詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林嗣夫『洗面器』(2)

2019-07-13 09:50:35 | アルメ時代
洗面器
林嗣夫
土曜美術社出版販売



林嗣夫『洗面器』(2)(土曜美術社出版販売、2019年06月30日発行)

 「朝」については、すでに書いたことがあるかもしれない。この詩にも「音」が登場する。

いつものように
暗い四時ごろ目が覚めて
布団の中でじっとしていたら

牛乳や 新聞配達の
バイクの音 庭を来る足音
そして去っていく

やがて外の暗闇に
何か かすかな……
響きのようなものが満ちはじめる

吹くともない風の始まりだろうか
生きものたちのささやきかもしれない
静かな律動に耳を澄ませる

夜が明けると まず気になって
近くの畑に降りてみた
目も覚める鮮やかなカボチャの花!

用意されていたいくつものつぼみが
羽化するように割れ
天に向かって開いている

遠いものの声を聴こうと
震えながら受粉を待っていた

 誰にでも聞こえる「バイクの音」「足音」。それが「去っていく」。その新しい静寂のなかに「満ちはじめる」「響き」。
 でも、それはすぐには動き出さない。
 「吹くともない風」と「ない」という否定形が動きを貯める。「満ちる」は、「内部」が「満ちる」のだ。外にあふれるのは、内部が満ちたあとなのだ。
 この書かれなかった「貯める」、内部に「満ちる」は「用意する」という動詞に変わっていく。「用意した」ものが内部に「満ちる」、内部が「満ちた」ものは内部から「割れる」。これを「開く」という。
 林の「聴覚」(聞く力)も「満ちて」、あふれる。

遠いものの声を聴こうと
震えながら受粉を待っていた

 これはカボチャの花の描写だが、林の姿そのものに見える。林はカボチャを追い越して、「遠い」声を聞き取り、ことばにする。詩が生まれる。この瞬間が、林にとっての「受粉」だ。
 林(人間)からカボチャへの変身。そして、それをことばにすることで、再び人間に帰ってくる。生まれ変わる。
 林のことばは、人間が再生する運動をしっかりとおさえて動いていく。

 詩集のタイトルになっている「洗面器」。

夏は
朝食前の涼しいときに
畑仕事を一つ済ませる
それからシャワーを浴びると
毎回のように
洗面器に浮かぶ 白い垢!

分子生物学によると
わたしたちの体は
絶えまない分解と合成のさなかにあり
組織は交替し
自分は自分からずれながら
ようやく平衡を保っている、と

危ういような うれしいような
からっぽのような
希望のような

おぬしは見るべし
朝の洗面器に漂う花筏
そこから立ち上がって よろける
一つの影を

 二連目は、いかにも「教師」らしい「論理」。
 これが三連目で、くずれる。「論理」では追えないものがあふれてくる。「ような」という直喩が繰り返される。「論理」は「ひとつ」の結論を目指すが、詩(比喩)は結論を拒んで分裂していく。
 そして「ような」という「直喩」から、「ような」を言っている暇がない「暗喩」の「花筏」へと結晶する。そのとき、「論理」を拒み続けた三連目の「直喩」が「喩」の運動だったことがわかる。「直喩」は林にとって「暗喩(絶対的な比喩)を生み出す運動」なのだ。
 このあと林は「一つの影」と自分自身を描写するが。
 この「一つ」。
 一連目の三行目に出てくる「一つ」と関係があるだろうか。ないだろうか。
 あるとも、ないとも言えないが、私は一連目の「一つ」ということばのつかい方が好きだ。「済ます」という動詞で林は「一つ」を補足しているが、「一つ」には何か「完結」したイメージがある。「完成」といっていもいい。それだけで存在する力だ。
 「畑仕事を一つ済ませる」と畑が「一つ」完成する。その「完成」のなかから、何かがはじまる。
 その「完結」「完成」と同時に、これから「はじまる」という感じが、最終行の「一つ」のなかに隠れているように私は感じる。
 「一つ」(ひとり)ではあるけれど、「遠い何か」とつながっている。

 説明というか、註釈というか、解説(?)にはならないのだが、どう語ればいいのかわからないのだが、この静かなことばに私は「古典」を感じた。
 私は「古典」ということばをつかいながら、「百人一首」を思い出している。「百人一首」の歌は、ほんとうに優れた歌かどうかわからない。和泉式部には「あらざらむ」よりももっといい歌があると思う。でも、ひとに伝わっていくのは「あらざらむ」なのだ。そういう「不思議」が「古典」にある。
 林の「洗面器」は、何か、そういう「ありきたりの強さ」を持っている。
 朝飯の前に「仕事を一つ済ませる」という「ありきたりの暮らし」。それが「ひとりの人間」を「一つのいのち」に育てる。
 林のいちばん書きたかったことばは「一つ」ではないかもしれない。でも、私は、「慣用句」のようにして書かれた「一つ」がこの詩をおさえていると思う。落ち着かせていると思う。

*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(55)

2019-07-13 08:02:42 | 嵯峨信之/動詞
* (この夕暮れにぼくは記憶を失つた)

われにかえると
薄暗くなつたところから灯のはいつた二階家が現われる

 この詩には、ここだけ「過去形」ではなく「現在形」があらわれる。「出来事」(起きたこと)と認識しているのではなく、いま「起きている」と認識している。
 さらに一歩進んで、嵯峨はいま「生きている」。一軒の家として生きている。その家と一体化しているとわたしは「誤読」する。家を見ているのではなく、家になっている。
 「薄暗くなつたところから」「灯のはいつた二階家が現われる」ではなく「薄暗くなつたところから灯のはいつた」「二階家が現われる」と私は読む。嵯峨の「肉体」のなかの「薄暗くなったところに灯がともる」、そして嵯峨自身が「二階家」になる。二階家に生まれ変わる。--その瞬間の「心象」がことばになって動いている。
 そんなふうにして嵯峨は「心象」の「家」へと帰る。




*

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