21 マリアンへの手紙
幾つ目かの角を曲がるとき、低い声を聞きました。¿Dónde estoy? ふりかえると、やわらかな光の中を紺の制服の男が歩いています。人を避けながら部屋の端まで歩き、しばらく立ち止まって向きを変えます。その歩き方には習慣だけがもつ無防備なところがあります。そう気づいたとき、私は思いました。彼の声ではありません。強い欲望に動かされ、からだが突き破られてしまうかもしれない不安――私が聞いたのは、そうした矛盾に満ちた声でした。無防備な男には不釣り合いな響きでした。
ある種の絵の前を通ったとき、窓から見えるわずかな空に疲れた目を休ませたとき、ソファーから立ち上がって次の部屋へ行こうとしたときにも聞きました。まだ絶望する力があることに驚いているような響きでした。
回廊を渡り、階段をのぼり、何度もその声を確かめました。そして、この声を聞くために私はバルセロナまでやってきたのだと思うようなりました。
ピカソ美術館の作品はそれほど好きではありません。この街で描き始めたといわれるブルーの時代の絵にもこころが動くことはありません。
不思議に思われるかもしれませんが、気に食わないからこそ、実際に見てみたかったのです。単に絵のうまい少年がどんな具合にして天才に生まれ変わったのかではなく、ピカソにも平凡な時代があったのだということを納得したかったのです。画家のつまらない部分を通して、自分を少しでも安心させたかったのです。
作品の多くは画集で見ていたときよりも貧しく弱く、つたなく感じられました。
しかしそのために、つまり、予想が的中してしまったために、かえって裏切られた気持ちになりました。安心のかわりに不安な気持ちに襲われました。
ピカソにも平凡な時代があったと認識し自分を励ましたいという思いの一方で、ピカソは最初から天才だったという答えで自分の欲望をきっぱりとあきらめてしまいたいという思いがどこかに潜んでいたことを、そのとき知りました。
私は私の欲望さえも明確にしないまま旅を始めたのです。そこへ行けば自分が明確になると思っていたのです。
私はほんとうは何を求めていたのだろうか。
自分をかかえそこねて回廊を行ったり来たりしました。窓越しに美術館から出て行く人、門をくぐって入ってくる人の姿を見つめたりしました。彼らは皆、行くべき場所を知っています。しかし、私はこの美術館を出るべきなのかとどまるべきなのかもわかりません。迷子のように冬の空気を見つめているのです。
そして、もう一順したら出ようとようやく決心したとき、突然、最初に書いた不思議な声を聞いたのです。
¿Dónde estoy?
「それはあなた自身の声ではありませんか?」とあなたは言うでしょう。
道を失なうたびに私は何度も問いかけました。¿Dónde estoy? ラス・ランブラスをコロンブス像までまっすぐ歩き、地中海の色を右手に見たあと、左へ折れてゴシック街へ入りました。カテドラルに立ち止まり、王宮の庭に迷い込み、旧市役所の閉ざされた扉に古い地球の地図を見たりもしました。そんな具合で、角を曲がるたびに、私は訊ねるしかありませんでした。¿Dónde estoy? ¿Cómo puedo ir al Museo de Picasso?
「迷子のように冬の空気を見つめているのです」と私は書きました。「その不安なこころが外にあふれ、一つづきのことばになったのです。それを自分の声ではなく他人の声と勘違いしたにすぎません」とあなたは付け加えるでしょう。
確かにそうしたことは起こりうることです。
しかし、私はその声をピカソの声に違いないと信じています。
彼は問いつづけたのです。¿Dónde estoy?「ここはどこなのか」「私はどこにいるのか」と。もちろんそれは地理的な問いではありません。
私はスペイン語が未熟で誤解しているのかもしれませんが、ピカソはそう問うことで、自分の作品が美術の運動のどのような位置を占め、どのような働きをしているのか問いかけたのだと思います。
しかし、美術教師をしていた父の夢、いつかは画家になるという夢を叩き壊すほどの力量をもっていたピカソに、誰が答えることができたでしょうか。誰も答えられなかったに違いありません。だからこそ彼の声はしだいに絶望に近づき、絶望だけがもちうるひとつの純粋さにまで高まったのです。
私が聞いたのは不安の声というよりも、絶望の張りつめた声、絶望だけがもちうる自己同一性に貫かれた声でした。
「あらゆることばを誤読する」とあなたは何度も手紙で私の欠点を指摘してきました。そのとおりなのだと思います。誤読するから精神が濁り、突然動けなくなるのだとそのたびに反省しました。
しかしいまは、誤読する精神の勝手気ままな動きのままに、考えたこと、感じたことを書きつらねたいと思います。
¿Dónde estoy?
