詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新井高子「デクルボー」

2020-01-12 11:07:50 | 詩(雑誌・同人誌)
新井高子「デクルボー」(「ミて」149、2019年12月31日発行)

 新井高子「デクルボー」には、東北弁(たぶん)のルビが振ってある。ほんとうはひらがなに漢字のルビを振った方が「声」に近くなるかもしれない。でも、それままた別の問題で、きょうは、「意味」に限定したことを書く。

ギリッ、ギリッと、その皮(かわ)剥(む)ぎゃァ、見(め)ぇてくる、もうひとづのからだァ。狸(たぬぎ)の皮(かわ)っこ、剥(は)ィだれば、見紛(みまご)うようだっきゃァ、人(ひと)の赤子(あかんぼ)と。
始(はず)まりの衣(ころも)だァもの、生(ンま)まれるとぎ、着(き)んだァもの、闇(やみ)ンながで。仕留(しと)めたからにァ、ギリッ、ギリッと丹精(たんぜい)込(こ)めで、脱(ぬ)がしゃんせぇ。そうして、アッチさ還(かえ)しゃんせぇ。

 狸の皮を剥ぐ。そこから「人の赤子」が出てくる。あらわれる。このあらわれ方に、私はうなる。生まれてきたときは、人間は丸裸である。狸の皮を剥ぐと、その「丸裸」のありようが「人の赤子」にそっくりである。
 「見紛う」。
 見紛うと書いているかぎりは、皮を剥がれた狸を赤ん坊と思ってはいけないという自覚があるのだが、これは逆のことを言っているかもしれない。赤ん坊を皮を剥がれた狸のようだと思ってはいけないと。
 いや、そうではなく「見紛った」瞬間、新井は、「真実」を見たのだ。皮を剥いだ狸の姿と人間の赤ん坊が生まれてきたときの姿は「同じ」だと。
 しかし、これは、すべて「真実」であってはいけないことなのだ。
 人間の赤ん坊と狸は明確に区別しなければいけない。
 だが、それが「崩れる」ときがある。
 私は、これを「渾沌」と呼びたい。
 東洋の哲学では「渾沌(ものの区別がない世界)」から区別が生まれてくる。名前と共に固有のものが分節されてくる。人間の赤ん坊が、狸が。「渾沌」のなかで二つの存在をごちゃまぜにしているのは「いのち」というものか。
 この詩では、しかし、そういう「渾沌」からの誕生を描いているわけではない。
 逆に、「いのちの弱さ/いのちの強さ」というものが、死んだ狸の、皮を剥がれた肉体と、赤ん坊の生まれたての肉体との間で、一瞬区別をなくす(見紛う)ということをとらえて、分別されていたものを「渾沌」へもどっていく。
 「渾沌」は「アッチ」と呼ばれ、逆戻りを「還す」という動詞であらわしていることになる。

 私たちの現実世界は、比喩的な意味では「渾沌」としているかもしれないが、実際はそれぞれの「名前(ことば)」で分節されていて「明瞭」である。狸は狸。人間は人間。それを「見紛う」(区別できない)ということはないし、区別できないとしたらそれはたいへんなことである。
 しかし、そういう明瞭に見える世界が「正しい」ものかどうかは、判断が分かれるはずである。
 この詩は、そういうことへの疑問を突きつけてくる。
 いま向き合っている世界(分節され、整えられて見える世界)が、いったいだれによって分節され、整理された世界なのか、と。それは別な言い方で言えば「ことばの意味」の解体を迫るということである。既存の「ことばの意味」から人間を解放するということでもある。
 「いのち(生きている)」と簡単につかっていることばを、もう一度自分で「分節」しなおせ、というのである。

 詩の感想を書くかぎりは、ほんとうは、その先(つまり、私のことばがどう破壊されたか、解放されたか)を書かないといけないのだが、きょうは、おとつい、きのうのつづきのようなことなので、ことばがどうやって生まれるか、どこへ帰っていくか、ということについて私が考えていることを、メモにすることだけで終わりにする。
 意味の解体、言語哲学について語るとき、西洋の思想経由で語る人が多いのだが、新井がやっているような、実際に話されていることばそのものと自分を向き合わせるという方法の方が、私には「力強い」方法に思える。日本語で考えているのだから、日本語と取り組まないと、思想(肉体)にはたどりつけないと思う。






*

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2020年01月12日(日曜日)

2020-01-12 10:15:27 | 考える日記
2020年01月12日(日曜日)

 「渾沌」ということばがある。「無」ということばもある。そして、それをつなぐことばは、たぶん「闇」である。
 しかし、私は「それ」を体験したことがない。
 「闇」のかわりに「光」を組み込むと、私の知っている「世界」になる。

 私は田舎に生まれた。
 家の前には畑があり、道があり、山があって、直接は見えないけれど川もある。道が分かれるところに神社がある。こう書くと、それは「渾沌」とは違って、明確に整理された世界だ。
 しかし、私はいま道と呼び、山と呼び、川と呼び、神社と呼んだものを、意識しない。存在しているけれど、存在しない。「ある」けれど、名前を持たない。ことばを持たない。
 ことばにしたとき、ことばといっしょに「あらわれる」。
 たとえば、いまの季節。昔は雪が降った。私の田舎は雪が多い。学校が終わって、家に帰って、帰り際に友達と、「川の向こうの段々畑でスキーをしよう」と言えば、そのときその「場所」が「段々畑」として「あらわれる」。そして、すぐに「スキー場」にかわり、「あらわれなおす」という感じだ。スピードを出しすぎる、いちばん下の畑で曲がり間違える。川に落ちる。そのとき「川」が「あらわれる」。
 「ある」けれども「名前がない」というのが、私の「渾沌」である。「名前もある」けれども「名前が意識されない」が私の「渾沌」である。

 「闇」というものがあることは知っている。しかし、私が最初に見たのが「闇」だという記憶はない。これが、私が「渾沌」について考えるとき、いつもつまずく問題である。つまり、「闇」から出発して「渾沌」を考えることができない。
 「論理的」には理解できる(理解できているつもり)だが、現実感覚にあわない。

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(68)

2020-01-12 09:09:32 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくはそこを歩いていこう)

ひとすじに思いをたどるだけで
どこに行きつくかも知らずに

 しかし、こう書くとき、嵯峨は「どこ」に行き着くかを知っている。「どこ」は場所を指し示すことばだが、目的地だけを指し示すわけではない。
 「ひとすじ」には「一つ」と「筋」の二つのことばがある。「筋」は細い。その「細さ」は「場」につながる。「狭い」。そしてそれは「一つ」しかない。すでに嵯峨は「行き着いている」のだ。
 「歩く」「たどる」「行く(行き着く)」と動詞はかわるが、その動詞が動いている「場所」は「筋」という限定されたところであり、しかも「一つ」である。「歩く/たどる/行く」がそのまま「着く」なのだ。
 そこ「へ」歩いていこうではなく、そこ「を」歩いていこうと書かれていることが、そのことを端的に語っている。「歩く」という動詞が「目的地」なのだ。








*

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