詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

参院選の勝敗

2019-07-24 22:32:55 | 自民党憲法改正草案を読む
参院選の勝敗
             自民党憲法改正草案を読む/番外278(情報の読み方)

 参院選の「勝敗」について、安倍の「改憲狙い」とからめてマスコミがいろいろ書いている。それはそれでひとつの分析だが、今回の「勝敗」を言うなら、「れいわ(山本太郎)が勝ってマスコミが負けた」ということにつきる。
 マスコミは、「政党要件」を適用することで(たぶん)、「れいわ」について報道しなかった。しかし選挙後、「れいわ」から当選者が出て、政党要件を満たすと、結果を伝えるしかなくなった。(各社が一斉に報道をしなかったのは、事前に「申し合わせ」があったのだろう。自主規制か、権力の圧力かは、これからわかることだろう。)
 こうなることは、選挙がはじまったときかわかっていた。少なくとも「れいわ」への寄付が1億円を突破した段階でわかったはずだ。さらに街頭演説の盛り上がりを見れば、絶対に気づくはずだ。
 すでにフェイスブックなどで書いてきたことだが、「政党要件」の「壁」があるというのなら、ほかの「要件」を適用して「社会現象」として取り上げることができたはずだ。障害者、難病患者、性的な多様性を生きる人、学者、正規社員になれなかった人、タレント。彼らは何を訴えているか。
 「れいわ」の候補者たちは、山本太郎をのぞけば、「大局的な政治」というよりも「自分自身の体験」を「自分のことば」で語った。現実に起きていることを、体験したままに語った。現実に起きている問題、困っている問題を語った。それを解決できなくて、何が政治だろう。
 そうしたテーマは「国会」になじまないというひともいるが、当事者が国会で訴えるしか方法はないと決断させるくらい、いまの政治は「当事者」を無視したところで動いている。沖縄・辺野古の基地建設や秋田の陸上イージス配置問題を見れば、無視された「当事者」の声を代弁するひとが当選したことがわかる。難病患者や障害者の「当事者」の声を代弁する人がいないから、「当事者」が叫ぶしかなかった。それくらい日本の政治はひどいものになっているのだ。
 この「叫び」はマスコミは無視したが、SNSや街頭演説で多くの人に共有された。マスコミだけがそれを共有しなかった。マスコミは「社会の動き」をつかみとることができなかった。マスコミは、SNSと街頭演説に負け、れいわに負けたのだ。多くの国民が共有しているものを共有し、さらにそれを広げていくということができなかった。
 そして負けたのに(負けたからこそ?)、議席を減らした自民党を「勝った」と持ち上げ、「改憲はどうなるか」という「大局報道」に切り換えることで、負けをごまかしている。
 これもすでに書いたことだが、こんなことをしていたら、マスコミは民主主義を破壊したと批判されることになるだろう。

 この選挙期間中、マスコミを少しにぎやかにした話題に、映画「新聞記者」のヒットと、久米宏のNHK番組内でのNHK批判がある。両方とも、「よくやった」という声で受け止められた。しかし、それは私から見ると、両方とも物足りない。映画では安倍ということばはまったく出てこない。安倍批判になっていない。久米宏の発言も、予算と人事に関する「一般常識」であって、どの番組のどの部分がジャーナリズムとして物足りないかはひとことも言っていない。具体的ではない。やはり安倍という名前を出さない批判にすぎない。
 こんな中途半端な批判を「よくやった」と評価するのは、すでに権力に負けている証拠である。「負けているなかで、少し反撃した」というだけであって、安倍はかすり傷を受けたとも感じていないだろう。



