詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジャン=リュック・ゴダール監督「イメージの本」(★★★)

2019-07-29 22:04:09 | 映画


ジャン=リュック・ゴダール監督「イメージの本」(★★★)

監督 ジャン=リュック・ゴダール

 ルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」から始まり、次々に過去の映画が引用されるが、あまりに断片過ぎて、私が見たことがある映画かどうかもよくわからない。しかも多くの映像が特殊加工されていて、元の映画からかけはなれている。「イメージ(映像)」になってしまっている。「夢」と呼んでもいいかもしれない。ルイス・ブニュエルやフェデリコ・フェリーニの「道」はわかりやすいが、ほとんどがわからない。
 そういう映像を見ながら思うことは、ジャン=リュック・ゴダールの色彩には「遠近感」がないということである。サイケデリックということばがあるが、それに近い。このときの「遠近感」とは「空間」の遠近感だけではなく、むしろ「時間」の遠近感と言った方がいい。赤、黄色、青、緑。そういう色には、それぞれ「過去」があるはずだ。映画からの引用ならば、映画という「過去」が。それをなかったことにして、はじめてこの世界にあらわれてきたかのように「原色」で噴出させる。
 で、それは色彩がいちばん「抽象的」で目立って感じられる(私の場合は)。しかし色彩だけではなく、他の「シーン(あるいはカットというべきか)」や「セリフ」、あるいは「本からのことばの引用」も同じである。すべては「過去」を持っている。しかし、その「過去」を「過去」ではなく、「過去をもたないいま」として噴出させる。それは「未来」でもない。「時間」というものが存在しない「いま」。したがって、それを「永遠」と言いなおすこともできる。
 ゴダールのやっていることは、「いま」を「いま」のままスクリーンに定着させる。「過去」にも「未来」にも、それを引き渡さない。「ストーリー」にしない。「散文」にしない。「詩」にすることだ。
 こう書いてしまうのは、私が詩が好きだからかもしれない。
 別のひとは「音楽」というかもしれない。映画の後半に「音楽」が「ことば」によって少し説明される。和音がメロディーをつくる。一方、メロディーが和音を生み出すということもある。同じ旋律を重ねる必要はない。まったく異質なものがであったときも和音は誕生する。
 この定義の方が、ゴダールの映画を的確に表現しているだろう。映像(色、光、形)とことば(意味と無意味)、音楽(和音とノイズ)。ぶつかり合い、その瞬間に、それぞれがもっている「過去」を破壊し、それが散乱する瞬間に「いま」が絶対的なものとして誕生し、存在する。
 しかし、これでは私の感想ではなく、ゴダールがゴダールの映画を語ったことになりはしないか。
 私は、そのゴダールの論理を「破壊」するために、あえて書く。ゴダールが何よりも大事にしているのは「色の美しさ」である、と。ゴダールの色は混じらない。常に「個」として独立している。他の色と共存はするが、それは「融合」ではない。
 まあ、どうでもいいか。こういうことは。
 また変な映画をつくりやがって、勝手にしろ、と突き放すのがいちばんいいのかもしれない。

 (KBCシネマ1、2019年07月29日)

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大島憲治『シャドーボクシング』

2019-07-29 16:08:06 | 詩集
大島憲治『シャドーボクシング』(蝶夢舎、2018年10月31日発行)

 大島憲治『シャドーボクシング』をふと思い出した。嵯峨信之の詩の感想を書いていて、どこか似ているところがあるかもしれないなあと感じた。
 「巨人」の書き出し。

ぼくのなかに極小のぼくがいる
それが物質なのか非物質であるのか
わからない
おそらくはその中間に存しているのでは
とぼくは踏んでいる

 「物質」と「非物質」を対峙させたあと、「中間」という項目を挿入している。そうすることによって「論理」を動かし始める。
 大島の詩は実際はその「中間」を追い詰めてはいかない。しかし、ことばを動かすきっかけにはなっている。ことばを動かすことが詩である。そのときことばは「論理」を踏まえながら動く--こういう姿勢が嵯峨に似ていると思う。
 「を」は、こうはじまっている。

傾いだ鳥のちいさな頭を
突き刺さった空の小枝を
凍った雲を
地下深く
広げた翼を

十三歳の冬の精嚢から
天井を飛ばした晩を
ミルクがほとばしった夜空を

モルタル校舎の西階段を駆け上がった
白いソックスを

 「を」につづく「動詞」が省略されている。かわりに「を」に先行するイメージが連絡を取り合って抒情を構成する。
 「小さな頭」「小枝」は「十三歳」と言いなおされ、「モルタル校舎」へとつながっていく。「突き刺さった」は「劇」である。その「劇」は「空」と「地下」を結ぶ運動である。「深く」ということばを手がかりにすれば、大島に意識されているのは「地下」である。
 「意識」か「無意識」か。そうではなく、その「中間」と考えた方がいいだろう。「意識」でも「無意識」でもない、まだ「ことば」になっていない「中間」にあるもの。
 それ「を」どうするんだろう。
 動詞は最後まで書かれない。つまり読者にその選択が任されている。
 私は「探す」と読んでみる。しかも「探しに行く」というよりも、書かれたことばが「現実」としてあらわれるのを「待つ」、その祈りのような耐えるしかない行為を「探す」の意味として補いながら。

 実は私は、きょう、嵯峨のこういう詩を読んだのだ。『土地の名~人間の名』に出て来る。

ぼくは記憶する前に記憶を失つた
その記憶の蘇生を待つぼく自身を 水を 砂を
生きるためにぼくは空のなかに路を探した
雲と雲とのあいだの羊の路を




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(71)

2019-07-29 09:23:08 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくは記憶する前に記憶を失つた)

 論理からはじまる抒情。論理というよりも「思考する」かもしれない。あるいは「精神」と言い換えることもできるかもしれない。

その記憶の蘇生を待つぼく自身を 水を 砂を
生きるためにぼくは空のなかに路を探した

 「失う」は「探す」と対になっている。しかし「探す」という動詞にたどりつく前に「待つ」という動詞がはさまれている。「生きる」も経由しており、これは「蘇生(する)」という形でも隠れている。しかし、「待つ」の方が興味深い。
 「待つ」とき、ひとは何もしない。ただ「待つ」。「待つぼく自身を」「探す」とは、「ぼく」を探すというよりも「待つ」という行為を探すことだ。
 ひとは「待つ」ことができないのかもしれない。思考してしまう。そういう人間の「本質」があらわれている。


*

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