青柳俊哉「未来の朝」、池田清子「何罪」、谷川俊太郎「あなたの私」(朝日カルチャー講座、2020年01月06日)
朝日カルチャー講座の作品。
冬の朝の描写。「雹ふる朝の」「雪ふる朝の」という「……朝の」というリズムをひきついで、「すけるよう」「しずけさ」「うすあかり」ということばが透明感を強調している。
そのあとで、
と転調する。「未生の子」「死んだ子」ということばにどきりとする。そして、この衝撃的なことばが、詩の読み直しを求めてくる。
冬の朝の描写と簡単に書いてしまったが、ほんとうにそうなのか。
タイトルに「未来の朝」とある。二行目にも「未来の街」ということばがある。「いま(現実)」ではなく「未来(まだ存在しない)」朝のことなのだ。
「未来」なので、そこにいる子どもは「まだ生まれていない=未生」であり、またすでに年をとって死んでしまっているかもしれない。死んでしまったけれど、記憶(意識)が残っている。子ども自身の意識か、子どもに対する親の意識かは判断が難しい。どちらも可能だろう。もちろん子どもが幼いときに死んだのではなくて年をとって死んでしまったのなら、その親も死んでいるだろうけれど、どんなときでも子どもを思う親の気持ちというのは変わらないので、こういうことは「時間」を無視していい感覚である。「時間」を無視することで「永遠」になると言い換えてもいい。
「未生の子」「死んだ子」が飛び出してくるというのは現実にはあり得ない。存在しないもの(不在のもの)が動くというのはあり得ないのだけれど、このあり得ないという感覚が逆に「リアル」になる。
現実の冬の朝の街に、現実の、いま生きている子どもたちが飛び出してきたら、「静かな透明感」とは違ったものになってしまうだろう。
「未来の朝(街)」という不在をリアルに変えるためには、不在の存在(想像力がつかみ取った存在)が必要なのだ。不在と不在とがぶつかると、数学の世界でマイナスとマイナスをかけるとプラスになるように、世界が逆転して、リアルを生み出すのだ。
この二行を境にして、世界はにぎやかになる。「しずけさ」が消え、ざわめきが広がる。しかし、書き出しの透明感は維持される。持続する。いや、透明感を通り越して、「光」そのものになる、という感じか。「金色」「銀色」「氷の靴」ということばが、「反射」を感じさせる。
最後の部分に、それらは「ひかりながら」ということばになって動く。名詞ではなく、動詞として動く。その動きが「音」、「音楽」を呼び出す。音楽に合わせて動くとき「あそんでいる」は「踊っている」に自然にかわっていく。青柳は「踊る」ということばを避けて「遊ぶ」を繰りかえしているが、その反復が自然で、楽しい。
*
「テレビの中にいる人」「テレビの中でない人」が「対」になっている。「対」は同一ではないことによって「対」になる。この詩の場合は、同一ではないは「反対」である。テレビの中(虚構)、テレビの外(現実)という矛盾するものが「対」になっている。
しかし、「対」は対立を明確にするだけではない。ほんとうは、違った存在なのに共通のものを持っている、その共通をあかるみにだすためにこそ存在する。
好意、ひとに思いを寄せることが「共有」されている。
その「共有」は「理」によって浮かび上がらせられるものである。「理」は「論理」の「理」である。この詩は「論理的」である。
二連目に「だったら」ということばがあるが、これは論理のことばである。一連目に「だったら」を補うと、「対構造」がもっと明確になる。
それは姦淫だと
父が言った
だったら(それは)
姦通罪?
二連目の最後に一連目の最後の行をつけくわえと、「対」はさらにわかりやすくなる。
だったら
これは秘匿罪?
