詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2020年01月24日(金曜日)

2020-01-24 23:16:47 | 考える日記
2020年01月24日(金曜日)

 私は「誤読」する。もちろんそれは意図的に誤読するのである。しかし、その「意図」を私は理解しているわけではない。何を目指しているのか、わからない。わかるのは「誤読」しないかぎりたどりつけないものがあるということだ。それは、どこかにすでに存在しているのではない。どこにも存在していない。あえていえば、すでに存在しているものを破壊したときに生まれるものなのだ。つまり、「誤読する」その瞬間だけに生まれ、ことばにしてしまった瞬間には消えてしまうものなのだ。


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森永かず子「いつか夢になるまで」、井上瑞貴「森林区」

2020-01-24 18:11:55 | 詩(雑誌・同人誌)
森永かず子「いつか夢になるまで」、井上瑞貴「森林区」(「水盤」20、2019年12月25日発行)

 森永かず子「いつか夢になるまで」を読んでいて、私は、ふいにとまってしまう。

短い人生のなかで
ひとはどうして
孤独や後悔や絶望を
囚人のように
いつまでも引きずって
歩くのだろう

それは笑っていても
疲れて眠るときも
やわらかな獣のように寄り添うので
つい手を伸ばして
撫でてしまうのだ
その生温かさが
わたしの生きた時間だと
気づかないまま

 一連目、「ひとは」と書かれている。主語は抽象的だ。まわりのことばも抽象的だ。こういう「意味」の強いことばは、詩になりにくい。「意味」というのはひとそれぞれのものであって、つまりあくまでも個人的なものであって、「一般化」しにくいからである。
 しかし、逆説的になるが、それでは「一般的意味」が共有されやすいかというと、そうでもない。
 「意味」は個別的でなければならない。絶対に他人と共有できない「意味」が書かれたときだけ、読者は、それを共有する。「あ、これが、私の言いたかったことだ」と気づくからだ。
 一連目には、そういう「ことば/個別的な意味」が書かれていない。
 二連目は、どうか。
 やはり「個別的な意味」は書かれていない。そして、そのかわりに「わたし」が突然出てくる。「わたしの生きた時間」という形で。
 私は、ここでつまずいた。
 もし、ここに「わたし」というこばがなければ、それはそれなりに詩になり得たと思う。「だれの時間」と特定されていないので、それを「わたし(森永)」の時間と思わず、私(谷内)自身の時間と思い込むことで、私自身が覚えていることをことばに結びつけることができたと思う。つまり「共有」が可能だったかもしれないと思う。私なりに「孤独」や「後悔」や「絶望」を思い出すことができたかもしれない。
 しかし、ふいに登場した「わたし」がそれを奪い去っていく。
 私に対して、何かを差し出すのではなく、差し出した物を、これは自分の物という具合に森永自身が奪い取っていく。
 なんだろう、これは。
 まるで、「おいしい料理ができたよ」と言われたので言ってみたら、それは私が食べるための物ではなくて、森永が自分で食べて見せるための物だった、という具合だ。

けむる雨のなか
紫陽花が咲いている
廃屋の庭で
ぼんやり灯りながら
冷めていく時間を
数えてきた
過去も未来も
今ここにない時間
みんなまぼろし

 と、ことばはつづいていく。それが「わたし(森永)の生きた時間」。
 それはそれで「意味」として完結しているが、完結しているからこそ、詩になっていない。
 もし一連目を「ひとは」ではなく「わたしは」と書き始めていたらどうなったか。あるいは二連目を「わたしの」ではなく「ひとの」と書きつづけていたらどうなったか。
 ここに考えてみなければならない問題があると思う。
 主語をどうするかは、書き手のこの身の問題なのかもしれないが、私は、この詩のように「ひとは」とはじめておいて、その「ひと」を代表するのが「わたし」であるというような「論理」には、どうもなじめない。
 「わたしは」とはじめて「ひとは」とつないでゆくことにもなじめないが。



 井上瑞貴「森林区」と比較してみる。「ひと」「わたし」の登場のさせ方が違う。

追うかぎり遠ざかる木々の葉を除去しなければなりません
小鳥たちの小さな空腹が鳴き声になって
その輪郭はひとびとの斜面をあやしくかたどり
散らない花が散る花にまじって咲いているのがみえたのです
(略)
なにひとつ終わることのできない個人の終着駅で
何度も聴いた音楽をはじめて聴きながらわたしは歌います
声を使わずに
しかも朗々と

