詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西川詩選(中国現代詩人シリーズ1、監修=田原)(訳=竹内新)

2020-01-20 10:05:54 | 詩集


西川詩選(中国現代詩人シリーズ1、監修=田原)(訳=竹内新)(思潮社、2019年02月20日発行)

 西川詩選に収録されている『深浅』の「近景と遠景」は、十八篇の作品で構成されている。「1 鳥」は、こう始まる。

鳥は、僕たち人間が肉眼によって眺めることのできる、一番高いところにいる生物だ。

 言われてみれば、そうかもしれない、と思う。「反論」が見つからない。
 「2 火」の書き出しは、こうである。

火は火そのものを照らすことはできず、火に照らし出されるものは火ではない。

 そうかもしれない。しかし、私は「火」であったことがないので、「火に照らしだされるものは火ではない」が「ほんとう」かどうか、納得できない。
 私の感想は、変だろうか。
 「1 鳥」を読んだときは、それほど違和感がなかったのだが、「2 火」を読んで、西川のことばの特徴(詩の特徴)のようなものが、この書き出しに隠れていると思った。しかし特徴は「2」ではなく「1」に隠れているのかもしれない。「1」と「2」の間に隠れている、と言い直せるかもしれない。
 どこに違いがあるのか。

肉眼によって眺めることのできる

 このことばが「1」にあって、「2」にはない。
 「2」は「肉眼によって眺めること」で確認したのか。肉眼によって確認できるのは「火」がそこにある。「火」が燃えているということだけである。「火は火そのものを照らすことはできず、火に照らしだされるものは火ではない」は「火」を見つめることから出発しているかもしれないが、「肉眼」で確認していることではない。
 ここから「1」にもどってみる。「肉眼によって眺めることのできる」と書かれているが、「一番高いところにいる生物だ」という断定は「肉眼」がおこなっているのではなく、「意識」がおこなっていることだ。
 「1」と「2」は違っているのではなく、同じことばの動きだ。どちらも「意識」が主体となってことばを動かしている。「意識」の運動としてのことばだ。それなのに「1」では「肉眼」ということばがつかわれ、「眺める」という動詞がつかわれている。
 「2」を読んで、私は「違和感」を覚えたが、それは読み直してみると「2」に原因(?)があるのではなく、「1」にこそ原因がある。

肉眼によって眺めることのできる

 ことなど、西川は書いてはいないのだ。それなのに「肉眼によって眺めることのできる」という具合に詩を始めている。読者を「裏切る」、あるいは「罠にかける」かたちでことばを動かしている。
 「1」のつづき。

時に歌い、時に呪い、時に沈黙する。鳥の上方の空について、僕たちは何も知らない。そこは理性のおよばぬ王国。広大無辺の虚無が広がる。鳥は宇宙秩序の支点であり、その飛翔するところは僕たちの理性の辺境だ。

 「意識」ではなく、西川は「理性」と書いている。「理」をもった「意識」。「理」こそが西川の詩なのである。「肉眼」は関係がない。むしろ「理性の眼」によって世界(宇宙)を眺める、というのが西川のやっていることだろう。
 このとき「鳥」はもう「鳥」ではない。単なる「比喩」である。そしてそれは「理性」を意味している。「鳥は宇宙秩序の視点であり、その飛翔するところは僕たちの理性の辺境だ」は「理性は宇宙秩序の視点であり、その飛翔するところは僕たちの理性の辺境だ」である。つまり、「理性」のおよぶかぎりが「宇宙」だということである。
 「理(性)」がすべてを生み出すのだ。生み出す力を「理」、生み出され確立したものを「理性」と区別した方がいいかもしれない。
 西川は「理」で世界を整えなおし、それをことばとして提出している。彼は「肉眼」で世界をみつめるのではなく、「理」でみつめる。それはいつでも「肉眼によってながめたもの」を逸脱している。あるいは超越している。
 「5 牡丹」の書き出し。

牡丹は享楽主義の花だ。薔薇が肉体と精神のふたつを備えているのと違って、肉体だけを持つ。菊には精神しかないのと同じだ。

 ここに書かれていることが「正しい」(理性的に合理的)かどうかは知らない。しかし、そうなのかもしれないとも感じさせる。「納得」するわけではないが、「納得」へむけて動くものが、確かに私の肉体の中に動いている。それは、たぶん、そういうようなことばを聞いた記憶がかすかにあるからだ。西川は特別ふうがわりなことを書いているわけではない。私たちの「理性」として聞かされてきたことを整えなおしている。
 「1」も「2」も、すっとことばが「肉体」のなかに入ってくるのは、そのせいである。共有される「理性」というものが、人間にはある。その共有される理性に、国境はないのかもしれない。
 しかし、もし西川が「共有される理性」だけを書いているのだとしたら、それは「詩」とは呼べないだろう。「数学の公式」のような「定型」で終わってしまう。なぜ、「肉眼」ではなく「理」で整えなおしたものが、「詩」という「個性的な存在」としてあらわれるのか。
 「理」と「理性」が違うものだからである。
 言い直すと、「答え」ではなく、「問い」として提出されるからである。あるいは「異議」として運動することばだからである。問い、異議を申し立てるのは確立した「理性」ではなく、「理性を生み出す理」(理性にはなっていない理)だからである。
 「15 幽霊」にこんなことばがある。

