ジャン=リュック・ゴダール監督「イメージの本」(★★★)
監督 ジャン=リュック・ゴダール
ルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」から始まり、次々に過去の映画が引用されるが、あまりに断片過ぎて、私が見たことがある映画かどうかもよくわからない。しかも多くの映像が特殊加工されていて、元の映画からかけはなれている。「イメージ(映像)」になってしまっている。「夢」と呼んでもいいかもしれない。ルイス・ブニュエルやフェデリコ・フェリーニの「道」はわかりやすいが、ほとんどがわからない。
そういう映像を見ながら思うことは、ジャン=リュック・ゴダールの色彩には「遠近感」がないということである。サイケデリックということばがあるが、それに近い。このときの「遠近感」とは「空間」の遠近感だけではなく、むしろ「時間」の遠近感と言った方がいい。赤、黄色、青、緑。そういう色には、それぞれ「過去」があるはずだ。映画からの引用ならば、映画という「過去」が。それをなかったことにして、はじめてこの世界にあらわれてきたかのように「原色」で噴出させる。
で、それは色彩がいちばん「抽象的」で目立って感じられる(私の場合は)。しかし色彩だけではなく、他の「シーン(あるいはカットというべきか)」や「セリフ」、あるいは「本からのことばの引用」も同じである。すべては「過去」を持っている。しかし、その「過去」を「過去」ではなく、「過去をもたないいま」として噴出させる。それは「未来」でもない。「時間」というものが存在しない「いま」。したがって、それを「永遠」と言いなおすこともできる。
ゴダールのやっていることは、「いま」を「いま」のままスクリーンに定着させる。「過去」にも「未来」にも、それを引き渡さない。「ストーリー」にしない。「散文」にしない。「詩」にすることだ。
こう書いてしまうのは、私が詩が好きだからかもしれない。
別のひとは「音楽」というかもしれない。映画の後半に「音楽」が「ことば」によって少し説明される。和音がメロディーをつくる。一方、メロディーが和音を生み出すということもある。同じ旋律を重ねる必要はない。まったく異質なものがであったときも和音は誕生する。
この定義の方が、ゴダールの映画を的確に表現しているだろう。映像(色、光、形)とことば(意味と無意味)、音楽(和音とノイズ)。ぶつかり合い、その瞬間に、それぞれがもっている「過去」を破壊し、それが散乱する瞬間に「いま」が絶対的なものとして誕生し、存在する。
しかし、これでは私の感想ではなく、ゴダールがゴダールの映画を語ったことになりはしないか。
私は、そのゴダールの論理を「破壊」するために、あえて書く。ゴダールが何よりも大事にしているのは「色の美しさ」である、と。ゴダールの色は混じらない。常に「個」として独立している。他の色と共存はするが、それは「融合」ではない。
まあ、どうでもいいか。こういうことは。
また変な映画をつくりやがって、勝手にしろ、と突き放すのがいちばんいいのかもしれない。
(KBCシネマ1、2019年07月29日)