洗面器 | |
林嗣夫 | |
土曜美術社出版販売 |
林嗣夫『洗面器』(土曜美術社出版販売、2019年06月30日発行)
林嗣夫『洗面器』は、いままでの林の詩とは違っている。私だけの勘違い(印象)かもしれないが、「林嗣夫」という名前がなかったら、別のひとの詩集と思ったかもしれない。もちろんいままでの林の詩を思い出させる作品もあるが、あ、林はこんな詩も書くのかと驚かされる作品がある。
「菜の花」は菜の花を部屋に飾る詩である。飾ったあと、「火曜サスペンス劇場」の主題歌を聴く。すると、
出会った言葉はやがてすれ違い
欲望となり
土の中に埋められた白い女の手首となる
出会った愛はやがてからまり
早春の夜明けの橋を渡りきれずに
突き落とされた男の血よりも赤い血となる
この「火曜サスペンス劇場」の「要約」の仕方に、私は驚いた。こういう「要約」が林のなかで動いているとは知らなかった。
出会ったのは「男と女」ではなく「言葉」。「すれ違う」というのは、林の詩の作り方を思わせるが、その「言葉」が「欲望となり」「女の手首となる」が私の記憶に残っている林とは違う。「言葉」がことば以外のものに「なる」ところまでは同じなのだが、変化した先のものがいままでとは違う。
「出会った言葉」は「愛」に「なる」。そして「からまる」。そして「突き落とされた男の血よりも赤い血」と「なる」。書かれていない「なる」と書かれている「なる」。そのなかに、いままで書かなかった林が動いている。
「乾いた音」には詩と版画のコラボレーション展「愛ひととき」に寄せてという註釈がついている。版画に触発されて書いたものだろうか。
女は蛇のように脱皮するのだ
やさしく抱き 髪をなで
愛しい思いで見つめていると
おもむろに自分の皮膚を脱ぎはじめる
すこし疲れたからだでベッドに並んで横たわり
ほとんど意味もない言葉を交わしているとき
私とは反対側の手
(おそらく無意識に--)
女は脱ぎ捨てた自分の半透明の皮膚をもてあそぶ
そのセロファンのような
乾いた音を聴くのが好きだ
「セロファンのような」という直喩が、直前の「半透明の皮膚」ではなく「乾いた音」へと飛躍していくときの超越性。詩の特権的暗喩。暗喩でしか聞き取れない「音」があり、林はそれをことばにしている。
林は「耳の人」だったのか、と私は驚いたのだ。
「ことばの人」だから、もちろん「耳の人」でもあったのだろうけれど、私はどちらかというと「論理の人」と思い込んでいたので、「肉耳」とでもいいたくなるような「絶対感」に驚いたのだ。
「ペットボトル」は「耳の人」と「論理の人」をつなぐ作品といえるかも。庭に落ちていたペットボトルが「カコン カラコロ コロン コロ」と転がっていく様子を描いている。
空っぽ、をため込んで
ため込んで
その重さにうんざりしていたところを
思いがけなく
新しい風と光の中に解き放たれた
転がるごとに
空っぽ、を振りこぼし
空っぽ、をまき散らしていく
かるく跳ね 震え
そして止まって横になっても
ペットボトルはゆっくりと
呼吸をつづけた
「空っぽ、を振りこぼし/空っぽ、をまき散らしていく」の「空っぽ」が「カコン カラコロ コロン コロ」よりももっと透明に、私の耳には聞こえる。
「呼吸をつづけた」という「暗喩」は「論理的暗喩」である。
記憶に刻まれている林の姿にいちばん近いのは「紙のことが」という作品。
わたしがいちばん好きな形は
髪飛行機
小さな思いを乗せて
少し前へ飛んでいく
〔追記〕昔、祖父母が紙の原料となる楮やミツマタを採
って暮らしを立てていた。肌寒い早春、山奥の作業小屋
でミツマタの大きな束を釜で蒸し、むしろを敷いた土間
に引き下ろす。湯気の立つ中で一本一本皮を剥ぐ。わた
しも、飛び散った黄金色の花の香りの中で、仕事のまね
ごとなどしながら遊んだものである。その頃の祖父母の
思いは、きっと、幼いわたしを少し前へ飛ばすこと。
紙飛行機が「少し前へ飛んでいく」と「幼いわたしを少し前へ飛ばす」が重なり、胸が熱くなる「比喩」の世界が浮かび上がる。「論理」が「比喩」になる。「比喩」が「論理」になる。ことばと、そういう世界が結晶する「少し前」を飛んで行く。
「追記」と林は書いているが、むしろ、前半が「前書き」と読める構造になっている。こういう「しかけ」も「論理の人」につながる。
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