詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(70)

2020-01-14 10:47:34 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (夜はつづき)

花は散つて
夕べの川はながれていたと

 夜、その日見たことを思い出す。あるいは、その日ではなく、かつて見た日の情景かもしれない。特定はできない。
 時間の飛躍。あるいは時間が時間という「名詞」を離れて、動いていく。
 そこに詩がある。
 花は「散る」、川は「ながれる」。そこにある時間は止まっていない。散るという動詞、流れるという動詞、その動詞そのものがつくりだす時間を、夜、思い出している。「夕べ」と書かれているが、これも「日が暮れる」の「暮れる」という動詞を隠していることばだ。夜は「つづく」。その「つづく」という時間のなかにも動きがある。








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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ポン・ジュノ監督「パラサイト 半地下の家族」(★★★★★)

2020-01-14 09:14:03 | 映画
ポン・ジュノ監督「パラサイト 半地下の家族」(★★★★★)

監督 ポン・ジュノ 出演 ソン・ガンホ、チェ・ウシク、パク・ソダム、チャン・ヘジン

 この映画は非常に分かりやすく、同時にわかりにくい。そして、その「わかりにくさ」を最大限に生かしてクライマックスが「リアリティー」に満ちたものになる。これが傑作のゆえん。
 映画は映像と音楽で成り立っている。ところが、この映画の基本は映像と「匂い」である。これが、この映画をわかりにくくさせている。映画館では、特別な劇場でないかぎり匂いはつたわらない。このつたえることのできない匂いをどう表現するか。どう観客にわからせるか。
 金持ち一家の子供が、貧乏一家がいるとき、貧乏父親の匂いをくんくんと嗅ぐ。それから母親の匂いもくんくん。「同じ匂いがする」。そう指摘されて、貧乏一家は少しうろたえる。石鹸やシャンプーをそれぞれべつのものにするか、という相談をする。でも、そんな匂いではなく、貧乏一家が住んでいる「半地下」の部屋の匂いがしみついているのではないか、と気づく。でも、それって、どんなにおい? まあ、半分湿ったような、生乾きの洗濯物のような、少し黴臭いにおいだろうなあ。でも、そういう匂いは、実際に嗅いだ瞬間には気がつくが、「嗅覚」がそれを思い出せるわけではない。私は、思い出せない。ただ、頭の中で「あ、きっと生乾きの匂いだ」と思うだけである。そして匂いというのは、父親が何度かやってみせるが、自分の衣類をくんくん嗅いでみたって、はっきりとはわからない。すでに自分の「肉体」の匂いが混じっているし、「半地下」で暮らし続けているうちに、その匂いに慣れっこになっているから「匂い」として存在しないのである。
 この存在しているのに、存在しない、というのはこの映画の重要なテーマであり、「匂い」を主役にしたというのは、この映画の画期的な手柄である。
 で、その存在しないはずの匂いが、クライマックスで大活躍する。
 子供の誕生日。金持ちの知り合いがお祝いにかけつける。金持ち一家の地下に隠れ住んでいた男(元の家政婦の夫)が地下室から抜け出して、貧乏人一家と金持ちに復讐する。殺人鬼となって暴れ回る。いちばん下の男の子(最初に匂いを指摘した男の子)が気絶する。父親が病院へ連れて行こうとする。運転手(貧乏人の父親)に車を出せと言うが、父親は襲われた娘、妻が心配なので車の運転はしたくない。迷う父親に、金持ちの父親が「車のキーをよこせ」とわめく。キーをほうりなげる。そのキーの上に殺人鬼が倒れ込む。父親はキーを拾い上げるとき、強烈な匂い(地下室の匂い)に気づき、思わず顔を背ける。それに半地下の父親が気づく。「あ、俺たちはこんなふうに金持ちから顔をそむけられていたのだ。いつもは使用人としてちゃんと向き合ってくれているように見えるが、彼らの本質はこれなんだ。貧乏人には顔を背け、そのあとで顔を背けたことがなかったかのようにふるまう。それが金持ちの生き方なんだ」。実際、男の子の父親は顔を背けながらも殺人鬼の体を汚れたものをのかすようにして動かし、キーを拾い上げ、男の子を病院へ運ぼうとする。この瞬間、貧乏人の父親は瞬間的に殺意に目覚め、復讐する。このキーを放り投げてから、キーを拾うまでの、二人の父親の一瞬の映像のなかに「匂い」がなまなましく映像化される。
 昔、「パフューム」という香水と官能をテーマにした映画があったが、あのばかばかしい「説明」映画に比べると、この映画の「映像力(匂いをつたえる力)」は圧倒的だ。トイレの汚い匂いなら何度も映画化されている。この映画でも、大雨の日に下水が逆流してくるシーンがある。でも、それは「想像力」の範囲内。想像していなかった匂いと、その瞬間の反応、その反応への本能的な怒り。これを映像化できたのが、この映画の、ほんとうにほんとうにすばらしいところ。
 この瞬間、「匂い」ではないけれど、私は私が体験してきたさまざまな「差別」を思い出す。「差別」は、男の子の父親が見せた反応のように「一瞬」である。そして、「差別」したひとは瞬間的にそれを修正するので、彼には差別したという意識はない。さらに、そういう瞬間は第三者にはつたわりにくい。だから、それに気づくひとは少ない。でも、当事者なら気づく。あ、いまの反応は、何か違う、と。「差別」には、そういうわかりにくい「におい」がある。
 (「匂い」ではなく「におい」と書くべきだったのだと、いま気づいたが、書いたものは書き直さない。)
 この「におい」を映像とストーリーにしたこと。これがこの映画のいちばんの魅力だ。

