詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アルメ時代26 海の光

2020-01-15 22:44:48 | アルメ時代
26 海の光



遠い海の光
岸を打つこともなく
ぐるぐる回りつづける潮のかなしみ
それに似たものがある

わたしたちはことばを知っているが
動かすほんとうの方法は知らない
何か言おうとすれば
どうしてもそれてしまう

遠い海を迷いつづける青い色
「強い情熱をあらわす
動詞が思いつかない」
垂直に打ち寄せる波に

こころを託している女
風は沖から吹いてくる
音い光はわずかにふくらみ
水平に去ってゆく




(アルメ247 、1987年02月10日)
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エドワード・ノートン監督「マザーレス・ブルックリン」(★★★)

2020-01-15 20:21:19 | 映画
エドワード・ノートン監督「マザーレス・ブルックリン」(★★★)

監督 エドワード・ノートン 出演 エドワード・ノートン、ブルース・ウィリス、ググ・バサ=ロー、アレック・ボールドウィン、ウィレム・デフォー

 エドワード・ノートンを初めて見たのは「真実の行方」。吃音の二重人格(殺人者)を演じているのだが、最後の最後の一瞬、どもらない。つまり、全部芝居だった、とわかる。この吃音から、普通のしゃべり方に変わる瞬間が、実にうまい。「はっ」とさせる。しかし、「はっ」としながらも、「あれっ、せりふのしゃべり方を間違えたのかな?(演技ミスかな?)」と思った次の瞬間にどんでん返しが始まる。
 よく似たどんでん返しでは「ユージュアル・サスペクツ」がある。ケヴィン・スペイシーが、「犯人」なのに、おしゃべり障害者の演技で刑事の追及をかわしていく。最後に足を引きずっていたのに普通の歩き方に変わるのだが、それは「おまけ」で、「おしゃべり」(嘘)の自然な感じが、とてもいい。
 私は英語は「字幕」が頼りだが、字幕を頼りにしながらも「声の調子」で引っ張られる役者がいる。エドワード・ノートンもケヴィン・スペイシーも、演技のなかで、もう一度演技するという二重構造のときに、とても生き生きとした味が出る。
 で、今度の映画だが……。
 そこには二重構造どころか、何重にも二重構造が入り子細工のようになっている。それが複雑すぎて、エドワード・ノートン自身の強靱な記憶力と、頭に浮かんだことばをおさえきれないという「言語」に関する二重構造が邪魔になっている。エドワード・ノートンの奇妙な病気が他人を警戒させるわけでも、また他人を同情させるわけでもない。つまり飾りになっている。こんな演技ができます、という「宣伝」になっている。
 これは監督もできます、脚本も書けます、という「宣伝」にまで拡大し、ちょっと「味」が雑になっている。これは、演技に遊び(裏切り)がなくなっているという感じで、「人間」そのものの魅力が感じられない。
 映画を見るのは(あるいは芝居を見るのは)、演技を見るだけじゃなくて、「地」も見たいからだね。どの役者もそうだが、「地」の出し方が乏しい。その分、映画としてはすっきりしているというか、簡潔な感じになっているが、つまらなくもある。
 エドワード・ノートンもアレック・ボールドウィンも、妙に「甘い」ところがあり、それが「悪」をつつむところに「許せる」感じがあっておもしろいのに、「甘さ」を殺してしまうと「凡人」になってしまう。
 ウィレム・デフォーは逆に「醜さ」のなかに純粋さを感じさせるところが魅力なのに、なんといえばいいのか、最初から純粋なんだというような主張をしてしまうので、これも「凡人」になってしまう。
 難しいものだなあ、と思う。
 この映画を支えているのは、1950年代という「風景」だろうなあ。私は1950年代のブルックリン(ニューヨーク)を知っているわけではないが、いまとは違う人間臭さがいいなあ、と思う。車が走っても、いまの映画のようにカーチェイスにならないし、地下鉄もなんとなくのんびりしている。これにジャズがマッチしている。大都会だけれど、つめたくない。人間臭い。これが、ストーリーにぴったりあっている。
 エドワード・ノートンが「多芸」であることは、今回の映画でよくわかった。でも、次は役者に専念してほしい。

(2020年01月15日、t-joy 博多スクリーン10)   
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朽木祐『鴉と戦争』

2020-01-15 12:37:03 | 詩集


朽木祐『鴉と戦争』(ユニヴール12)(書肆侃侃房、2019年12月26日発行)

