新井高子「デクルボー」(「ミて」149、2019年12月31日発行)
新井高子「デクルボー」には、東北弁(たぶん)のルビが振ってある。ほんとうはひらがなに漢字のルビを振った方が「声」に近くなるかもしれない。でも、それままた別の問題で、きょうは、「意味」に限定したことを書く。
狸の皮を剥ぐ。そこから「人の赤子」が出てくる。あらわれる。このあらわれ方に、私はうなる。生まれてきたときは、人間は丸裸である。狸の皮を剥ぐと、その「丸裸」のありようが「人の赤子」にそっくりである。
「見紛う」。
見紛うと書いているかぎりは、皮を剥がれた狸を赤ん坊と思ってはいけないという自覚があるのだが、これは逆のことを言っているかもしれない。赤ん坊を皮を剥がれた狸のようだと思ってはいけないと。
いや、そうではなく「見紛った」瞬間、新井は、「真実」を見たのだ。皮を剥いだ狸の姿と人間の赤ん坊が生まれてきたときの姿は「同じ」だと。
しかし、これは、すべて「真実」であってはいけないことなのだ。
人間の赤ん坊と狸は明確に区別しなければいけない。
だが、それが「崩れる」ときがある。
私は、これを「渾沌」と呼びたい。
東洋の哲学では「渾沌(ものの区別がない世界)」から区別が生まれてくる。名前と共に固有のものが分節されてくる。人間の赤ん坊が、狸が。「渾沌」のなかで二つの存在をごちゃまぜにしているのは「いのち」というものか。
この詩では、しかし、そういう「渾沌」からの誕生を描いているわけではない。
逆に、「いのちの弱さ/いのちの強さ」というものが、死んだ狸の、皮を剥がれた肉体と、赤ん坊の生まれたての肉体との間で、一瞬区別をなくす(見紛う)ということをとらえて、分別されていたものを「渾沌」へもどっていく。
「渾沌」は「アッチ」と呼ばれ、逆戻りを「還す」という動詞であらわしていることになる。
私たちの現実世界は、比喩的な意味では「渾沌」としているかもしれないが、実際はそれぞれの「名前(ことば)」で分節されていて「明瞭」である。狸は狸。人間は人間。それを「見紛う」(区別できない)ということはないし、区別できないとしたらそれはたいへんなことである。
しかし、そういう明瞭に見える世界が「正しい」ものかどうかは、判断が分かれるはずである。
この詩は、そういうことへの疑問を突きつけてくる。
いま向き合っている世界(分節され、整えられて見える世界)が、いったいだれによって分節され、整理された世界なのか、と。それは別な言い方で言えば「ことばの意味」の解体を迫るということである。既存の「ことばの意味」から人間を解放するということでもある。
「いのち(生きている)」と簡単につかっていることばを、もう一度自分で「分節」しなおせ、というのである。
詩の感想を書くかぎりは、ほんとうは、その先(つまり、私のことばがどう破壊されたか、解放されたか)を書かないといけないのだが、きょうは、おとつい、きのうのつづきのようなことなので、ことばがどうやって生まれるか、どこへ帰っていくか、ということについて私が考えていることを、メモにすることだけで終わりにする。
意味の解体、言語哲学について語るとき、西洋の思想経由で語る人が多いのだが、新井がやっているような、実際に話されていることばそのものと自分を向き合わせるという方法の方が、私には「力強い」方法に思える。日本語で考えているのだから、日本語と取り組まないと、思想(肉体)にはたどりつけないと思う。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
新井高子「デクルボー」には、東北弁(たぶん)のルビが振ってある。ほんとうはひらがなに漢字のルビを振った方が「声」に近くなるかもしれない。でも、それままた別の問題で、きょうは、「意味」に限定したことを書く。
ギリッ、ギリッと、その皮(かわ)剥(む)ぎゃァ、見(め)ぇてくる、もうひとづのからだァ。狸(たぬぎ)の皮(かわ)っこ、剥(は)ィだれば、見紛(みまご)うようだっきゃァ、人(ひと)の赤子(あかんぼ)と。
始(はず)まりの衣(ころも)だァもの、生(ンま)まれるとぎ、着(き)んだァもの、闇(やみ)ンながで。仕留(しと)めたからにァ、ギリッ、ギリッと丹精(たんぜい)込(こ)めで、脱(ぬ)がしゃんせぇ。そうして、アッチさ還(かえ)しゃんせぇ。
狸の皮を剥ぐ。そこから「人の赤子」が出てくる。あらわれる。このあらわれ方に、私はうなる。生まれてきたときは、人間は丸裸である。狸の皮を剥ぐと、その「丸裸」のありようが「人の赤子」にそっくりである。
「見紛う」。
見紛うと書いているかぎりは、皮を剥がれた狸を赤ん坊と思ってはいけないという自覚があるのだが、これは逆のことを言っているかもしれない。赤ん坊を皮を剥がれた狸のようだと思ってはいけないと。
いや、そうではなく「見紛った」瞬間、新井は、「真実」を見たのだ。皮を剥いだ狸の姿と人間の赤ん坊が生まれてきたときの姿は「同じ」だと。
しかし、これは、すべて「真実」であってはいけないことなのだ。
人間の赤ん坊と狸は明確に区別しなければいけない。
だが、それが「崩れる」ときがある。
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東洋の哲学では「渾沌(ものの区別がない世界)」から区別が生まれてくる。名前と共に固有のものが分節されてくる。人間の赤ん坊が、狸が。「渾沌」のなかで二つの存在をごちゃまぜにしているのは「いのち」というものか。
この詩では、しかし、そういう「渾沌」からの誕生を描いているわけではない。
逆に、「いのちの弱さ/いのちの強さ」というものが、死んだ狸の、皮を剥がれた肉体と、赤ん坊の生まれたての肉体との間で、一瞬区別をなくす(見紛う)ということをとらえて、分別されていたものを「渾沌」へもどっていく。
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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