幼い子供のように同じ問いを繰りかえしながら、バルセロナの街の構造だけでなく、私は、カタルーニャのなまりや人のこころのあたたかさ、路地にこだまするざわめきも知りました。それは私のこころを広げてくれました。美術館へたどりつくということには直接役立たないけれど、ピカソの声を聞くのに役立ったと思います。
ピカソもこの街で迷い、昨夜の雨に濡れた石畳の匂い、キオスクを飾る花、小鳥の歌声、働く人が見せる疲れの色から何かを学んだはずだという思いが、いくらかピカソの絵に私を結びつける力になったと思い返しています。
もちろん私のこころを広げたものがピカソのこころを広げたとはいいきれません。むしろ彼をさらに苦しめただろうと思います。世界には描かなければならないものが無数にある。いったいそのうちのどれだけを描くことができるか。表現をどう変えていけばいいのか。彼はそうやって問いの数を次々に増やし、つまり迷いの数を増やしつづけることで内部の地図を精密にして言ったのです。
道に迷っても決して忘れない場所があります。¿Dónde estoy? そう問いかけた街角です。答えてくれる人はいなくても、そこへ帰ると明るい一本の道が見えてきます。何かの拍子に街を一巡してしまったときに、ふいに、あ、ここで道を尋ねた、あそこを左へ曲がるのだったな、と思い返すことがありました。
ピカソは自問しながら内部の地図を具体的な手触りにかえていったのです。そうすることが ¿Dónde estoy?に対する彼自身の答えだったのです。
迷うこと、問いつづけることは「私」を決定しないでいることだともいえます。私たちはいつも何かを決めて、それにあわせて自分を整えていきます。しかしピカソはバルセロナ時代、自分自身を決定しませんでした。ただひたすら問いつづけ、自分自身の迷路を正確に見つづけることだけをこころがけたのです。そうした時間があったからこそ、次々に新しい刺戟に反応し、自分の迷路を切り開き、自分自身の深奥にある目的地へと走りつづけることができたのだと思います。
迷うことは、ピカソのその後の変化に耐えるだけのすそ野の広がりを準備することでもあったのです。
「別々のことをこころのなかでかきまぜて同一視することは危険なことです。それは新しい独自の視点と呼べるものではありません。西欧ではそれを錯覚と呼びます」。あなたの冷徹な頭脳は、私をそんなふうに笑うかもしれません。
それでも私は錯覚を恐れず、幻の声を胸にしまって東の果てに帰ります。そしてどうしていいかわからななくなったときには自問するつもりです。答えが見つかるまで何度でも何度でも¿Dónde estoy?と。
(アルメ242 、1986年06月25日)
幾つ目かの角を曲がるとき、低い声を聞きました。¿Dónde estoy? ふりかえると、やわらかな光の中を紺の制服の男が歩いています。人を避けながら部屋の端まで歩き、しばらく立ち止まって向きを変えます。その歩き方には習慣だけがもつ無防備なところがあります。そう気づいたとき、私は思いました。彼の声ではありません。強い欲望に動かされ、からだが突き破られてしまうかもしれない不安――私が聞いたのは、そうした矛盾に満ちた声でした。無防備な男には不釣り合いな響きでした。
ある種の絵の前を通ったとき、窓から見えるわずかな空に疲れた目を休ませたとき、ソファーから立ち上がって次の部屋へ行こうとしたときにも聞きました。まだ絶望する力があることに驚いているような響きでした。
回廊を渡り、階段をのぼり、何度もその声を確かめました。そして、この声を聞くために私はバルセロナまでやってきたのだと思うようなりました。
ピカソ美術館の作品はそれほど好きではありません。この街で描き始めたといわれるブルーの時代の絵にもこころが動くことはありません。
不思議に思われるかもしれませんが、気に食わないからこそ、実際に見てみたかったのです。単に絵のうまい少年がどんな具合にして天才に生まれ変わったのかではなく、ピカソにも平凡な時代があったのだということを納得したかったのです。画家のつまらない部分を通して、自分を少しでも安心させたかったのです。
作品の多くは画集で見ていたときよりも貧しく弱く、つたなく感じられました。
しかしそのために、つまり、予想が的中してしまったために、かえって裏切られた気持ちになりました。安心のかわりに不安な気持ちに襲われました。
ピカソにも平凡な時代があったと認識し自分を励ましたいという思いの一方で、ピカソは最初から天才だったという答えで自分の欲望をきっぱりとあきらめてしまいたいという思いがどこかに潜んでいたことを、そのとき知りました。
私は私の欲望さえも明確にしないまま旅を始めたのです。そこへ行けば自分が明確になると思っていたのです。
私はほんとうは何を求めていたのだろうか。
自分をかかえそこねて回廊を行ったり来たりしました。窓越しに美術館から出て行く人、門をくぐって入ってくる人の姿を見つめたりしました。彼らは皆、行くべき場所を知っています。しかし、私はこの美術館を出るべきなのかとどまるべきなのかもわかりません。迷子のように冬の空気を見つめているのです。
そして、もう一順したら出ようとようやく決心したとき、突然、最初に書いた不思議な声を聞いたのです。
¿Dónde estoy?
