詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本育夫書下し詩集「しはしは」十八編

2020-01-17 12:30:12 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫書下し詩集「しはしは」十八編(「博物誌」44、2020年01月15日発行)

 最近、山本育夫の書いている詩について書き続けている。書き続けているけれど、この場合の「つづけている」はかなりあやしい。私は「つづけている」というよりも、そのつど「切断」している。あるいは、そのつど「別のこと」を書いている。「つづいている」ものなどなにもない、というのが私の「実感」だからである。
 もし、私が山本の詩に、なにか「つづいているもの」を見たとしたら、それは「幻」であり、「嘘」というものだろう。また、だれかが私が書いているもののなかに「つづいているもの」を感じるとしたら、それは私のことばが不徹底だからだろう。
 私は「ことば」というのもが「つづいている」とは思えないのである。そのつど「新しい」ものとして生まれてきていると感じる。そして、その「新しく生まれる」瞬間、その動きに、ぐいと引きつけられる。

 正月、私はいつも「古典」を読み直すことからはじめる。「古典」というよりも、すでに読んだ本と言い直した方が正確かもしれない。私自身の「無軌道」を少し修正したいからである。どんなことばも、そのつど「新しい」が、それを「新しい」と感じるためには「古い」ものが必要なのだ。
 今年は、和辻哲郎の『古寺巡礼』(ワイド版岩波文庫)を読んだ。法隆寺の五重の塔について書いた部分の、最後の数行。(丸数字は私がつけた。)

 ①ことにわたくしが驚いたのは屋根を仰ぎながら軒下を歩いた時であった。各層の速度が実に著しく違う。あたかも塔が舞踏しつつ回転するように見える。②その時にわたくしは思わずつぶやいた、このような動的な美しさは軒の出の少ない西洋建築にはみられないであろう。

 ①は和辻のいきいきとした感性をあらわしている。「塔が舞踏しつつ回転する」という文章には、ああ、かっこいい、ああ、すごい、と思う。私はこの文書を思い出しながら法隆寺の五重の塔をめぐってみたことが二度あるが、二度とも和辻の体験を味わうことができなかった。もっとゆっくりと和辻の足跡を探せばよかったのかもしれないが、他人の感性をそのままたどるのは難しい。
 そのときの悔しさや、何度読んでもかっこいいという気持ちとは別に、今年は②の部分に思わず傍線を引いた。
 とくにかっこいいことばが書かれているわけではない。まねして書いてみたいことば(剽窃したいことば)があるわけではない。しかし、①から②にかけて、不思議な飛躍がある。①では、和辻の「肉体」と「感性」が書かれている。②は、その感性(肉体)を振り切って、「理」(美の論理)が動き始めている。「理」がつかんだものが動いている。
 和辻の文章には、ときどき、こういうことが起きる。
 中将姫伝説について書いた次のような文章にも、それを感じる。

 ①蓮糸で織ったということは嘘なのである。しかし蓮糸で布が織れるものではないということは、昔のひとにも明らかなことであったろう。②蓮糸でなくてはならないのは幻想の要求である。③蓮糸で織ったことが嘘であってもこの幻想の力は失せない。

 ①で事実を書く。②は事実に対する批判である。しかし、③はその批判を批判して、①のなかに動いている「理」でしかつかみとることのできないものをつかみだしている。「幻想の力」を「理の力」と呼んでいるに等しい。
 この、切断力と飛躍力、新しいものを「生み出す」とことばの動きに私はひきつけられる。あらゆることは、ことばといっしょに生まれてくる。

 長い長い前置きになったが、今回の書下し詩集を読んで感じたのは、和辻の切断力、飛躍力に重なるものを感じたからである。
 でも、すぐにそう感じたわけではない。

01しはしは

しはしをあわせもって
しとしととふる

かろうじて
帰郷したしは
しのやまをこえ
しをこえ
したにしたに
ともぐりこんでいく
しになりたがっていることばは
清潔な朝食の
木のテーブルに
浮かび上がってくる
てぎわいい
中国人の手で
さばかれて

それをこつこつと
食べる

 「しはしは」は「詩は詩は」なのだろうが、「しばしば」かもしれない。奇妙な語呂合わせのようなものがあって、そのあと「中国人」が出てくる。なぜ? わからない。わからないけれど、この部分には、なにかを引きずるような「粘着力」を感じる。
 ところが三連目でトーンがかわる。「こつこつ」ということばには、それまでのことばの「つながり」を感じるが「食べる」には音のつながりはない。「朝食」「中国人の手で/さばかれて」には「意味」のつながりはあるが、それは同時に「詩」(ことば)とのつながりを切断している。
 変な飛躍が起きている。
 これはいったい、何?
 最初に読んだとき、そう思った。