何度牢に入ったろう
「それ(テレビの中)」と「これ(テレビの外)」。そのどちらにも動いているひとを好きになる瞬間。「何罪」と問うことで、池田は、それは罪ではないと言う。
*
詩の対構造をもう少し考えるために、谷川俊太郎の「あなたの私」(『私の胸はちいさすぎる』集英社文庫、2019年06月30日発行)を読んだ。
「あなたが傍にいるとき」と「あなたが体を離したとき」が対である。傍にいる(密着している)、傍にいない(密着していない)という反対のものが向き合っている。そして、反対のものが向き合うことで、その「間」に共有されるものを明確にする。
あなたを思う気持ちだ。
あなたが傍にいるときは、それを感じる必要はなかった。自分の気持ちを感じるのではなく、あなたそのものを(暖かい指、息)を肉体で感じていた。あなたが傍にいなくなって、あなたの肉体を感じられなくなったときに、「コトバ」が生まれた。ことばとは気持ちである。
二連目の四行のなかにも対があるといえる。あなたが消えた、そのかわりにコトバが生まれた。消えたものと生まれたもの。ことばは私からあふれてくるが、私から離れては行かない。
三連目は、起承転結でいえば「転」である。同時にそれは二連目の言い直しである。「コトバ」と抽象的にしか表現されていなかったものが、具体的に語られる。「どこにいるの何してるの」。一連目と二連目の対構造で明確になった「あなたを思う気持ち」が具体的に言い直されていることになる。ひとを愛するとは「どこにいるの何しているの」と問うことであり、愛されるということは、その答えが返ってくることだ。
「結」の四連目は、かなり難しい。抽象的だ。
「あなたの私を私は抱きしめる」という「私」の二重構造も詩を難しくさせているが、「恋にひそむ愛に怯えて」の「恋」と「愛」の対比(あるいは、ここでも「対」と呼ぶべきか)をどうとらえるかが難しい。
なぜ「恋」と「愛」という別のことばがあるのか。「恋」と「愛」はどう違うのか。漠然とした感じだが、愛の中に恋が含まれる、愛の方が恋より大きい(広い)という印象がある。
で、こんなことが言えるかもしれない。
あなたを愛しているのなら、あなたのために私は私の恋をあきらめないといけないのかもしれない。でも、あなたに愛された私(恋された私?)を私は忘れることができない。あなたが愛してくれた私を、私は私の愛で抱きしめる。なぐさめる。
どこかで聞いたような「歌謡曲」になってしまうかもしれないなあ。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2019年12月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168077806
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
朝日カルチャー講座の作品。
未来の朝 青柳俊哉
雨まじり 雹(ひょう)ふる朝の 雹まじり
雪ふる朝の 人かげのすくない 未来の街に
路面も 建物も 樹々も すけるように凍りつき
神聖なしずけさにつつまれている
そのうすあかりの空から
金色のとんがり帽子をかぶった未生(みしょう)の子や
ピカピカした銀色の服を着た死んだ子たちが
たくさんとびだしてきて
舟の形をしたちいさな氷の靴をはいて
路面や 建物や 樹々のうえを
すべったり ころんだり 空中をとびまわって
あそんでいる
雨や 雹や 雪つぶの中からとびだしてきて
ひかりながらかすかな音をたてて
あそんでいる
冬の朝の描写。「雹ふる朝の」「雪ふる朝の」という「……朝の」というリズムをひきついで、「すけるよう」「しずけさ」「うすあかり」ということばが透明感を強調している。
そのあとで、
金色のとんがり帽子をかぶった未生(みしょう)の子や
ピカピカした銀色の服を着た死んだ子たちが
と転調する。「未生の子」「死んだ子」ということばにどきりとする。そして、この衝撃的なことばが、詩の読み直しを求めてくる。
冬の朝の描写と簡単に書いてしまったが、ほんとうにそうなのか。
タイトルに「未来の朝」とある。二行目にも「未来の街」ということばがある。「いま(現実)」ではなく「未来(まだ存在しない)」朝のことなのだ。
「未来」なので、そこにいる子どもは「まだ生まれていない=未生」であり、またすでに年をとって死んでしまっているかもしれない。死んでしまったけれど、記憶(意識)が残っている。子ども自身の意識か、子どもに対する親の意識かは判断が難しい。どちらも可能だろう。もちろん子どもが幼いときに死んだのではなくて年をとって死んでしまったのなら、その親も死んでいるだろうけれど、どんなときでも子どもを思う親の気持ちというのは変わらないので、こういうことは「時間」を無視していい感覚である。「時間」を無視することで「永遠」になると言い換えてもいい。
「未生の子」「死んだ子」が飛び出してくるというのは現実にはあり得ない。存在しないもの(不在のもの)が動くというのはあり得ないのだけれど、このあり得ないという感覚が逆に「リアル」になる。
現実の冬の朝の街に、現実の、いま生きている子どもたちが飛び出してきたら、「静かな透明感」とは違ったものになってしまうだろう。
「未来の朝(街)」という不在をリアルに変えるためには、不在の存在(想像力がつかみ取った存在)が必要なのだ。不在と不在とがぶつかると、数学の世界でマイナスとマイナスをかけるとプラスになるように、世界が逆転して、リアルを生み出すのだ。
この二行を境にして、世界はにぎやかになる。「しずけさ」が消え、ざわめきが広がる。しかし、書き出しの透明感は維持される。持続する。いや、透明感を通り越して、「光」そのものになる、という感じか。「金色」「銀色」「氷の靴」ということばが、「反射」を感じさせる。
最後の部分に、それらは「ひかりながら」ということばになって動く。名詞ではなく、動詞として動く。その動きが「音」、「音楽」を呼び出す。音楽に合わせて動くとき「あそんでいる」は「踊っている」に自然にかわっていく。青柳は「踊る」ということばを避けて「遊ぶ」を繰りかえしているが、その反復が自然で、楽しい。
*
何罪 池田清子
テレビの中にいる人に
好意をもっただけで
それは姦淫だと
父が言った
姦通罪?