僕が比喩のやり方で議論するのは、幽霊についてではない。僕が議論するのは、古くからの観念だ。

 これは西川の詩(世界)に対する向き合い方を語っている。「比喩」と呼ばれているのもは、たとえば「鳥」であり、「火」であり、「牡丹」である。それは「実在」して見えるが(肉眼によって眺めることができるが)、すでに存在する「名前」で呼ぶかぎり、そこにはすでに「観念/理性」が定着している。「鳥は、僕たち人間が肉眼によって眺めることのできる、一番高いところにいる生物だ」ということさえ、「定着した観念」である。だからこそ、私たちは、それをつまずかずに読むことができる。疑わずに読んでしまう。「火は火そのものを照らすことはできず、火に照らしだされるものは火ではない」も同じである。その疑いようもないところから出発し、それに対して異議をぶつける。問いをぶつける。「理」からことばを生み出す。つまり、その後を、西川自身のことばで、再構築する。
 「16 廃墟」につかわれていることばを利用して言い直せば、そうすることに「創造の本質、人類精神の本質」があるからだ。西川は、定着した観念を問い直すこと、異議を申し立てることを「創造」と呼ぶのだ。そしてそれを「本質」と定義しているのだ。
 こういうことを「17 荒野」では、こう言い直している。

荒野は人間を否定し、忘却を引き受ける。それは河のない場所だ。どんな区域にも決して属することなく、自身を世界の中心とする。そこは、いかなる精神も決して持たない。だが精神は荒野を持っていなければならない。

 ここでは、ことばが一瞬一瞬生み出しなおされている。書かれていることばを簡単に「ひとつの意味」で固定してはいけない。
 最初の「荒野」は「観念(意味の定着したことば)」である。それは人間の創造を否定する。人間に創造を忘れさせる。「荒野」は「理性の世界」である。一方、「河」は「水」であり、「水」は「流動」である。(先につかったことばで言い直せば、「理」である。)そして「流動」は変化であり、創造であるだろう。
 いわゆる「荒野」は、普通に考えれば価値を持たない。だからこそ、それを自分の中心に据え、そこから自分のことばを生み出していかなければならない。
 「そこは、いかなる精神も決して持たない」は、「荒野(固定した意味、観念)」は「精神」と呼ぶに値する「自由」な「創造力/想像力」を持たない。だが、「自由な精神」は常にその「固定した意味/観念/荒野」を破壊する形で動かなければならない。創造力に富んだ「自由な精神(理)」を働かせる「場」として、西川は、「固定した意味/観念/荒野」を選ぶのだ。そこにこそ「理」が必要とされているのだ。
 世界は「「固定した意味/観念」であると自覚するとき、はじめて「詩」が必要になる。
 「18 蜃気楼」の最後は、とても強く、美しいことばで締めくくられる。

見たことがなくても、虹から想像することができる。

 「見たことがなくても」とは「1」にあることばを借りて言えば「肉眼で見たことがなくても」である。そしてそれは「存在しなくても」であり、「事実でなくても」でもある。存在するとか、しないとか、そういうことは関係がない。「想像することができる」かどうか、それが「創造することができる」かどうかにつながり、「想像する/創造する」ということが「人間の本質」なのだ。「理」の働きなのだ。
 既成の世界(理性)を揺さぶり、もう一度「理」そのものにもどってことばを生み出しなおす。そういう世界への向き合い方を明確に主張する詩人だ。









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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(2)

2020-01-20 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む


窓の近くに
大きな黄金色のザボンの実が重く垂れさがつている

 これは詩の三連目の二行である。ひとつの情景の描写である。描写そのものには謎はない、ように見える。しかし、実は謎だらけである。
 なぜ、嵯峨はザボンを「現実」の中から選び出したのか。さらに「大きな」「黄金色の」「重く」「垂れさがつている」と描写を重ねるのか。それは「ザボンが実っている」という描写と、どこが違うのか。
 どのことばにも「意味」がこめられている。そして「意味」が重なることで「謎」になるのだ。








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