詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野沢啓「暗喩の発生--言語暗喩論

2020-01-11 11:26:24 | 詩(雑誌・同人誌)
野沢啓「暗喩の発生--言語暗喩論」(「未来」598、2020年冬発行)

 野沢啓「暗喩の発生--言語暗喩論」は「詩のことばとはどういうものか。」と書き始められている。そして、「ことばの発生の歴史」「ことばが発生する機序」「小括」と章を立てて進んで行く。ヴィーコを手がかりに、野沢はこう書いている。

〈神学詩人〉とはことばをもたない段階において自然の驚異に目覚めてみずからの感覚と想像力にのみ依拠してことばを発する経験をもち、そこから徐々に他の人間たちとコミュニケーションを確立していく

ことばの発達とともに社会や国家が形成され、歴史がつくられていくなかで、人間はえてしてことばの本源的な価値と創造性を見失ないがちになり、つねに原初的な感覚と想像力をもって世界と対峙していく詩人という存在を無視していくようになる。

 「自然の驚異に目覚めてみずからの感覚と想像力にのみ依拠してことばを発する」は「原始的な感覚と想像力」と言い直されている。
 これは具体的に言い直すと、雷を体験したときに、「原因のわからない大いなる現象に驚き、びっくりして、目を上げ、天(の存在)に気づ」き、「その現象に自分自身の自然本性を付与しようと」し、声を発する、というような体験のことである。吉本隆明が「海が視覚に反映したときある叫びを〈う〉なら〈う〉と発するはずである」という発想をダイナミックに展開したものだと野沢はとらえている。

 「意味」は解る、と書いていいのかどうか、ずいぶん迷う。野沢の書いていることに「論理性」はある。その論理の展開の仕方はわかる。だが、それが「意味」かどうかはわからない。
 私がいちばん疑問に思うのは、私には海を見たときに「う」という声を出した記憶がないからだろう。雷を体験したときに「天の存在に気づいた」ということがないからである。そんなことを、私は思い出せない。
 私が詩人ではないからだ、と言ってしまえばそれまでになるのだが。

