生訓」から少し引いている。押しつけがましさがない。
ここに絹川の人柄が出ているのかもしれない。人柄というのは、私の考えでは「思想」のことである。そして、「思想」というのはあくまでその人の「肉体」とともにある。言い換えると身近なものと一緒になって動くことばだ。それを証明するように、絹川のことばは「一本松」から離れ、「寂しさ」を身近なものを通して語り始める。本当に知っていることを語り始める。
「根を均等に広げることができず」は実際に肉眼で確かめたことではなく、想像力を働かせてつかんだ「推定」なのだが、その前の「太陽に向かって真っすぐに立つことができない/幹は少し腰を曲げ 枝も 歩くときの傘のように/かしげた形に広げている」が肉眼でつかみとっていることなので、まるで肉眼で確かめたかのような強さで迫ってくる。「肉体」に支えられた正直な想像力だ。想像力とは事実をゆがめてとらえる力だと言ったのはバシュラールだったと思うが、こんなふうに正直な印象の想像力もある。これもまた人柄というものだろう。
「片方を太くして踏ん張るしかなかったからだ」には、きっと絹川の、自分の肉体をゆがめながら踏ん張った体験が隠れている。肉体をゆがめるのではなく、精神をゆがめてかもしれないが、精神などという目に見えないものではなく、やはり肉体そのものだと私は感じる。
こういうことばの動きが、私は好きだ。
木に思いを寄せ、木のことを書いているのだが、それがおのずと書いている詩人の肉体、生き方となって整ってくる。
ここには絹川自身がみつけだした「思想」がある。
それは流行の海外の哲学者の「思想」のように、華々しい印象を与えないかもしれないが、確実な「思想」である。
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「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
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ここをクリックして2500円(送料、別途注文部数によって変更になります)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
なお、私あてに直接お申し込みいただければ、送料は私が負担します。ご連絡ください。
「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
絹川早苗『ボタニカルな日々』は立ち止まって読む詩集だ。「木とともに」が印象に残る。
木は 人と同じように群れをつくる
仲間どうし 助けあって育ち
林や森になっていく
それが幸せな生き方のようだ
いきなり「人生訓」のように始まるので、ちょっと読むのがつらい気持ちにもなるのだが、私は木が好きなのでつづきを読む。
こう展開する。
大津波で奇跡的に残った
岩手の 一本松は
どんなに寂しかったことだろう
「寂しさ」を思い、そこに共鳴している。ジャーナリズムに登場してくる「一本松」とは少し違う。そこが、なんとなく、いい感じだ。「人生訓」から少し引いている。押しつけがましさがない。
ここに絹川の人柄が出ているのかもしれない。人柄というのは、私の考えでは「思想」のことである。そして、「思想」というのはあくまでその人の「肉体」とともにある。言い換えると身近なものと一緒になって動くことばだ。それを証明するように、絹川のことばは「一本松」から離れ、「寂しさ」を身近なものを通して語り始める。本当に知っていることを語り始める。
人の手で植えられた庭木たちは
それほど幸せではないのかもしれない
木にはそれぞれ理想とする姿があり
広葉樹は 幹を空に向かって真っすぐのばし
枝を斜めに 突き出す腕のように力強く広げること
この庭のシンボルツリーのカエデは
太陽に向かって真っすぐに立つことができない
幹は少し腰を曲げ 枝も 歩くときの傘のように
かしげた形に広げている
それは 北斜面で
入り口近くの地面も少し傾いているので
根を均等に広げることができず
片方を太くして踏ん張るしかなかったからだ
「根を均等に広げることができず」は実際に肉眼で確かめたことではなく、想像力を働かせてつかんだ「推定」なのだが、その前の「太陽に向かって真っすぐに立つことができない/幹は少し腰を曲げ 枝も 歩くときの傘のように/かしげた形に広げている」が肉眼でつかみとっていることなので、まるで肉眼で確かめたかのような強さで迫ってくる。「肉体」に支えられた正直な想像力だ。想像力とは事実をゆがめてとらえる力だと言ったのはバシュラールだったと思うが、こんなふうに正直な印象の想像力もある。これもまた人柄というものだろう。
「片方を太くして踏ん張るしかなかったからだ」には、きっと絹川の、自分の肉体をゆがめながら踏ん張った体験が隠れている。肉体をゆがめるのではなく、精神をゆがめてかもしれないが、精神などという目に見えないものではなく、やはり肉体そのものだと私は感じる。
こういうことばの動きが、私は好きだ。
木に思いを寄せ、木のことを書いているのだが、それがおのずと書いている詩人の肉体、生き方となって整ってくる。
ここには絹川自身がみつけだした「思想」がある。
それは流行の海外の哲学者の「思想」のように、華々しい印象を与えないかもしれないが、確実な「思想」である。
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「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
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なお、私あてに直接お申し込みいただければ、送料は私が負担します。ご連絡ください。
「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
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(4)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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