詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アルメ時代 21 マリアンへの手紙

2020-01-05 18:30:21 | アルメ時代
21 マリアンへの手紙



 幾つ目かの角を曲がるとき、低い声を聞きました。¿Dónde estoy? ふりかえると、やわらかな光の中を紺の制服の男が歩いています。人を避けながら部屋の端まで歩き、しばらく立ち止まって向きを変えます。その歩き方には習慣だけがもつ無防備なところがあります。そう気づいたとき、私は思いました。彼の声ではありません。強い欲望に動かされ、からだが突き破られてしまうかもしれない不安――私が聞いたのは、そうした矛盾に満ちた声でした。無防備な男には不釣り合いな響きでした。

 ある種の絵の前を通ったとき、窓から見えるわずかな空に疲れた目を休ませたとき、ソファーから立ち上がって次の部屋へ行こうとしたときにも聞きました。まだ絶望する力があることに驚いているような響きでした。
 回廊を渡り、階段をのぼり、何度もその声を確かめました。そして、この声を聞くために私はバルセロナまでやってきたのだと思うようなりました。

 ピカソ美術館の作品はそれほど好きではありません。この街で描き始めたといわれるブルーの時代の絵にもこころが動くことはありません。
 不思議に思われるかもしれませんが、気に食わないからこそ、実際に見てみたかったのです。単に絵のうまい少年がどんな具合にして天才に生まれ変わったのかではなく、ピカソにも平凡な時代があったのだということを納得したかったのです。画家のつまらない部分を通して、自分を少しでも安心させたかったのです。

 作品の多くは画集で見ていたときよりも貧しく弱く、つたなく感じられました。
 しかしそのために、つまり、予想が的中してしまったために、かえって裏切られた気持ちになりました。安心のかわりに不安な気持ちに襲われました。
 ピカソにも平凡な時代があったと認識し自分を励ましたいという思いの一方で、ピカソは最初から天才だったという答えで自分の欲望をきっぱりとあきらめてしまいたいという思いがどこかに潜んでいたことを、そのとき知りました。
 私は私の欲望さえも明確にしないまま旅を始めたのです。そこへ行けば自分が明確になると思っていたのです。

 私はほんとうは何を求めていたのだろうか。
 自分をかかえそこねて回廊を行ったり来たりしました。窓越しに美術館から出て行く人、門をくぐって入ってくる人の姿を見つめたりしました。彼らは皆、行くべき場所を知っています。しかし、私はこの美術館を出るべきなのかとどまるべきなのかもわかりません。迷子のように冬の空気を見つめているのです。
 そして、もう一順したら出ようとようやく決心したとき、突然、最初に書いた不思議な声を聞いたのです。
¿Dónde estoy?
 
 「それはあなた自身の声ではありませんか?」とあなたは言うでしょう。
 道を失なうたびに私は何度も問いかけました。¿Dónde estoy? ラス・ランブラスをコロンブス像までまっすぐ歩き、地中海の色を右手に見たあと、左へ折れてゴシック街へ入りました。カテドラルに立ち止まり、王宮の庭に迷い込み、旧市役所の閉ざされた扉に古い地球の地図を見たりもしました。そんな具合で、角を曲がるたびに、私は訊ねるしかありませんでした。¿Dónde estoy?  ¿Cómo puedo ir al Museo de Picasso?

 「迷子のように冬の空気を見つめているのです」と私は書きました。「その不安なこころが外にあふれ、一つづきのことばになったのです。それを自分の声ではなく他人の声と勘違いしたにすぎません」とあなたは付け加えるでしょう。
 確かにそうしたことは起こりうることです。
 しかし、私はその声をピカソの声に違いないと信じています。

 彼は問いつづけたのです。¿Dónde estoy?「ここはどこなのか」「私はどこにいるのか」と。もちろんそれは地理的な問いではありません。
 私はスペイン語が未熟で誤解しているのかもしれませんが、ピカソはそう問うことで、自分の作品が美術の運動のどのような位置を占め、どのような働きをしているのか問いかけたのだと思います。
 しかし、美術教師をしていた父の夢、いつかは画家になるという夢を叩き壊すほどの力量をもっていたピカソに、誰が答えることができたでしょうか。誰も答えられなかったに違いありません。だからこそ彼の声はしだいに絶望に近づき、絶望だけがもちうるひとつの純粋さにまで高まったのです。
 私が聞いたのは不安の声というよりも、絶望の張りつめた声、絶望だけがもちうる自己同一性に貫かれた声でした。

