詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高校改革という罠

2019-01-04 13:18:34 | 自民党憲法改正草案を読む
高校改革という罠
             自民党憲法改正草案を読む/番外248(情報の読み方)

 2019年01月04日の読売新聞朝刊(西部版・14版)。1面の見出し。

高校普通科を抜本改革/真学科や専門コース/21年度目標

 前文には「政府・自民党は高校普通科の抜本改革に乗り出す。画一的なカリキュラムを柔軟に見直し、専門性の高い学科とすることが柱だ」と書いてある。これでは何のことかわからないだろう。
 具体的にはどういうことか。

「高校は『大学への通過点』の位置付けが強まっている」(文科省幹部)のが現状で、政府・自民党は進学者の7割超を占める普通科を見直し、高校の魅力を高める必要があると判断した。
 普通科は、卒業に必要な74単位のうち国語や数学、理科などの普通教科10科目と総合的な学習で38単位を取れば、専門教科を学べる。しかし、実際には残り36単位も大学入試に絡む教科に偏っている。

 これは、高校生側からの要望を反映したものか、というところからみつめないといけない。
 高校の魅力とは何か。大学進学率が高まっているとき、その魅力はよりよい大学への進学率と比例するはずである。「よりよい大学への通過点」を高校生は求めている。
 これを「見直す」というのは、つまり大学受験用のための学科を減らすということにならないか。
 その結果、どうなる? 大学入学者が減るに違いない。大学に合格できなくなる。そうなると大学も減るだろう。学生が入学して来なくなるのだから。
 これって、だれの要望? 高校生が、大学なんか行きたくない。早く働きたいと言ったのか。
 そうではないだろう。
 人手が足りない。早く若者を労働者にしろ、という要求が経済界から出てきた。それに対応したものに違いない。
 政府の「教育無償化」は基準を満たさない大学には適用されないという方針が先に出されたが、これも大学潰しである。大学で遊んでいる(?)ひまがあったら、さっさと働かせろ、ということだろう。
 労働力の確保に、政府と企業が躍起になっているのだ。
 少子化が政府と企業の責任にあることをほうりだして、人手を集めることだけをかんが始めている。収益を確保することだけを考えている。

 思い出すのは、私が高校受験のころである。もう50年以上も前である。当時、富山県では「三七体制」ということばが問題になっていた。富山県の普通科、実業科の割合は三対七である。これは、当時の大学進学率が三割というのを反映している。大学進学率は三割なのだから、残りはすぐに労働力になる実業科で充分というのである。(宮崎県も、当時おなじ比率だった。)このことは、北日本新聞がキャンペーンをやって、新聞協会賞も獲得したと思う。合い言葉(?)は「十五の春を泣かすな」というようなものだったと思う。
 しかし、高校の実業科を出ても、望む就職先があるわけではない。私は、そのことを身をもって体験している。就職先がなかった。それで急遽進路を変更して大学へ進学することにしたのだ。家業をつぐ以外の同級生も、ほとんどが学んだ学科とは関係ない企業に小食している。実業高校で学んでいる高校生には申し訳ないが、高校で学んだことがそのまま職業に結びつくということはほとんどない。ただ早く職場にほうりだされるだけである。
 これが目的なのだ。
 政府(企業の言いなりの安倍政権)は入管法を改正し、外国人労働者を確保しようとしているが、破綻するのは目に見えている。低賃金でこきつかうだけこきつかって五年たてば母国へ追い返すという方針が知れ渡れば、外国人は日本にやってこなくなる。日本国内で若い労働者を確保するしかなくなる。その準備なのである。
 大学を卒業し、企業をリードしていくような人材は、もともと限られている。そうなれない人間は、単純労働者にしてしまえ、という作戦である。
 まず外国人労働者を日本で働かせ、賃金水準を引き下げ、賃金が下がったところへ高卒の若者をつぎ込む。企業の経費は下がり、同時に労働力を確保できる。
 これが狙いである。

 日本の高校生の学力をアップさせ、それを引き継いで大学のレベルアップもはかり、国際競争力を高めるというのなら、もっと違う方法を考えるべきである。教員を増やし、教育を充実させることの方が先だろう。
 だいたい「学問(教育)」というのは批判力を育てることが目的のはずである。
 上の命令を聞いてしたがう人間を育てるだけなら、教育ではなく「調教」である。

 安倍の改憲論について疑問を書くとき、私は何度も教育のことを問題にしてきた。安倍の狙いは、教育を通じて、人間を洗脳することである。独裁を強めることである。
 「新しい三七体制」が始まろうとしている、と見るべきである。
 半世紀前の北日本新聞のキャンペーンをぜひ、読み直してもらいたい。「産学官共同体」の暴力が再び始まろうとしていることに、目を向けるべきだ。






#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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池澤夏樹のカヴァフィス(16)

2019-01-04 09:55:18 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
16 欲望

壮麗な廟に安置された美しい肉体--
満たされることなく過ぎた欲望は
そのようなもの。一夜の快楽も許されず
輝く朝を一度も知らぬ間に。

 池澤の書いている注釈がわからない。

 この詩はたった一つの比喩からなりたっている。すなわち満たされずに過ぎた欲望は美しい死体。ここに言う欲望とは恋の望みの肉体的側面。比喩が一目瞭然でないだけに、その真の意味の方へと想像力をうながす。

 「そのようなもの」と明確に書いているから、「比喩」は一目瞭然である。
 わかりにくいのは「美しい」の定義だ。ほんとうに「美しい」のか。
 「美しい」ものは「輝く」ものである。「輝き」を「知らぬ」とは、「輝き」を自分のものとしてもったことがないということだろう。輝くものに出会ったとき、ひとはその輝きそのものになる。輝くものが美しいのではなく、輝きを見つけた人が美しいのだ。
 そういう瞬間を知らないなら、それは「美しい」とは言い切れない。
 むしろ「むなしい」肉体ではないのか。反語なのだ。つまり、否定を含めた比喩なのだ。
 だからこそ、「むなしい」の反対のことば「満たされる」が次の行に出てくる。一夜の快楽、それさえも味わうことなく(満たされることなく)死んでしまうのは、「むなしい」。「美しい」というのは、カヴァフィスではなく、他人の評価にすぎない。それを批判している。

 他人に評価されなくても、一夜の快楽の中で燃え上がればいい。
 「美しい死体/むなしい死体」を見て、カヴァフィスは、そう思っているのではないのか。もし、恋の快楽に身を任せていたら、恋人の記憶の中で、その肉体は生き続け、輝いているだろう。
 そう思い、「美しい」死体を悲しんでいる。

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