詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小柳玲子『夜明けの月が』

2019-07-02 11:35:23 | 詩集
小柳玲子『夜明けの月が』(空とぶキリン社、2109年07月20日発行)

 小柳玲子『夜明けの月が』には死んだひとがたくさん出てくる。「黒い家」シリーズ(と、私は勝手に呼ぶが)には名前が書かれていない。きっと名前など必要としないくらい小柳の肉体にしみついて、生きているひとなのだろう。
 その「黒い家」。長めの行がつづいたあと、最後の二行。

それから夜が
一面に張り付いた

 とても印象的だ。アパートを借りる。窓があって、そこから「ボク」が見える。それがある日、消える。「ボク」が消えると、窓も消える。壁になる。そこから「しばらく夕日が差し込んでいた」。しかし、つかのま、

それから夜が
一面に張り付いた

 と展開する。
 「夜」とは何か。「事実」であると同時に「象徴(比喩)」である。そして比喩であるからこそ「真実」でもある。
 それが「張り付いた」。これは窓から壁に変わった、その壁に「張り付いた」ということなのだが、小柳の「肉体(思想)」そのものに「張り付いた」と読んだ。
 ひとには、忘れられないことがある。それが「記憶」になる瞬間を「張り付いた」と小柳は書く。「肉体」から引き剥がせない。「肉体」の内部に食い込む思想もあるが、「肉体」の表面に「張り付く」思想もある。
 それはいつまでたっても「鎮まる」ということがない。生々しく、また、まがまがしい。「黒い家」と否定的な修飾語で語るしかない。

 「北村太郎さんのこと」はタイトルどおり北村太郎の思い出を書いている。いろいろ書いたあと、高校時代に読んだ詩を思い出している。

どうしてこの詩が好きで こんなに年老いるまで覚えているのか
それもよくわからない
寂しい…って この世の頁のどこにはさまれているのだろう

 「張り付く」のかわりに「はさまれている」という動詞が動いている。「はさまれている」ものは、開くと出てくる。出た拍子に落ちることもある。そして、落ちることで、あ、ここにあったのか、と気づくこともある。
 「張り付く」に比べると、すこし「間接的」な感じがしないでもないが、「肉体」が感じる「異物感/違和感」はどちらも同じかもしれない。「はさまれている」の方が「内面」を感じさせるかもしれない。内面というのは、自分でもわからないものである。

寂しい…って この世の頁のどこにはさまれているのだろう

 「この世」を「この身(小柳の肉体/いのち)」と読み替えて読んだ。「はさまれている」は「さしはさまれている」と読んだ。「張り付く」との違いが、さらに鮮明になった。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(43)

2019-07-02 10:44:20 | 嵯峨信之/動詞
* (ここに夕が)

ここに夕が あそこに朝が
並んだ日々のなかにずり落ちそうな一日が懸かつている

 「並んだ日々」のすべてを覚えているわけではない。ある日は「朝」を、ある日は「夕」を、書かれていないが、ある日は「昼」あるいは「夜」を覚えている。一日を印づけるのは、大きな出来事もあれば小さな出来事もある。
 「ずり落ちそうな一日」というのは、どんな記憶も呼び覚まさない日のことだろうか。思い出せるけれど「ことば」にすることができない日かもしれない。「ずり落ち」そう、しかし「懸かつている」。「……いる」は「いま」もその状態である、継続しているということ。
 ほんとうに書かなければいけないのは、その「一日」である。でも、書けない。










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