 「あらゆることばを誤読する」とあなたは何度も手紙で私の欠点を指摘してきました。そのとおりなのだと思います。誤読するから精神が濁り、突然動けなくなるのだとそのたびに反省しました。
 しかしいまは、誤読する精神の勝手気ままな動きのままに、考えたこと、感じたことを書きつらねたいと思います。

 ¿Dónde estoy?
 幼い子供のように同じ問いを繰りかえしながら、バルセロナの街の構造だけでなく、私は、カタルーニャのなまりや人のこころのあたたかさ、路地にこだまするざわめきも知りました。それは私のこころを広げてくれました。美術館へたどりつくということには直接役立たないけれど、ピカソの声を聞くのに役立ったと思います。
 ピカソもこの街で迷い、昨夜の雨に濡れた石畳の匂い、キオスクを飾る花、小鳥の歌声、働く人が見せる疲れの色から何かを学んだはずだという思いが、いくらかピカソの絵に私を結びつける力になったと思い返しています。
 もちろん私のこころを広げたものがピカソのこころを広げたとはいいきれません。むしろ彼をさらに苦しめただろうと思います。世界には描かなければならないものが無数にある。いったいそのうちのどれだけを描くことができるか。表現をどう変えていけばいいのか。彼はそうやって問いの数を次々に増やし、つまり迷いの数を増やしつづけることで内部の地図を精密にして言ったのです。

 道に迷っても決して忘れない場所があります。¿Dónde estoy? そう問いかけた街角です。答えてくれる人はいなくても、そこへ帰ると明るい一本の道が見えてきます。何かの拍子に街を一巡してしまったときに、ふいに、あ、ここで道を尋ねた、あそこを左へ曲がるのだったな、と思い返すことがありました。
 ピカソは自問しながら内部の地図を具体的な手触りにかえていったのです。そうすることが ¿Dónde estoy?に対する彼自身の答えだったのです。

 迷うこと、問いつづけることは「私」を決定しないでいることだともいえます。私たちはいつも何かを決めて、それにあわせて自分を整えていきます。しかしピカソはバルセロナ時代、自分自身を決定しませんでした。ただひたすら問いつづけ、自分自身の迷路を正確に見つづけることだけをこころがけたのです。そうした時間があったからこそ、次々に新しい刺戟に反応し、自分の迷路を切り開き、自分自身の深奥にある目的地へと走りつづけることができたのだと思います。
 迷うことは、ピカソのその後の変化に耐えるだけのすそ野の広がりを準備することでもあったのです。

 「別々のことをこころのなかでかきまぜて同一視することは危険なことです。それは新しい独自の視点と呼べるものではありません。西欧ではそれを錯覚と呼びます」。あなたの冷徹な頭脳は、私をそんなふうに笑うかもしれません。
 それでも私は錯覚を恐れず、幻の声を胸にしまって東の果てに帰ります。そしてどうしていいかわからななくなったときには自問するつもりです。答えが見つかるまで何度でも何度でも¿Dónde estoy?と。


















(アルメ242 、1986年06月25日) 
 


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詩はどこにあるか2019年12月号

2020-01-05 15:37:01 | 詩(雑誌・同人誌)
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夏目美知子『ぎゅっとでなく、ふわっと』

2020-01-05 14:46:21 | アルメ時代
夏目美知子『ぎゅっとでなく、ふわっと』(編集工房ノア、2019年11月01日発行)

 夏目美知子『ぎゅっとでなく、ふわっと』の「小窓」。自宅の玄関わきの小窓から空き家になった隣家を見る、という詩だ。

半ば草に覆われた地面。草は枯れたり繁ったり、新しい
種類が混じったり、多少の変化がある。
急に暗くなったかと思うと、雨が降って来る。窓枠の向
こうで、石蕗の葉が雨粒を受け、上下に揺れ始める。小
石も、破れた金網も地面も次々と濡れていく。情景は誰
かの横顔のようである。私はそれを見ている。降りしき
る音が辺りに響き、その為に静けさがある。すぐ傍なの
に、何処か遠いところのように見える。