 ちょっと脱線したが、今回のれいわの活動は、今後のさまざまな運動の展開の仕方をいろいろ教えてくれた。
 マスコミが権力追認しかしないなら、マスコミをあてにしない。実際、SNSと街頭演説だけで「訴え」を広げることができる。資金も調達できる。マスコミがやらない方法を考え出さないといけない。
 ついでにいうと、マスコミ頼み、労組頼みの立憲民主とは違う方法を考え出さないといけない。
 すでにマスコミは、れいわにマスコミが負けてしまったことを隠すために、改憲論議に加担し始めている。自民党が議席を減らしたのだから、改憲は見送りべきだとは言わずに、今後どう展開するかということしかいわない。議席を三分の二まで持っていくために、どの党を引き込むか、どの党なら応じるか。そういう「予測」を展開している。これはそのまま自民党の「野党切り崩し作戦」を追認するものだ。言いなおすと「改憲推進論」を展開することで安倍にすり寄り、マスコミの「予測」通り改憲が成立した。マスコミの「読み」は正しかった、と主張するつもりなのだ。あるいは、国民に「あきらめ」をすりこむのだ。選挙の情勢世論調査のように、「結果はこうなりますよ」と予告することで。
 これに対抗するには、やはり、れいわの作戦がいいと思う。戦争になったら、難病患者、障害者はどうやって逃げればいいのか。だれが避難を助けてくれるのか。そういうところから「声」を集めていく。高校野球ができなくなる。戦争になっても高校野球をする方法を憲法は考えてくるのか。コンサートが聞けなくなる。戦争になっても、ライブで大騒ぎできることを安倍は保障するのか。多くの人は、それよりももっと大事なものがある、というだろう。しかし、人間にとって自分が生きていくこと、楽しむこと以上に大切なものがあるだろうか。戦争になったら何もかもがおしまいなのだから、戦争しないためにどうするかを考える。「実感」から、出発し、「実感」を思想にしていく。それは「ばらばら」の思想だが、ばらばらだからこそ、強い。「一致団結」する必要はない。ずれながら動いていく。
 れいわの候補者の動きが、そんな感じがした。山本をふくめて10人が「おなじ」という感じではない。むしろ、言っていることがひとりひとり違う。山本を別にすれば、9人は自分の知っていることしか言わない。「一致団結」ではなく、ずれている。そのずれが広がりになっている。9人のうちのだれかに共感できる。
 ひとりひとりが、憲法改正案のここがおかしい、ここは困る、と言えるようになればいい。意見が「ばらばら」になれば、それはマスコミのような組織では「まとめる」ことができなくなる。マスコミは「結論」を言わないといけないと考えているから、どうしても「結論」に向けてしか動かない。マスコミがまとめきれない(追いかけられない)くらいにまで、思想をばらばらにする。ひとりひとりが自分の「声」に忠実になる。
 金集めも、れいわは巧みだった。企業が献金してくれないなら個人に呼びかける。企業と違って個人が献金できる額は限られている。私は金がなかったので、今回は千円寄付した。限られた額でも、寄付したあと寄付したよ、と友人に話してみる。何人かはきっと同じように寄付してくれるだろう。私の場合、実際にひとりはまず三万円寄付し、その後追加寄付もしている。人のつながりを利用して、連携する。組織ではなく、ばらばらの個人が、ばらばらのまま、生きていく。ここでも「一致団結」というよりは、ずれながら、ずれていることを許して広がっていく。
 ずれというのは、具体的には、こういうことだ。今回私はれいわに寄付した。けれど選挙では今までどおり共産党に投票した。人の考えというのは100%だれかと一致するということはないだろう。だから寄付したからといって、一致して行動する必要もない。できる範囲で行動する。それが自民党やマスコミが作り出す「流れ」に対抗する方法になる。「自分」を確立することになる。


 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(66)

2019-07-24 09:19:03 | 嵯峨信之/動詞
* (強い力でさえ)

耕やされた精神の所産である

 「耕やされた」は「精神」を修飾する。しかし精神を耕すのは、誰(何)なのか。精神はみずからを耕すのではないだろう。
 「耕やされた精神」ではなく「耕す精神」が何かを生み出す。「精神」ではなく、「強い力」を。
 修飾語と修飾されることばを入れ換え、動詞を動かしてみると、「力」が見えてくる。力はいつも動詞の中にある。










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