05井戸

よじのぼっていくと
落ちる
爪を剥ぎながら落ちる
落ちる

ことばが
落ちて落ち着いて
たまる
たまっている
血の層になって
(少し怖いがさわってみる

見上げるとはるかかなたに
丸い空ということばが
浮かんでいる

 三連目は、完全に飛躍している。この飛躍をどう呼んでいいのかわからないが、丸い空は丸いだけではなく、なにか「完璧」という印象をもたらす。その「完璧」は、「理」なのだ。
 「理」が世界を支えている。貫いている。『古寺巡礼』に一回だけ出てくることばで言えば「道」になる。世界を新しく「生み出す」力がそこにある。丸い空という「ことば」が丸い空を生み出し、同時にそれは「ことば」であると宣言している。
 「浮かんでいる」は奇妙な言い方になるが、山本を超越して、そこにあるということ。山本のことばなのに、山本のことばではない。あえて言えば「理=真理」のことばになっている。

 で。
 読み進むと、だんだん「理」が強すぎていやだなあ、みんな「意味」になってしまいそうだなあという気がしてくるのだが。

11あげた

ペデストリアンデッキを歩いていると
向こうに見える藤村記念館の
欄干にだらりと
ことばがたれているのが見える
見上げると城址の上を
ひらひらと流れていることばも
見える見える見えることばが見える

ピックアップして
そのかたまりを
手提げの中に放り込む
のぞき込んだ女子高生が
(このことばをもらえる?
というから
いいよととりだしてあげた

 突然登場する「女子高生」には「理」というものは存在しないが、存在しないからこそ究極の「理」がある。言い直すと、「世界(現実)」というものは、そのつど生まれつづけている(新しくなりつづけている)のだから、何があらわれようと、それまでの世界とは矛盾していない。無意味であればあるほど(つまり「意味」を否定する力がそこにあればあるほど)、それは正しいと言える。
 和辻は、そういう「無意味」を書いていないが、それは和辻の世界が「倫理/哲学」だからである。
 詩人は「意味」を完全に否定する瞬間を提示できるから詩人なのである。
 「意味」は読んだひとがかってにつくりだせばいい。どうせ「意味」は個人を離れては存在しないものだ。
 そしてこの、突然の「理不尽」に向き合ったとき、「ことば」と山本の向き合い方が、また突然大転換する。それまでは「見る(見つめる)」「ピックアップする」「放り込む」という、いわば「収集」だったのが、「あげる」にかわる。「あげる」のまえに「とりだす」がある。さらに、それを「いいよ」と肯定する変化がある。

 強引に。

 ほんとうに強引に和辻の世界と山本の世界を結びつけることで、一種のビッグバンを描くならば。
 和辻は古寺をめぐり古仏をみながら天平時代の人の「構想力」というものと和辻を重ねることで、「構想力」という「道」そのもののなかへ突き進んだが、山本は女子高生の「構想力」に彼が集めたことばをまかせたということになる。
 「構想力」だけが世界に存在するのだ。

17欲を書く

いけそうなので
いけるところまでいってみますか
ことばのカミサマ
意味にまで届かないことばに伴走しながら
次々に意味に落ちることばを


ふり捨て
フリして
なんかその先に思いもがけない
新しい感性なんかが不意に
現れたりしないかと
欲を書く

 まあ、そうだね。世界は一瞬一瞬生まれ変わっている(生み出されつづけている)から、小さなことが突然大きなことになることもあるだろう。それは書いてみる(ことばを動かしてみる)以外に、どうなるか、わからない。

18締めは静かに

それでいいのだよ
山本くん
おしっこをはじいて
ズボンを濡らさないように
水道で手を洗いなさい

ことばの道は遠いので
あせることはない
口に含んで
ふっと吹き出すことばのタネの
その放物線のように
詩を書く

 あ、「道」が出てきた。
 見落としていたのか、無意識のうちにこの「道」に導かれて、私は和辻のことを書いたのか。わからない。けれど「道」はどこにでもある。そこからあらゆるものが生まれてくるということだけは、確信できた。「それでいいのだよ/山本くん」と私もいってみる。






*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(73)

2020-01-17 09:28:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (とどまりたい 心の上に)

 この詩も、ことばが次々にかわっていく。「とどまりたい」という思いを裏切るように動いていく。そして、その最後。

しかし雨のなかを長い橋を渡つていくとき
そのためにはわたしはすつかり別人にならねばならぬように思う

 「別人になる」とは「心」が「別の心になる」ことである。長い橋を「渡る」のは「別人」ではなく同じ「肉体」。「渡る」という動詞の前に、「心(感情、あるいは認識かもしれない)」は変わってしまっていなければならない。そう思っている。
 このとき「心」には「上」も「下」もない。 
 「心」のあり方そのものが、一行目とは「別」のものになってしまっている。
 ことばを動かし、書くということは、こころを変えてしまうものなのだ。







*

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