 この映画は、そういう映画の「魅力」のほかにも刺戟的なテーマを投げかけてくる。貧乏人の一家が金持ち一家に復讐する(怒りをぶちまける)というのなら、いままでも描かれてきたと思う。黒沢明の「天国と地獄」もそのひとつだろう。
 この映画は、金持ち-貧乏と簡単に社会を分類しない。金持ちと貧乏の間には、半金持ち(半貧乏)がいる。「半地下」に住む家族が、いわば「半貧乏(半金持ち)」である。半貧乏は、自分を貧乏だと思う。金持ちと比較するから、どうしてもそうなる。このとき、もっと貧乏がいるということに気がつかない。気がついたとき、たぶん彼らは「半地下」ではなく「半地上」の部屋に住んでいると自覚し、ほんとうの地下室ではなくてよかったと思う。でも、これはなかなか自覚されない。無意識のうちに「地下」を差別して(言い換えると、放置して)生きている。
 だから。
 「地下室」の存在が明らかになり、地下室の住民から反撃されると、今度は自分たちが「地下室」に蹴落とされ、せっかく「半地下」から「半地上」、そして手に入れた束の間の「地上」のたのしみも奪われてしまうとうろたえる。映画の後半に展開される「地下住民」と「半地下住民」の壮絶な闘いは、それを明確に描いている。しかも、その闘いが、なんというか、「他人を蹴落とす」ことが「生存」につながるという、生々しいものなのだ。彼らが頼りにし、また恐れるのが、金持ちなのである。金持ちに「半地下」のひとの不正を訴え、「地下」から助けてもらう、というのが金持ち一家から追い出された家政婦の方法であり、それを阻止しようとするのが「半地下」の一家の方法である。互いに助け合うということは考えたりしない。
 これは現代社会(特にアベノミクス以後の日本の社会)で起きていることをそのまま象徴している。いや、雄弁に告発している。貧乏人に、貧乏人を蹴落とせば、半貧乏(半金持ち)を維持できるぞ、と誘い水を向ける。「言うことをきかないなら、子会社に出向させるぞ」「言うことをきかないなら、非正規社員にしてしまうぞ」「言うことをきかないなら、パートにしてしまうぞ」と言うかわりに、たぶん経営者なら「言うことをきいたら契約社員にしてやる」「言うことをきいたら正社員にしてやる」と言う。そうやって「差別構造」を固定化する。
 大声を出して笑いながら見て、見終わったら、ぞっとする。映画のストーリーではなく、いま、現実に起きていることに気がついて。この社会に充満している「におい」に気がついて。



 この映画は、福岡では大人気で、私はKBCシネマで見るつもりで出掛けたのだが、映画館に上演の20分以上前についたのに、劇場の外にまで列がつづいている。「あれ、きょうは受け付けが遅かった?」と思ったら大間違い。私が見ようとした初回はすでに売り切れ。映画館のなかにはすでに入場を待つ人が列を作っていて、劇場の外の人の列は次の回のチケット購入者だった。しかも、もうすでにだいぶ売れているらしい。そういうことが、開いたドアの向こうのやりとりから聞こえてくる。その間にも、列はどんどん長くなる。私は急いで中洲大洋でもやっていたことを思い出し、ネットで予約しようとするが、なかなかつながらない。やっとつながったと思ったら、そこもすでに半分以上埋まっている。いつもの席が埋まっている。でも、そこにいちばん近い席を、なんとか確保した。中洲大洋も満員だった。
 KBCシネマも中洲大洋(スクリーン2 )も客席数が 100席程度だが、こういう経験ははじめて。だれが宣伝しているのだろう。びっくりした。

(2020年01月13日、中洲大洋、スクリーン2)
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