詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本育夫「書き下ろし詩集『HANAJI花児』」

2019-07-23 10:51:02 | アルメ時代
山本育夫「書き下ろし詩集『HANAJI花児』」(「博物誌」39、2019年08月01日発行)

 山本育夫「書き下ろし詩集『HANAJI花児』」は「博物誌」復刊にあわせて書かれたもの。二十一篇の詩。全体の特徴を書いてもしようがないが、目につくのはことばの繰り返しである。

19 緊急字体宣言

ドトールコーヒーの幕間から、ちいさな物語がぞ
ろぞろと避難している、恐ろしい声が警報ボタン
を押している、押している、遠くからサイレンが
やってきていま目の前をヒャンヒャンヒャーと通
り過ぎた、歯ぎしりをして投げつけるがその圧倒
的な気分に砕かれていく、砕かれて、男はその字
体を変換する。

 「押している、押している」「砕かれていく、砕かれて」。なぜ繰り返すのか。繰り返しの間(ま)に、ことばにならないものが存在している。ただ繰り返しているのではない。しかし、その「ことばにならないもの」とは何か。ことばにしにくい。だからこそ、わたしはそこでつまずく。立ち止まる。
 「警報ボタン」を押したのはだれか。ここには書かれていない。学校文法的には「押している」の主語は「恐ろしい声」になるが、「声」がボタンを押せるわけがない。だれかが押している。ほんとうはだれかがいるということを、ことばにしないまま確認し(空白のまま確認し)、二度目の「押している」とつづける。このとき山本は(と、とりあえず書いておく。主役は後半に「男」という形で姿を現わす)、見えないだれかを意識している。見えないだれかによって、いまの「避難/警報」が作り出されたものだと意識している。その「意識」を明るみに出すために、山本は「押している」を繰り返す。
 「砕かれている、砕かれて」はどうだろうか。男は「砕かれている」と、まず気づく。そして「砕かれた」自分を意識し、そこから動き始める。「砕かれた」ままではなく、また「砕かれた」と過去形にしてしまうのではなく、「砕かれて(いる)」という現在から動き始める。それは「砕かれて」しまわない、過去形にならないという意識であり、その意識が「緊急事態」を「緊急字体」という具合にことばをねじらせる。
 ことば(あるいは文字)が男にとっての「抵抗」の意識をあらわす。ここに書かれているのは、書かれていない発見と抵抗である。書かれていないものが書かれているというのは矛盾だが、矛盾のなかに「事実」がある。どういう事実かというと、山本のことばが動いたという事実である。
 私はいま引用した「意味」の強い詩よりも、露骨な肉体と「ことば」のぶつかりあいを感じる作品の方が好きだ。

13 小さい、っの字

駅前にある黒くて細長い巨大な容器の内側からあ
ふれ出しているそのあふれは、遠い山岳のひとし
ずくに由来し、はるばるとここまできた、そして
成熟したことばになって地中深くから湧き出して
いるのだその午後にも、男はその水を飲み下し軽
いゲップをする、くちびるに小さい、っの字をひっ
かけたまま

 この詩にも「あふれ出しているそのあふれ」という繰り返しがあり、やはり繰り返しの間には、踏みとどまりと再出発(切断と接続)があるのだが、その「間」にどんなことばが書かれていないのか探し出すのはむずかしい。ただ切断と接続があるとだけ意識しておく。この切断と接続は「湧き出しているのだその午後にも」というねじれた文体の中にもある。学校文法のようにととのえてしまうことのできないものが人間のことばにはある。それをそのままの形で山本は書き、書くことで山本がつまずき、それを読ませることで読者をつまずかせる。
 この違和感は、「ゲップをする、くちびるに小さい、っの字をひっかけたまま」という奇妙な日本語を「肉体」のなかから押し出してしまう。
 「っの字なんか、ひっかからないだろう。見たことないぞ」と私は文句を言ったりする。つまり、文句を言うことで、私のことばが動き出すまでの時間を埋める。そして態勢をととのえ……。
 ゲップをする。ゲップは胃のなかにたまった空気を吐き出すことか。しかし、それは吐き出しきれるか。何かが残る。それを「小さい、っの字をひっかけたまま」と山本は書く。「小さい、っ」は「ゲップ」の「ッ」かもしれない。「字」と山本は書くが、まあ、意識のようなものだ。つまずいたときの「あっ」の「っ」かもしれない。肉体は動く。それが何のための動きか、わからない。でも、そういうものがあって、ことばは「学校文法」から逸脱して、どこにもなかったことば(比喩)として、「いま/ここ」にあらわれてくる。ことばは「意識」だが、「意識」はまた「肉体」でもある。
 これ以上書くと、「結論」のための「嘘」になるので、ここでやめておく。

