ロンサーフの夜 | |
河野俊一 | |
土曜美術社出版販売 |
河野俊一『ロンサーフの夜』(土曜美術社出版販売、2019年06月30日発行)
河野俊一『ロンサーフの夜』は白血病、滑膜肉腫、大腸がんのあと死亡した娘のことを書いた詩集である。
「十一月五日、晃子を入院させる」という作品に強い力がこもっている。
大分から長崎は遠い
十二時二十五分に発ち
湯布院を通り水分峠を越え
豊後森を過ぎ日田を抜け
浮羽で十四時五十四分休憩
と「記録」のようなことばが並ぶ。
長崎までは七時間だ午後八時までに
晃子の働く店に着けばよい
と思いながら、異変の知らせを受けて車を走らせている。しかし、思うようにはいかない。
久留米からの国道二四六号線は
最初は滑らかな運転だったのに
次第に車が満ちてきて絡まる
あの時こうすれば
もっとこうしていれば
というのは
道の選択も同じだ
鳥栖から国道三四号線に入っていれば
甘木の南を抜けていれば
などと思いながら
またもや渋滞に巻きつかれる
(略)
注意して見れば
熱気球とかバルーンとかいう文字が
目に入ってくる
こんな大会の真っ只中の道に
入り込んでしまったのだ
握りしめる 噛みしめる
指をほどく 膝に力を入れる
(長崎は遠い)
人は、車は、河野の思いなど知らない。非情である。河野にできることは少ない。「握りしめる 噛みしめる/指をほどく 膝に力を入れる」ということが車の流れをスムーズにするわけではない。でも、そうするしかない。
仕事場に着き、次は晃子のアパート(たぶん)へ行く。そこで日常の整理をし、次の朝、入院先の福岡の病院へ車を走らせる。
出島道路を出て拘束に入る
距離と時間を計算する間は
安らげる
鳥栖ジャンクションで
進行方向を東から北へと変える
目的地は
確実に近づいている
太宰府インターで降り
三号線を三笠川まで
宝町を抜け
岡本を通り
あみだクジをなぞるように
老司で右折する
国立九州がんセンターは近い
固有名詞(土地の名前)が正確に、順序通りに書かれる。地理に詳しい人なら、この固有名詞を読めば、車を運転士ながら見える風景のすべてまでを思い出せるだろう。
より早く病院にたどりつきたいという思いが、次のポイント次のポイントを思い起こさせるのか。そうかもしれない。しかし、それは運転をしていたときのこと。いま、再び、その地名を正確に書き残すのはなぜなのか。「目的地は/確実に近づいている」と頭の中で繰り返しただろうことばも書かれているが、そういう「直接的な思い」は少ない。正確に、正確に、その日のことをドキュメンタリーのように書いている。
どうしてだろう。あの日を忘れないためか。もちろんそうだろうけれど、忘れないためというよりは、何度も何度も思い出し、完全に覚えてしまったのだ。河野の「肉体」にまでなってしまっているのだ。
信号を右折して
正面を左折して
もう一度左折して
駐車場の入り口だ
そういう「地名」ではないもの、けれど運転するときに絶対に必要な動作、それが「肉体」そのものになっている。
このとき河野はいろいろなことを思っていたはずである。その「思い」ではなく、そのときの「肉体」をそのまま書いている。
この「肉体」感覚が、私は車を運転しないが、とても強く響いてくる。河野が感じている「不安」「焦り」を「意味」としてではなく、「肉体」として感じる。
紙を何枚も手渡される
血圧を測ったり
主治医に説明を受けたり
紙にサインしたり
その時には
そこに何が書かれているのか
分かってはいるのだが
そのあと
どれをどの順にやったのか
ちっとも覚えていない
長崎からここに来るのは
大村を通って佐賀を通って
鳥栖を通ってと
覚えているのだが
いやそれも
あらかじめ位置を知っていたからか
「分かっている」と「知っている」、「覚えている」と「覚えていない」。ここに不思議な時間がある。
道順を知っている、というのは当然のようであって当然ではない。
娘が元気であったときも、河野は、何度も道順をたどり直したのかもしれない。もしか何かあったときには、と考えながら。いや、そうではないだろう。何もかもが終わったあとで、河野は、やはり何度も何度もその日の道をたどったのだ。記憶のなかで。そのために道順が「肉体」になってしまい、あの日それを知っていたのか、それとも繰り返し反芻したために知っていたと思ってしまうのか、区別がつかなくなっている。
福岡にたどり着いて入院する晃子は
遥か長崎で太腿に汗滲ませて
通院と治療費のために働いていたのだ
疲れて痩せた晃子が
パジャマに着替えて
ベッドの上に座っている
秋の葉脈のように薄い身体で
文庫本のページを開いて
あ、と私は声をあげる。
生きている晃子が見えるからだ。もちろん入院したばかりのこの日、晃子は生きている。死んではいない。しかし、詩集を読んでしまった私は晃子が死んでいることを知っている。河野が記憶を書いていることを知っている。わかっている。
しかし、その知っていること、分かっていることを忘れてしまって、私は晃子がいると感じる。
「河野の娘」がではなく、思わず「晃子」が書いてしまう切実さで、それを感じる。
私がそう感じるくらいだから、この詩を書いている河野にとっては、その日の晃子はいつも、いまも、これからも生きているのだ。
こういう言い方が適切かどうかわからないが、このときの「晃子」と感じる感覚、呼び捨てにしてしまうしかない感じは、詩の途中に出てくるいくつもの「地名」に似ている。それはその土地(地点、道路)の名前であって、私のものではない。けれど道路を走っているとき、その「地名」は単にその「地点」の名前ではなく、自分の「肉体」にとって刻印された何か、絶対にその「地名」でないといけないもの(別な「地名」であったら、まったく違った場所に行ってしまう)なのである。それと同じように、詩集を読んできて(読み終わって)、思い返す瞬間、その「晃子」というのは単なる「名前」ではなく自分の「肉体」と結びついた存在になっていると感じる。自分の「肉体」(肉親)であるから、私は「敬称」はつけない。河野が「晃子」と呼び捨てにするように、私も「晃子」と呼び捨てに書いてしまう。
そういうところまで、河野のことばは、私をひっぱって行く。
*
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