詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アルメ時代27 秋の女

2020-01-19 14:42:56 | アルメ時代
27 秋の女



夕暮れになると
「こころのかわりをしてくれそうなものが
静かにやってくる」
影が長くのびて
テーブルの上に胸の形が休み
頭は床の上に落ちる
「川を渡ってくる光の角度
ビルに隠れる風のしめり」
私は小学校の
チャイムの音の行方をながめる
女はサッシの窓をすべらせ
カーテンを引いてゆく
「でも頼りすぎてはいけない」
床に散った夕日の色が
粉のように集められ
隙間から吸い出されてゆく
「でも頼りすぎてはいけない
ある日突然気づいた
ガラスの中に半透明の私がいて
私を見つめ返していた」
逆光に透けていたシャツが消え
女はくらい顔になってふりかえる




(アルメ247 、1987年02月10日)
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竹内健二郎『四角いまま』

2020-01-19 14:30:36 | 詩集
竹内健二郎『四角いまま』(ミッドナイト・プレス、2019年12月25日発行)

 竹内健二郎『四角いまま』の「あくび」。

プラットホームで
男は
鼻からけむりを
大きく吐き出し

くび をはじめた

 「あくび」とひとことにするのではなく「あ/くび」。その一呼吸のずれが、男を見ている感じを端的にあらわしている。あくびをするときも「あ」と肉体の中からおさえきれないものが漏れ、それにかたち(あるいは意味)を与えるようにして、残りの息が追いかけてくる。
 これを竹内はさらに言い直している。

閉じられていく まぶた
開かれていく くちびる
開きながら閉じていく ひとの身の

どこかに
男は

吸い込まれてしまったようなのだが

 さて、吸い込まれたのは「男」か、「男」を見ている竹内か。あるいは、この詩を読んでいる私か。
 見ること(読むこと)は自分の肉体をつかって、「事実」を反芻することである。くりかえすことによって「肉体」のなかで「事実」が「真実」になる。
 そこには「あ/くび」のように、ちょっとことばにしにくい「間」のようなものがある。「間」を「意味」にしないで、「間」のままにしておくと、それは「魔」に変身するだろうと思う。
 どうやって「意味にしない」か。
 これは難しい。





*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(1)

2020-01-19 09:29:55 | 『嵯峨信之全詩集』を読む


井戸端に咲きみだれている山吹の花に
太陽が火を放つ
だれの嘘よりも
もつと見事な黄金の大きな嘘のように

 二行目の「太陽が火を放つ」を、私は「太陽に火を放つ」と読み替える。太陽が山吹に火を放つのではなく、山吹が太陽に火を放つ、と。
 山吹は、大地から生まれた太陽であり、それは天にある太陽の輝きには負けない。
 それはもちろん「真実」ではない。「間違い」というよりも、「嘘」である。しかし、嘘を承知で、そう書くのだ。そう読むのだ。
 ことば(詩)は客観的な「事実」ではなく、錯乱が生み出す「真実」である。










*

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クリント・イーストウッド監督「リチャード・ジュエル」(★★★★★)

2020-01-19 09:06:13 | 映画
クリント・イーストウッド監督「リチャード・ジュエル」(★★★★★)

監督 クリント・イーストウッド 出演 ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、キャシー・ベイツ

 ポール・ウォルター・ハウザーとサム・ロックウェルが、ファミリーレストランみたいなところで会っている。そこへジョン・ハムがFBIはリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)の捜査をやめたという通知を持ってくる。そのあとのシーンが、私は好きだ。
 ポール・ウォルター・ハウザーがケーキ(ドーナツ?)に食らいつく。食べているではなく、味わっている。歓びの味。これが、このケーキのほんとうの味。自分が無実であることは知っている。その無実が受け入れられたことへの安心感。達成感。いろいろあるが、ともかくうまい。これがこのケーキの味。自分のいちばん好きな味。
 このときの表情をクリント・イーストウッドは逆光で撮っている。これが、すばらしい。普通なら、この感動の表情を、正面からの光(順光?)でとらえるだろう。逆光では、肝心の表情が見えにくい。だが、この見えにくさが、私の視線を引っ張る。もっとよく見たい。そして、気持ちが集中する。ポール・ウォルター・ハウザーが向こうからやってくるのではなく、私の視線がスクリーンのポール・ウォルター・ハウザーに近づいていく。そして、ポール・ウォルター・ハウザーと一体化してしまう。
 ここにイーストウッドの映画の基本というか、原点というか、魅力が凝縮している。役者は演技をする。カメラはそれをとらえる。だが、それは押しつけではない。あくまでも観客がスクリーンに近づいていくのだ。家を出て、バスや電車に乗って映画館へゆく。その「移動」と同じことを映画館のなかで観客はするのだ。椅子に座って見ている。たいていはぼんやりと時間を潰している。しかし、あ、ここがいいなあ、と思ったとき観客は身を乗り出してゆく。家から映画館へ来たように、座っている席からスクリーンに気持ちが近づいていく。
 このポール・ウォルター・ハウザーの無言でケーキを食うシーンは、イーストウッドの映画にしては長いシーンだった。一度ケーキに食らいつき、歓びがあふれればそれでも充分なのだが、二度、三度、ケーキに食らいつき、ゆっくりとかむ。その繰り返しが、とてもいい。逆光が「後光」のようにさえ見えてくる。
 このあと向き合っていた席からサム・ロックウェルが動いてきて、ポール・ウォルター・ハウザーの隣に座る。肩を抱く。ここも涙が出るくらいに美しい。カメラは二人を正面からではなく、背後から、つまり背中を映し出すのだ。だれも、彼らの表情を知らない。泣いているかもしれない。ポール・ウォルター・ハウザーもサム・ロックウェルも。しかし、だれも、それを知らない。考えてみれば、だれも何も知らないのだ。二人がどんなふうに苦しんできたかを。とくに、ポール・ウォルター・ハウザーの味わった苦悩や怒りをだれも知らない。ひとはだれでも、だれにも知られないことを持っている。どんなにそれが語られようとも、知らないものがある。あるいは、それは見てはいけないものかもしれない。そのひとだけの「宝」かもしれないのだから。
 これに似たシーンが、もうひとつ。捜査のために押収されていたものが家に帰ってくる。そのなかにタッパーがある。キャシー・ベイツが、「私のタッパーが、事件と何の関係がある」と抗議したタッパーである。ふたに番号が書いてある。それはたぶんFBIが整理のために書いた番号だと思う。つまり、汚れ、傷、である。でも、それは傷つきながらもキャシー・ベイツのところに帰って来た。キャシー・ベイツがタッパーを手に取り、それを眺める。カメラがキャシー・ベイツの視線になり、タッパーを見つめる。すると蓋の上に数字が書いてある。こういうシーンにも、私は、涙を流してしまう。しかし、このシーンは、いつものイーストウッドのようにさらりと短い。
 感動させるのではなく、感じさせる。考えさせる。感動して、観客が自分の感動によってしまってはいけないのだ。そうさせないように、イーストウッドは、さっとシーンを切り換える。もっと見たい、という気持ちがわいてきたところで、ぱっと別のシーンになる。その手際に私はいつも感心する。

(2020年01月18日、t-joy 博多スクリーン2)
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