「それはあなた自身の声ではありませんか?」とあなたは言うでしょう。
道を失なうたびに私は何度も問いかけました。¿Dónde estoy? ラス・ランブラスをコロンブス像までまっすぐ歩き、地中海の色を右手に見たあと、左へ折れてゴシック街へ入りました。カテドラルに立ち止まり、王宮の庭に迷い込み、旧市役所の閉ざされた扉に古い地球の地図を見たりもしました。そんな具合で、角を曲がるたびに、私は訊ねるしかありませんでした。¿Dónde estoy? ¿Cómo puedo ir al Museo de Picasso?
「迷子のように冬の空気を見つめているのです」と私は書きました。「その不安なこころが外にあふれ、一つづきのことばになったのです。それを自分の声ではなく他人の声と勘違いしたにすぎません」とあなたは付け加えるでしょう。
確かにそうしたことは起こりうることです。
しかし、私はその声をピカソの声に違いないと信じています。
彼は問いつづけたのです。¿Dónde estoy?「ここはどこなのか」「私はどこにいるのか」と。もちろんそれは地理的な問いではありません。
私はスペイン語が未熟で誤解しているのかもしれませんが、ピカソはそう問うことで、自分の作品が美術の運動のどのような位置を占め、どのような働きをしているのか問いかけたのだと思います。
しかし、美術教師をしていた父の夢、いつかは画家になるという夢を叩き壊すほどの力量をもっていたピカソに、誰が答えることができたでしょうか。誰も答えられなかったに違いありません。だからこそ彼の声はしだいに絶望に近づき、絶望だけがもちうるひとつの純粋さにまで高まったのです。
私が聞いたのは不安の声というよりも、絶望の張りつめた声、絶望だけがもちうる自己同一性に貫かれた声でした。
「あらゆることばを誤読する」とあなたは何度も手紙で私の欠点を指摘してきました。そのとおりなのだと思います。誤読するから精神が濁り、突然動けなくなるのだとそのたびに反省しました。
しかしいまは、誤読する精神の勝手気ままな動きのままに、考えたこと、感じたことを書きつらねたいと思います。
¿Dónde estoy?
幼い子供のように同じ問いを繰りかえしながら、バルセロナの街の構造だけでなく、私は、カタルーニャのなまりや人のこころのあたたかさ、路地にこだまするざわめきも知りました。それは私のこころを広げてくれました。美術館へたどりつくということには直接役立たないけれど、ピカソの声を聞くのに役立ったと思います。
ピカソもこの街で迷い、昨夜の雨に濡れた石畳の匂い、キオスクを飾る花、小鳥の歌声、働く人が見せる疲れの色から何かを学んだはずだという思いが、いくらかピカソの絵に私を結びつける力になったと思い返しています。
もちろん私のこころを広げたものがピカソのこころを広げたとはいいきれません。むしろ彼をさらに苦しめただろうと思います。世界には描かなければならないものが無数にある。いったいそのうちのどれだけを描くことができるか。表現をどう変えていけばいいのか。彼はそうやって問いの数を次々に増やし、つまり迷いの数を増やしつづけることで内部の地図を精密にして言ったのです。
道に迷っても決して忘れない場所があります。¿Dónde estoy? そう問いかけた街角です。答えてくれる人はいなくても、そこへ帰ると明るい一本の道が見えてきます。何かの拍子に街を一巡してしまったときに、ふいに、あ、ここで道を尋ねた、あそこを左へ曲がるのだったな、と思い返すことがありました。
ピカソは自問しながら内部の地図を具体的な手触りにかえていったのです。そうすることが ¿Dónde estoy?に対する彼自身の答えだったのです。
迷うこと、問いつづけることは「私」を決定しないでいることだともいえます。私たちはいつも何かを決めて、それにあわせて自分を整えていきます。しかしピカソはバルセロナ時代、自分自身を決定しませんでした。ただひたすら問いつづけ、自分自身の迷路を正確に見つづけることだけをこころがけたのです。そうした時間があったからこそ、次々に新しい刺戟に反応し、自分の迷路を切り開き、自分自身の深奥にある目的地へと走りつづけることができたのだと思います。
迷うことは、ピカソのその後の変化に耐えるだけのすそ野の広がりを準備することでもあったのです。
「別々のことをこころのなかでかきまぜて同一視することは危険なことです。それは新しい独自の視点と呼べるものではありません。西欧ではそれを錯覚と呼びます」。あなたの冷徹な頭脳は、私をそんなふうに笑うかもしれません。
それでも私は錯覚を恐れず、幻の声を胸にしまって東の果てに帰ります。そしてどうしていいかわからななくなったときには自問するつもりです。答えが見つかるまで何度でも何度でも¿Dónde estoy?と。
(アルメ242 、1986年06月25日)