 私が「ことば」というものを意識したのは(もちろん、そのときは意識などはしていないが)、小学校に入学する前日、父親が「名前くらい書けないといけない」と言って、名前をひらがなで書いて教えてくれたときだ。それまで私は「名前がある」ということを感じたことはなかった。人に名前がある、ものに名前がある、と意識したことはなかった。それは「同時」に、「もの」になった。名前を書くということを教えられて、はじめて「もの(人間)」と「名前(ことば)」というものが別々だとわかったのだ。
 それはもちろん、いまだから、こういう具合に書けるのであって、そのときは「そうか、名前を書かないといけないのか。これが名前か」というような、とても変な気持ちがしただけである。それがとても奇妙な気持ちだったので、私は、いまでもあの瞬間を覚えているのだと思う。我が家は貧乏だったので、私のためのノートとか鉛筆などはなくて、姉のノートと鉛筆を借りて書いたのだと思うが、今から思うと、よく字を覚えられたなあと感心する。すぐ書けたことも覚えている。(これは錯覚かもしれない。苦労したのだけれど、すぐ覚えたと思い込みたかっただけかもしれない。)
 では、それまで私は「世界」をどう見ていたのか。どう考えても「名前(ことば)」なしで見ていた。庭に柿の木が二本、梨の木が一本あったが、いつもそれが存在していたわけではない。梨の木は実がまずくて、あってもただの木だった。木という意識もなかった。柿の木は一本が甘柿、一本は渋柿。実が実り、甘くなったとき「柿の木」として存在するけれど、それまでは意識から消えている。存在していない。あらゆるものが、「必要」になったときだけ、「名前(ことば)」といっしょに、そこに「ある」という感じ。「必要」がないときは、「名前(ことば)」もなければ、「もの」も「ない」。
 私自身についてさえ、そう感じる。特に小さいときがそうだが、「修三」と名前を呼ばれて、はっと我に返る。自分がいるのだと気がつく。名前を呼ばれるまでは、「無名」のまま世界に溶け込んでいた。自分の向き合っている世界と一つになっ「私」など意識できなかった。「私」と「世界」が別物だとは感じられなかった。
 これは、私のなかでは、いまもつづいている。世界はいつも溶けて混ざっている。端的にそれを感じるのは、探し物をするときだ。「野沢の詩集」を探す。そのときたいてい「野沢の詩集がない」というかたちでことばが動く。「野沢の詩集」と言えば、溶け合って区別がなくなった世界から「野沢の詩集」が目の前にあらわれてしかるべきだと私は考えているらしい。まるで赤ん坊である。「おっぱいが飲みたい」と泣きだせば「おっぱい」が出てくる。「ことば」は「もの」を生み出す。「もの」に「名前(ことば)」があるのではなく、「名前(ことば)」のあとに「もの」があらわれる。ほとんど同時に。
 山とか川とか空さえも、そんな感じだった。ことばにするまでは、全部がつながっている。自分自身とつながっている。自分と区別がない。
 「野沢の詩集」探しにもどれば、野沢の詩集がみつかったとき、私の肉体がそこまでつながったという感じ。つながって、区別がなくなったとき、区別するために「ことば」が必要になる、と言えばいいのか。そして、それは区別しながらも、やはり「私の肉体」なのである。言い直すと、そのとき私が意識しているのは「野沢の詩集」だけであり、他の本は「区別のない」部分に隠れてしまっている。目を向ければ、それは見えるが、見えるだけで存在などしていない。
 そして、どうやら私は、この「そこに何も存在していない(何もかもが溶け合っている)」という感覚が非常に強い気がする。貧乏で「もの」がなかったせいか、「もの」を「ことば」にする習慣がない。逆に「ことば」を「もの」にする感覚の方が強い。「ことば」を読むと、いちいち、それを「もの」にしないと納得できない。
 だから。
 野沢が引いているヴィーコとか吉本隆明の「ことば」を「もの」(現実の体験)にして確かめようとするのだが、それが私自身の体験とはぜんぜんつながらないので、納得できないということになる。え、これ、何を書いてあるの? 「論理」が動いていることはわかる。でも「もの」は?

 きのう私は朝吹亮二の詩を読んだ。空白(虫食い)だらけの詩である。文字は一部が見える。つまり「ことば」の断片。「音」と言ってもいいかもしれない。私は、その「一部」を手がかりに、「ことば」から「もの」をつかみだす。
 「一 の雪   は」からは「一片の雪の結晶は」と「もの」を呼び出す。朝吹は「一月の雪原それは」と書きたかったらしい。つまり、私は「誤読」するのだが、そういうことができるのが「ことば」だと思っている。「事実/正しい」かどうかではなく、「あり得る」か「あり得ない」か。それは「ことば」が「もの(世界)」をつくっていくのであり、ことばがつながったところまでが「私の世界」という感じなのだ。「客観的な世界(ものだけが独自に存在する世界)」というものを私は信じることができない。

 これは感想なのか、批評なのか。
 どっちでもない。私はただ考える。それを「ことば」として、ここに「存在」させる。ことばにしているときだけ存在するものがある。書き終わったら、忘れる。
 私にとって、ことばとはそういうものだ。








*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(67)

2020-01-11 09:37:19 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
海辺の町

* (小さな港に出た)

海の隅に
緑が休んでいる

 「港」と「海」。嵯峨は区別しているのだろうか。海の一部が港、港は海へとつづいていく。広がっていく。
 「緑」は「港」を指しているのかもしれない。
 海の動きに比べると、港の水の動きは静かだ。止まっている。そのために緑が深く見えるのかもしれない。
 嵯峨自身が「緑」になって、ここで休んでいる。








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