 「ひと」といっしょにあることばが、私(谷内)の知らないことばである。「ひと」は「抽象的」だが、それといっしょにあることばは抽象的であると同時に、井上だけの肉体を通ってきたものであることがわかる。「孤独」とか「絶望」のように「辞書化」されていない。井上の肉体を通ってきているから「個人」が「ひと」から切り離された存在であることがわかる。そのうえで「わたし」という呼称を井上が選択していることがわかる。
 さらに「何度も聴いた音楽をはじめて聴きながら」「声を使わずに/しかも朗々と」という矛盾が「わたし」を個別化する。
 ここで井上が愛用している「矛盾」は辞書に載っているような意味での矛盾ではない。対立する存在ではない。つまり、力が拮抗して動けないという状態ではない。井上の「矛盾」は、既成のもの(すでにあるもの)を否定し、それをまったく違うものにしてしまうという意思の運動のことである。
 何度も聴いているとしても、それとは違う聴き方を選びとって、はじめての状態で聞くのである。初めてにするのである。声をつかって朗々と歌うということは多くのひとがする。だが、井上は声を使わないを選ぶのである。それが他のひとに「朗々と」したものとして聞こえるかどうかは問題ではない。他人がどう思おうが、井上が「朗々」にしてしまうのだ。
 井上は他人を拒絶することで抒情を完成させる。それを共有するものは、井上のように他人を拒絶しないといけない。つまり、井上のことばを拒絶しないといけない。拒絶することができたら、そのとき、そこにはじめて抒情の共有が成り立つ。





*

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アルメ時代29 春の歌

2020-01-24 14:36:30 | アルメ時代
29 春の歌



   1
欄干という音の美しさに負けて
また橋を渡っている
川の水は潮で甘くなっている
ぷっくらとふくれてけだるい
「結局はわからないんだ」

   2
「川の名前は言いたくない
音の組み合わせに
ひなびたひろがりがない」

   3
ひきずりこまれかけている

   4
猫を頼りに路地をまがる
自分に出会わなくてすむように
(何も言うな)

   5
陶器屋の前を通る
何に驚いたか
こらえきれずに陶器が落ちる
アスファルトの上で白い花になる

   6
鏡張りのビルがある
きみが通るとき教会の横顔をふいに映し出す
見えないはずのものが
視線をおしひろげる
「ここでまがれば
昔へいけるだろうか」

   7
(何も言うな)
(言ってしまえ)

   8
遠くがぼんやり光をためている
大通りとぶつかる場所だ
車が途切れ向こう側が見えることがある
「路地も幻想を見るだろうか」

   9
「意志が消える一瞬がある
魂が消える瞬間があるだろうか」

   10
ひきずりこまれかけている

   11
ふたたび角をまがる
雲の影がアスファルトの上に落ちて動いていく
ブロック塀にぶつかり垂直に立ち上がって
動いていく ふたたび

   12
私は私でありたくない
アスファルトの白でありたい
アスファルトの青でありたい
光や影や雨によってかわる濃淡でありたい

   13
ひきずりこまれかけている

   14
さらに角をまがる
煉瓦色の舗道を光がひいていく
砂浜から水がひくように
「金緑の砂の干潟よ」か

   15
ひきずりこまれるな

   16
小倉金栄堂で売れ残った本を開く
「太陽の沈んでいく速度ってかわるのかしら
冬の間はじれったいくらいに空をそめつづけていたのに
春が近づくとなんだか
すとんと落ちていく気がするわ」

   17
歩道橋から見えるのは
静かに折れている国道の角度
夕日は地平線に乗ったまま動かず
一日は終わる



(アルメ249 、1987年05月10日)

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(6)

2020-01-24 08:58:37 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
人名

 「ふとそのひとの名をおもいだした」と書いたあと、嵯峨は、こう書いている。

ぼくはいま
誰かの記憶のなかを通つているのかもしれない

 思い出すというのは、「記憶」をいまに蘇らせることである。「記憶」のなかにいる誰かを思い出すというのは、「記憶」のなかで誰かが動くということだろう。つまり、誰かが嵯峨の記憶のなかを通っている、と考えるのが普通だと思うが、嵯峨は逆に考えている。
 刺戟的だ。荘子の蝶の夢のように。
 誰かが嵯峨の記憶のなかで動いたのか、誰かの記憶のなかで嵯峨が動いたのか。それは確かに、区別がつかない。







*

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