何度牢に入ったろう
テレビの中でない人に
秘めて、告げず、ひそやかに
だったら
これは秘匿罪?
「テレビの中にいる人」「テレビの中でない人」が「対」になっている。「対」は同一ではないことによって「対」になる。この詩の場合は、同一ではないは「反対」である。テレビの中(虚構)、テレビの外(現実)という矛盾するものが「対」になっている。
しかし、「対」は対立を明確にするだけではない。ほんとうは、違った存在なのに共通のものを持っている、その共通をあかるみにだすためにこそ存在する。
好意、ひとに思いを寄せることが「共有」されている。
その「共有」は「理」によって浮かび上がらせられるものである。「理」は「論理」の「理」である。この詩は「論理的」である。
二連目に「だったら」ということばがあるが、これは論理のことばである。一連目に「だったら」を補うと、「対構造」がもっと明確になる。
それは姦淫だと
父が言った
だったら(それは)
姦通罪?
二連目の最後に一連目の最後の行をつけくわえと、「対」はさらにわかりやすくなる。
だったら
これは秘匿罪?
何度牢に入ったろう
「それ(テレビの中)」と「これ(テレビの外)」。そのどちらにも動いているひとを好きになる瞬間。「何罪」と問うことで、池田は、それは罪ではないと言う。
*
詩の対構造をもう少し考えるために、谷川俊太郎の「あなたの私」(『私の胸はちいさすぎる』集英社文庫、2019年06月30日発行)を読んだ。
あなたが傍にいるとき
暖かい指に目隠しされて
私にはあなたが見えなかった
あなたの息を耳たぶに感じるだけで
あなたが体を離したとき
かすかな風がふたりを隔てて
私からコトバが生まれた
生まれたての生きもののような
あなたが出て行ったあと
どこにいるの何しているの
私はもう問いかけずにいられない
あなたの幻に向かって
あなたの裸を想うとき
歓びに飢え 幸せに渇き
恋にひそむ愛に怯えて
あなたの私を私は抱きしめる
「あなたが傍にいるとき」と「あなたが体を離したとき」が対である。傍にいる(密着している)、傍にいない(密着していない)という反対のものが向き合っている。そして、反対のものが向き合うことで、その「間」に共有されるものを明確にする。
あなたを思う気持ちだ。
あなたが傍にいるときは、それを感じる必要はなかった。自分の気持ちを感じるのではなく、あなたそのものを(暖かい指、息)を肉体で感じていた。あなたが傍にいなくなって、あなたの肉体を感じられなくなったときに、「コトバ」が生まれた。ことばとは気持ちである。
二連目の四行のなかにも対があるといえる。あなたが消えた、そのかわりにコトバが生まれた。消えたものと生まれたもの。ことばは私からあふれてくるが、私から離れては行かない。
三連目は、起承転結でいえば「転」である。同時にそれは二連目の言い直しである。「コトバ」と抽象的にしか表現されていなかったものが、具体的に語られる。「どこにいるの何してるの」。一連目と二連目の対構造で明確になった「あなたを思う気持ち」が具体的に言い直されていることになる。ひとを愛するとは「どこにいるの何しているの」と問うことであり、愛されるということは、その答えが返ってくることだ。
「結」の四連目は、かなり難しい。抽象的だ。
「あなたの私を私は抱きしめる」という「私」の二重構造も詩を難しくさせているが、「恋にひそむ愛に怯えて」の「恋」と「愛」の対比(あるいは、ここでも「対」と呼ぶべきか)をどうとらえるかが難しい。
なぜ「恋」と「愛」という別のことばがあるのか。「恋」と「愛」はどう違うのか。漠然とした感じだが、愛の中に恋が含まれる、愛の方が恋より大きい(広い)という印象がある。
で、こんなことが言えるかもしれない。
あなたを愛しているのなら、あなたのために私は私の恋をあきらめないといけないのかもしれない。でも、あなたに愛された私(恋された私?)を私は忘れることができない。あなたが愛してくれた私を、私は私の愛で抱きしめる。なぐさめる。
どこかで聞いたような「歌謡曲」になってしまうかもしれないなあ。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2019年12月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168077806
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com