15 おおお

ファミリーマートの主人は、四六時中のどにたま
るたんを吐き出すためにグググとかガガガとか咳
払いしている、咳き込みすぎて胸が痛くなるころ、
吐き出したことばが店内におびただしくあふれて
しまい、ドアの隙間からシュウシュウと吹き出し
ている、そのドアを男は激しく蹴破って、おおおお、
と声をあげる、ひとかたまりの感情がごろりと現
れる

 「グググ」「ガガガ」はことばではなく、「音」である。しかし、男(山本)はそれを「ことば」ととらえる。「主人」以外には「グググ」「ガガガ」はたしかに「音」にすぎないかもしれないが、苦しんでいる主人にとっては「意味」をもったものだろう。思い通りに「グググ」「ガガガ」と吐き出せたときは、「肉体」が解放される。こういうことは咳き込んだことがあるひとならわかるだろう。あれこそが「肉体」の「意味」だと。
 こういうきわめて「個人的な肉体」(したがって普遍に達した肉体)とどう向き合うことができるか。男は「おおおお」と声を上げる。「グググ」よりも「ががが」よりも一つ音が多い。濁音に対抗するためか。この「おおおお」を男は「感情」と呼んでいる。(あるいは「おおおお」によって洗い粗い清められた「グググ」「ガガガ」が感情なのかもしれないが。)その「感情」はただの「感情」ではなく「ひとかたまりの感情」である。「かたまり」というのは「内部」が結びついている状態だ。それは「整理」されていない。いまはやりのことばで言えば「分節」されていない。「未分節(ほんとうは無分節というらしいが)」のものである。これが「分節」されると「ことば」になり、「認識」になり、共有されるものになるのだが、それはちょっとおもしろくない。「たん」のように、思わす目を背けてしまう汚い(?)かたまりのままほうり出す。
 ぞっとするでしょ?
 これが、詩。
 「意味(頭)」ではなく、まず「肉体」が反応してしまう。ひるんでしまう。つまずいてしまう。そこからどうやって立ち直って、自分のことばを動かすか。
 山本のことばを「味わう」のではない。自分の「肉体」を動かす。吐き出されたものの上に、自分の「肉体」のなかからことばを吐きかけるのか、知らん顔して通り過ぎるのか、あるいは「親切」に後片付けをするのか。
 大げさに言うと、読者は「生き方」を問われる。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(65)

2019-07-23 09:01:55 | 嵯峨信之/動詞
* (生きているときも)

蟻は
せいいつぱい太陽を浴びて這つている

 「這う」。確かに蟻は人間の目の高さから見ると「這う」ように動いている。けれど蟻に「這う」という自覚はないだろう。
 嵯峨は「這う」という動詞のなかで蟻になっている。いや、「這う」という動詞になるために蟻を利用している。蟻を描くのではなく「這う」を突き詰めたいのだ。
 「這う」という動きは「困難」「つらさ」といっしょにある。

糸のような時の上をたどりながら
それでもあるかないかの死の影を落している

 「這う」は「たどる」と言いなおされている。「死の影」が蟻の「同行者」になる。








*

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