詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

estoy loco por espana (番外34)Joaquinの作品

2019-07-27 22:29:50 | estoy loco por espana



この作品も男の頭部、顔に見える。
直線が作り出すさまざまな空間、あるいは穴。
穴と言った方が肉体的な感じがする。
人間の顔にはいくつもの穴がある。目、鼻、口、耳。
その穴は肉体の内部と外部をつなぐ。
同時にその穴は肉体の内部と宇宙をつなぐ。

este trabajo tambien se parece a la cabeza y la cara de un hombre.
varios espacios o agujero creados por lineas rectas.
se siente fisico decir que es un agujero.
hay muchos agujeros en el rostro humano. Ojos, nariz, boca, orejas.
los agujero conectaa el interior y el exterior del cuerpo.
al mismo tiempo, los agujeros conectan el interior del cuerpo con el universo.
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ガブリエレ・ムッチーノ監督「家族にサルーテ!イスキア島は大騒動」(★★)

2019-07-27 14:15:08 | 映画
ガブリエレ・ムッチーノ監督「家族にサルーテ!イスキア島は大騒動」(★★)

監督 ガブリエレ・ムッチーノ 出演 ステファノ・アコルシ、カロリーナ・クレシェンティーニ

 登場人物が多すぎて、ついていけない。イタリアでは有名かもしれないが、あまり顔なじみのない俳優ばかりなので、人間関係が覚えきれない。
 ストーリーは両親の「金婚式」の祝いに集まった家族(親類?)が嵐のためにフェリーが欠航して帰れなくなる。どうしても一泊しないといけない。あれこれしているうちに、登場人物それぞれの家族の問題(主に男女のいざこざ、あたりまえのことながら)が噴出してきて、ドタバタにある。
 というものなのだが。
 これが意外と「ごちゃごちゃ」してこない。「ひとつ」にまとまっていかない。つまり「いくつもの」どたばたを見たという感じは残るのだが、その「どたばた」から「結論」が出てくる(生まれる)という感じがない。これが「登場人物が多すぎる」という印象につながる。どんなに登場人物が多くても、それが「ひとつ」のストーリーに向かってまとまっていくなら、なんとなく「印象」は「ひとつ」になる。
 この「ばらばら」感は、いったい何なのか。
 と考えたとき、思い出すのは、和辻哲郎「イタリア古寺巡礼」。そのなかで和辻はシスティナ礼拝堂の壁画を見たときの印象を、「こんなにごちゃごちゃ描いているのに、ごちゃごちゃしていない。ここにはローマ帝国の『分割統治』の思想が生きている」というような具合に書いている。
 「分割統治」。これが、たぶん「イタリア人気質」なのだろう。この映画では、それは「両親」がいて、「子供たち」がいて、その「子供たち」がそれぞれ「家族(家庭)」をもっている。騒動は各家庭で起きる。「分割統治」だから、騒動は常にそれぞれの「家族(家庭)」のなかで展開される。そして、収束する。「家族」と「家族」が交渉しているように見えるシーンもあるが、それは「形式的」交渉であって、その交渉では登場人物の「心情(感情)」は変化しない。「心情(感情)」が変化するのは、あくまでもそれぞれの「家族(家庭)」内部の男と女の問題である。言い換えると、だれひとりよその家族(家庭)の恋愛問題にふれることで、触れた人自身の「心情/恋愛」が変化するわけではない。
 わっ、ばらばら。ぜんぜん「結末」に向かって動いていく「ひとつ」のストーリーがない。
 で、まあ、イタリア人ってこんな感じなのかと「理解」するには役立つが、そこから影響を受け、考え込むという映画ではないなあ。なんだか「めんどうくさい」という印象が残る。
 (KBCシネマ2、2019年07月27日)

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(69)

2019-07-27 09:32:01 | 嵯峨信之/動詞
* (昼はどこにもない)

あるのは夜ばかり
ぼくの顔から 手足から 全身から昼がぬけ落ちてしまつたのだろう

 「ぼくの」顔から、手足から、全身から昼が抜け落ちても、それは「ぼくの」ことであって、「ぼく」以外のところに昼は存在しているかもしれない。むしろ、「ぼく以外」のところに昼が存在するから「ぼくから」昼が抜け落ちたと感じるのではないだろうか。もし、「ぼくの周囲」に昼が存在しないのなら、「ぼくから」昼が抜け落ちるとは意識しないかもしれない。
 というのは、理屈。
 夜になって、「ぼく」も夜を生きている。昼は昼の時間を生きている。「時間」と「ぼく」という存在が融合していたときがあった。それが理想の「時間」と「人間」とのありようだと言っているのかもしれない。
 「ぬけ落ちる」という生々しい肉体を刺戟する感覚が「一体感」があったことを語る。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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