 「横顔」ということばに私は立ち止まる。夏目が見ているものが、ふいに見えたような気がする。雑草が茂っているのを見ているわけではない。そこに、そこにはいない人の「顔」を見ている。「横顔」だから、目と目があうわけではない。その人と同じものを見ているわけではない。その人が何を見ているか、それを想像している。
 その情景はしかし、夏目の見ているものに違いない。つまり、夏目は、その人になって隣家の情景を見ている。だからこそ、それを否定するために、つまり現実ではないことを強調するために、「私はそれを見ている」と「私」が突然登場する。
 私はその人になって、その人の庭を見ている。その家の内部からではなく、その家から出た場所で。
 この「家を出る(外にいる)」という感じが「遠い」ということばになって動く。どんなにそばにいても「出る」という感覚が「遠い」を誘う。もう、戻らない(戻れない)を誘う。どこに行くかわからないが、ここには戻らない。この決意を「静けさ」と名づけることができる。
 詩は、このあと、こう展開する。

しばしばそこは、固有の表情を見せる。木枯らしの時、
淋しさが剥き出しになる。短い草にピンクの小花を散ら
せて、汚れた壁に日が当たり、穏やかに憩って見える時
もある。

 「顔」ではなく「表情」という表現がつかわれている。その瞬間、「人」はいなくなる。「肉体」がなくなり、観念的になる。「情」というのは観念ではないだろうが、「横顔」に比べると、やはり「ことば」で整えられたものになってしまう。
 さらに、こう変化する。

けれど、私には解っている。道路に出て行き、覗いてみ
ると、壊れかけた扉の中では、古家が、間が抜けたよう
に佇んでいるだけだ。

 「解る」ということばが、観念として整えられたものであることを指し示している。こんなふうに動いてしまうのはことばの宿命かもしれない。しかし、だからこそ私は、「横顔」のところで踏みとどまってほしいと思う。
 谷川の詩に書かれていた「意味」が、どうしても出てきてしまう。
 そうすると詩は「味」がなくなる。

自宅から再び、小窓の向こうを見る。夕日が射して、小
さな枠の中にオレンジ色に染まった庭がある。美しい夕
暮れが凝縮している。徐々に光が消えるまで見届ける。

 この「予定調和」のような終わり方は残念だが、だからこそ前半に出てきた「横顔」が強い印象で残るのかもしれない。 

 「空の鳥 食卓のリンゴ」の書き出しと最終連。

卓上で、リンゴを真半分に切る。ナイフが最後にたてる
音を避けて、ぎりぎりで止め、あとは、手首を捻って、
二つに割る。

雨の日、鳥は来ない。
そんな時どうしているのか、想像もつかないけれど、
鳥は鳥の規模で、適正に生きているに違いない。

 書き出しは、肉体の動きをていねいに追っている。それは「想像」というよりも「追認」である。「ぎりぎり」は「規模」と「適正」をあらわす「肉体」のことばだ。観念で判断しているのではない。「手応え」のようなもので判断している。
 鳥は夏目の「肉体」ではない。だから「ぎりぎり」のようなものを「ことば」にしてしまうことはできない。だから一気に飛躍して「規模」と「適正」ということばにしてしまうのだが、書き出しのていねいさと向き合わせると、ふいに「鳥の横顔」が見えたような気がするのである。意味(観念)を書いているようで意味になりきれないものが、詩として動いていると感じる。








*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(61)

2020-01-05 08:49:30 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (あなたの想うことが湖から吹いてきます)

 この書き出しは「魅惑」に満ちている。「誤読」を誘う。
 「あなたの想うこと」は「あなたが想うこと」、つまり「あなたの想い」か。
 私は、どうしても嵯峨の「あなたへの想い」と読んでしまう。「あなたへの想い」は嵯峨のなかにあるのではない。嵯峨の外にある。それが嵯峨に向かってやってくる。
 人を好きになる瞬間というのは、こういう感じだと思う。「好き」という感情は自分のものなのに、それが外からやってきて自分をのっとってしまう。

ちょうどぼくが叫びたくなると
ふしぎにその声はきこえはじめるのです
その声をじっときいていると
それはだんだんぼくの声に似てきます

 「だんだん」「似てくる」。「好き」という感情、「愛している」という感情も、だんだん好きや愛しているに似てくる。そして、好きや愛しているになる。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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