詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アルメ時代25 紙について

2020-01-09 20:32:09 | アルメ時代
25 紙について



 一枚の紙がある。幾筋もの折り目が残っている。裏側の色がかすかに透けて見える。青系統の色らしい。四辺を広げてみる。無数の凹凸がしずかに呼吸している。手を離すと少し縮む。そのときである、見え隠れしていた折り目、やわらかな署名が浮かび上がるのは。深い折り目、裏側の青か、紺か、あるいは緑に白をまぜたときにできるあいまいな色をにじませる第一の折り目の端から新たな折り目が走る。
 全体を求める未熟な精神は、第五のかすかにふとった折り目にぶつかると唐突に向きをかえ、第一の折り目の右端へとまっすぐに駆けだす。しかし、第四の、二回折ったときにできるらしいぶれた折り目の底なしの淵を落ちていく。そのときの声がこだまする一点から類似の、つまり微妙にずれた折り目が、様様な折り目を喚起しながら上辺の中央へ向かう。それらが展開する継続的な乱れが視力にひそむ装飾的な連想を吸収し、否定し、直感をととのえる断念の領域へ認識を誘い込む。
 新しい紙を取り出し、二つの角を合わせる。ふくれた紙の稜線を指でしごく。交錯する折り目の角度を思い出しながら繰り返す。対称に折り、対称に広げる。折り目という不可逆性がはらむ豊かさを夢み、さらに繰り返し、立体になる直前に、ほどいていく。掌を伸ばす。手を離す。ゆっくり縮む時間の、危うい光を見ている。判断し、検討し、分類し、完結を求める意識のようにだらしなく動いている。



(アルメ247 、1987年02月10日)
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水根たみ『幻影の時刻』

2020-01-09 18:48:41 | 詩集


水根たみ『幻影の時刻』(らんか社、2019年01月05日発行)

 水根たみ『幻影の時刻』を読み進んでいて「緊張」へたどりついた瞬間、私は、気づく。水根のキーワードに。
 こういう詩である。

糊付けされたような
夕闇
そのガード下で
急停車する赤いバス
突然
飛び出す
白いネクタイの男
祝辞の言葉を忘れ
曲がりくねった道を
右往左往する
電柱の前で
血色の良い美女と出会う
直立する

 キーワードのあらわれ方には二つある。①そのことばがないと意味が通じないことば。②なくても意味が通じるが、作者が無意識に書いてしまうことば。
 水根の場合は②である。そして、それは「突然」である。
 その一行が登場する前の「急停車する赤いバス」には「急」ということばのなかに「突然」が含まれている。準備して「急停車する」ということはない。「急停車」はいつでも「突然」である。「急停車」ということばに隠れている「突然」、それが隠れきれなくなってあばれているので、それにつられて「突然」が登場してしまった。
 「突然」は、この詩の、どの行にでも補うことができる。
 「突然」糊付けされたような、「突然」祝辞の言葉を忘れ、血色の良い美女と「突然」出会う。
 どういうことも「必然」であるけれど、水根は「必然」を否定し、「突然」を描く。「必然」は散文であるのに対し、「突然」は詩だからである。
 水根にとっては「散文」を否定する「突然」こそが詩なのだ。
 「突然」を言い直したものに「不意(に)」がある。「誕生日」という作品。

不意に
女が顔を そむけた時
時間と時間の隙間から
バラの花が咲いた

 「不意に」は「突然」と書き換えても同じである。
 この詩の最終連。

この時
地球が少し動いた

 ここは「不意に」を補ってもいいし、「突然」を補ってもいい。どちらも同じだ。水根はこの「突然」を強調するために、「時」ということばをつかっている。律儀である。
 そして、この「突然」は、まったく逆のことばとしても書かれることがある。
 「孤独」という作品。

淋 という漢字を
口の中で
噛みくだいていると
雨が降り出した

傘を買った
急に走り出した

いつの間にか
口の中は
忘却の味がした

 一連目には「突然/不意に」雨が降り出したとことばを補うことができる。二連目には「突然/不意に」の代わりに「急停車」のときの「急」が書かれている。そして最終連。「いつの間にか」。これは「知らないうちに」ということであり、そういう意識の奥には「時間の流れ」が「量」として存在するから「突然」とは相反するはずなのだが。

突然
口の中は
忘却の味がした

 こう読んでも、受ける感じは、私には同じに思える。
 「突然/不意に」も「いつの間にか」も「瞬間」なのである。何かが変わる「瞬間」が水根にとっての詩ということになる。









*

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2020年01月09日(木曜日)

2020-01-09 09:57:37 | 考える日記
2020年01月09日(木曜日)

 和辻哲郎『古寺巡礼』の「道」、その2。

 「十二」。法華寺十一面観音について書いている。光明皇后の伝説について触れたあとの部分。

「あった」か「なかった」かの問題よりも、「あり得た」か「あり得なかった」かの問題に興味を抱く人に対しては、これらのことも何ほどかの意味を持つに違いない。
                               (135ページ)

 和辻は、「あり得た」か「あり得なかった」かに興味を持つ人である。この「あり得た」か「あり得なかった」かは、「事実」ではなく「構想力」の問題である。
 「構想力」ということばは、別の場所で、こんな具合につかわれている。「七」、聖林寺十一面観音について書いている。

かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうして自由な、構想力の結晶なのである。
                                (68ページ)

 「十一面」は「あり得る」のである。では、どこに。「構想力」を、和辻は、こう書き換えている。

人の心を奥底から掘り返し、人の体を中核まで突き入り、そこにつかまれた人間存在の神秘を、一挙にして一つの形像に結晶せしめようとしたのである。
                                (69ページ)

 「構想力の結晶」「一つの形像に結晶せしめようとした」と「結晶/結晶する」ということばが二つの文章をつないでいる。そして、そこに「人間存在の神秘」ということばが挿入されるのだが、この「あり得る」ものとしての「人間存在の神秘」こそが、和辻にとっての「道」なのだ。それは、「心の奥底」「体の中核」という、いわば「見えない」ところに、ある。
 和辻は、それを探している。「ことば」で、追い求めている。和辻は「倫理」の人であるが、同時に「哲学」の人として迫ってくるのは、そのためである。

 忘れられない本がある。忘れられない「ことば」がある。「意味」ではなく、「ことば」がある。それは、私と他人をつなぐ。そういうことが「あり得る」。その「あり得る」ものからすべてが生まれてくる。そういう「あり得る」ものとして「道」。
 「神秘」ということばは、私は好きではない。私は、その「あり得る」を「神秘」ではなく「ほんとう」としてわかりたい。
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(65)

2020-01-09 09:03:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (菖蒲の花が咲いている)

重い時間を支えながら
色テープのような虹が消えるまえに

 詩の一部だけを取り出して読むことは「文脈」を無視することである。つまり嵯峨の「思想」とは関係がない。
 と、いえるかどうか、私はかなり疑っている。
 逆に嵯峨の「無意識」があらわれているといえないだろうか。
 なぜ「重い」時間なのか。なぜ「色テープのような」虹なのか。
 菖蒲と花菖蒲は別のものだが、たぶん、ここに書かれているのは花菖蒲だろうと思う。その強い色。強さが「重い」を呼び覚ます。さらに「人工的な(着色された)色テープ」を呼び寄せる。菖蒲の花の鮮やかな色が存在しないなら、虹は「色テープ」とは違うものを比喩にしたに違いないと思う。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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