 朽木祐『鴉と戦争』は歌集。

いつまでも兄がスマホを弄るのがひかりでわかる わかる寂しい

 「わかる」が二度繰り返されている。なぜ「わかる」のだろうか。なぜわかってしまうのだろうか。
 「寂しい」が朽木の答えである。そのとき「寂しい」はだれの寂しさか。兄のものか、私のものか。それは区別ができない。兄と私が「寂しい」ということばのなかで区別をなくしていく。つまり「わからなくなる」、それが「わかる」ということ。
 ここにはあることがらへの向き方(思想)がある。
 私たちの世界は、それぞれ「区別(孤立性)」を持っている。それが「個別性」をなくす瞬間がある。区別がなくなって、溶け合ってしまう。それをことばでもう一度「個別性」へと生みなおしていく。
 しかし、ふつうは「わかる」とは言わないし、「わかる」を繰り返すこともない。たとえば、

手のひらに自ら傷を彫るひとの沈黙のその淵は深くて

 という具合に「わかる」を隠す。
 「沈黙」が「わかる」。そして「沈黙の淵の深さ」が「わかる」。もっと厳密に言えば「淵」があることが「わかる」がその間にある。
 「わかる」はいつでも、どこでも補うことができる。
 いわば、「わかる」は朽木のキーワードなのである。
 あるいは、

ゆう闇のチャイコフスキーのボリュウムを下げた手を取る 温かい

 「温かい」が「わかる」。その「わかる」をとおって、感情を共有する。人間と人間が結ばれる。
 これは、ふつうの「短歌」、伝統的な「短歌技法」かもしれないし、テーマかもしれない。
 一方、こんな一首がある。

ああ鴉、いつまでそこに)流血がその沈黙に値を付ける

 これは、朽木にだけ「わかる」ことである。つまり発見だ。それをことばにすることで、「わかる」を共有してほしいと読者に呼びかける。もちろんそれは孤独な叫びである。だれかを対象に声を発しているが、そのだれかがそばにいるわけではない。いってみれば、抽象的な人間に語りかける抽象のことばであとも言える。
 朽木は、この二種類の歌を交錯させている。まだ、どちらを選んでいいのか考え中なのかもしれない。
 たぶん、後者の方が朽木の目指しているものだと思う。
 そして、もしそうなら。

はなびらはあとからあとへとみづに来て沈む力を蓄へて死ぬ

 こういう「伝統的」なリズムをどう処理するべきか、そこに問題が出てくると思う。感覚の定型をどこまで利用するか。感覚の定型の継承と拒絶。両方を融合させ、それが新しい音楽として自在に動きには、もう少し時間がかかるかもしれない。
 帯に掲げられた、

戦争がけふの未明に始まつた。ふはと鴉の羽にふりかかる

 ここにはそうした融合の試みがあるが、私はこの「ふはと」を何か「汚い」と感じてしまう人間である。つまり、私の「語感」にあわない。美しさの偽装(嘘)を感じる。「虚構」ではなく、嘘と感じてしまう。








*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(71)

2020-01-15 08:47:19 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
ソネット三篇

* (女を愛するとは)

ひとりの女の姿を描きかえることだ
また葡萄のひと房のなかに閉じこめることだ

 「描きかえる」「閉じこめる」。二つの動詞がある。「描きかえる」は「かえる」に重心がある。「閉じこめる」も、閉ざされていない状態から、閉ざされた状態に「かえる」と言うことだろう。言い直すと、女を愛するとは、女を「かえる」こと。
 その「動き」(動詞)よりも「ひとり」「ひと房」に含まれる「ひとつ」が、この詩の重要なことばではないかと思う。
 「一(ひとつ)」の対極にあるのは「多(複数)」。多くのなかから「一」を選ぶ。そこに隠された動詞がある。「一」に「かえる」は「一」にすることである。
 何のためか。
 嵯峨自身が「一」になるためである。
 詩の三連目は、こう書き出される。

こよいその庭でぼくは緑をささげる一本の樹だ

 「一本」のなかに「一」がある。嵯峨は、自分自身を「一」にして、女の「一」と向き合う。それを「愛する」と言う。
 そして、この「一」は、最終連で「ほんとう」ということばに言い直されている。
 「ほんとう」に「する」、「ほんとう」に「なる」。そのとき「二(女と男)」は「一」になる。









*

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