詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェームズ・マンゴールド監督「フォードvsフェラーリ」(★★★)

2020-01-18 09:37:35 | 映画
ジェームズ・マンゴールド監督「フォードvsフェラーリ」(★★★)

監督 ジェームズ・マンゴールド 出演 マット・デイモン、クリスチャン・ベール

 私は車にはまったく関心がない。しかし予告編で見た車が走るシーンが、とても自然に感じられて見に行く気になった。「自然」と書いたのは、わざとらしさがない、スピードを強調していないということである。
 マット・デイモンだったか、クリスチャン・ベールだったか。たぶん、クリスチャン・ベールだろうなあ、車が最高速度に達すると、逆にゆっくりした感じになる、というようなことを言う。別世界に入ってしまう。ハイになって感覚が世界と融合してしまう、ということだろう。
 これをどう映像にするか。
 難しいと思う。しかし、ちゃんと映像化できていると思う。クリスチャン・ベールがレースでトップにたったあと、そのシーンがある。前に誰もいない。どこまでもどこまでも走っていってしまいそうだ。この愉悦にすーっと吸い込まれる。
 これはもう一度あらわれる。クリスチャン・ベールが、テスト走行中、その感覚に誘い込まれる。この瞬間、あ、このままクリスチャン・ベールはこの世から去っていくのだとわかる。そして、実際、そうなるのだが、それが必然に感じられる。
 自然から、必然へ。
 これを映像で体験できる。この二つの「ハイ感覚の走行映像」を見るだけで、この映画を見る価値がある。
 しかし、他の部分は、あまりおもしろくない。
 「フォードvsフェラーリ」と言うが、ほとんどはフォード内部の「権力闘争」である。その欲望のつまらない闘いが、クリスチャン・ベールの快感を純粋に見せるという効果を上げているのかもしれないけれど、そういうものがない方がより純粋になったと思う。
 それはマット・デイモンのちらりと見せる「レース駆け引き」のうさんくさい部分についても言える。ライバルのストップウオッチを奪い隠したり、ナットを落としてみたりして、相手の動揺を誘う。実際にそういうことがあるのかもしれないが、クリスチャン・ベールの快感の、必然の美しさを傷つけてしまう。
 レーサーの純粋さを追求する映画ではない、といえばそれまでだが。

(2020年01月16日、t-joy 博多スクリーン3)
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(74)

2020-01-18 08:53:44 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
メモラビリア

眼をひらいていると見えない白昼の星が
眼をつむると深紅のまぶたのうらに遠い砂漠のようにひろがる

 「眼をひらく」「眼をつむる」、「見えない」「ひろがる(のが見える)」。「見える」という動詞は書かれていないが、「意味」はそういう対句になっている。
 「対」は対になることで、単独のときは存在しないものを出現させる。

われわれになんの関わりもないその静かな世界を
あこがれの深いまなざしで仰いでいると
誰も触れたことのない大きな空間に触れる

 「大きな空間」よりも「誰も触れたことのない」の方が重要である。「触れる」と嵯峨は書くが、それは「生み出す」のである。嵯峨のことばが。
 詩はいつでも、「誰も触れたことのない」ものを出現させる。

(このシリーズは今回でおわりです。)









*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

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