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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

柴田基典「夏の原理」

2020-01-26 15:49:31 | 詩(雑誌・同人誌)


柴田基典「夏の原理」(「アルメ」251 、1987年08月10日発行)

 柴田基典「夏の原理」は古い作品である。いま私は「アルメ」に参加していたときの作品を一冊にまとめようとしているのだが、ふと柴田の作品が目に留まった。私は柴田の作品がとても好きである。柴田が死んだとき、「もう柴田の新しい詩が読めなくなったんだ」と思い、そのあとすぐに「詩を読んでもらいたいと思うひとは、もういなくなった」とも思った。そして、私はその後詩を書きたいとはそれほど思わなくなった。それくらい好きだったのだと気がついた。
 その「夏の原理」の二連目に、こんなことばが展開する。

何だかとても落ちつかなくて
きょうも首をふりながら
家のなかをむやみに歩きまわった
新聞を手にするとアウラの腕はわるくないという記事が目にはいった
アウラの生まれたチリは
確かニッポンからいえば地球の裏側にあって
腸詰めのようにひょろ長い国
せんだって地震があって土地がふるえていた
いや あれはレコード会社の名前にそっくりの隣国だったかもしれない
この老ピアノ弾きの何とか変奏曲のテープを
手からはずしているうちに
一気に幻想的な古い港が手のひらに出現する
ずいぶんと廃船が散らかって
わが母船も
さらばだ 魂の母船よ
という程度になって このひと
南米生まれの理由でやっぱりハンディーがあったんだってね
実力の世界だといっても
わたしたちは町はずれの惑星にいるから
へんな重力が作用してくる
人間は惑いの年だ

 イメージの変化と音の変化が一体になっている。イメージの変化に音がすばやくついていく。あるいは音の変化にイメージの変化がついていくのか。そしてそれは「俗」と「聖」の接触のようで、私にはとても滑稽に思える。「ユーモア」というよりも「滑稽」と言った方が、しっくりくるおかしさである。
 ふと読んだ新聞のアウラの記事。そこからつづく連想というか、変奏というか。たぶん柴田にとって連想と変奏は同じ意味だったのだと思う。そして、それを「同じ」にしてしまうものが「音楽」だった。
 音の楽しみ。
 たとえば「アウラ」「チリ」のあとに「ニッポン」ということばが出てくる。「日本」ではなくカタカナで「ニッポン」と書かれたときに、「意味」ではなく「音」が疾走する。それにのって「コロンビア」ではなく「レコード会社の名前にそっくりの隣国」ということばまで行ってしまう。「意味(国の名前)」をふりすてながら、遠くで意味を響かせる。
 アウラ、チリ、ニッポン、レコード。
 変でしょ? コロンビアを隠しているところが、滑稽でしょ?
 だいたいコロンビアというのは「事実」とは関係ない。そもそも「無意味」。「無意味」だからこそ、違う「意味=レコード会社」で隠してしまう。
 さらに、ここから「批評」を展開する。
 「チリ」を「南米」に拡大してしまう。アウラにとって「南米」が「母船(母国)」であったかどうかは、わからない。チリを南米にしてしまうのは、遠い日本に住んでいるからかもしれないが……。そして、そのためだと思うのだが、ここからはじまる「批評」は「批判」ではない。「批判」はむしろアメリカに、アウラが活動の中心としたアメリカの「音楽世界」に向けられていることになる。
 柴田は東京へは出て行かず、福岡で生涯を終えた詩人だが、この自分の場所を離れないというところから生まれてくる「批判」と「内省」のくみあわさった奇妙な味も、私は好きである。「滑稽」のなかに、不思議な静かさがある。
 こういう「滑稽」の感覚は(何を滑稽と思うかは)ひとによって違うと思う。私はたまたま柴田と「滑稽」の波長があったということなのだと思うが、こういうひとに出会うというのはなかなか、ない。だから、忘れることができない。
 「夏の原理」の別の連。

軍手を洗い
洗濯ばさみで軒先に吊るす
半日 薄目をして
手袋の股の乾き具合を眺めた
にわかにわたしの手が傾斜するなどは
気にしないこと

 最後の二行は「意味」がわからない。わからないけれど、私は気にしない。わからないことがあるから、そこには「ほんとう」がある。他人のことがわかるはずがないのである。
 ということは脇に置いておいて。
 「手袋の股の乾き具合」というのはいいなあ。この「肉体」だけがわかる微妙なものを柴田は手離さずにいる。それはときには「不愉快」なものだけれど、それを「滑稽」にかえるのが柴田なのである。
 直前の「半日 薄目」というのも、柴田のことば(思想)の特徴をあらわしている。「半」というのは、柴田の基本なのだ。いま向き合っているのは「半分」、それとは別の「半分」がどこかにある。それはしかし、軍手の片手と片手のような、はじめから「ひとつ」のものの「半分」を想定していない。「イメージ」と「音楽(音)」のような、違った存在の「半分」を想定している。違うものと結びつくことで「ひとつ」を破って動いていく運動を想定している。違う「半分」に出会ったとき、柴田が見ている「ひとつの世界」が生まれる。つまり詩が生まれる。
 半「日」、薄「目」。その「日」と「目」のすれ違いのようなものも、楽しい。



*

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アルメ時代31 猿芝居

2020-01-26 10:01:06 | アルメ時代
31 猿芝居



原始の形をしている
すべては私から生まれた
と自負している猿
人間を不安がらせることを仕事と心得ている
何かの拍子で猿になったかもしれない
そう錯覚させることを使命と考えている
桜の季節にはセックスをしてみせる
ささやきも前戯もない
素人芝居の台詞回しのように
見つめ合い情を深めるフリなんてしない
後ろからあっという間
「猿の精液も白いのね」
まっすぐな視線で女がいう
男は少し話をずらす
「知ってるかい首吊りすると
激しく勃起するんだ そして
とめどもなく射精する」
これは目が合うことをおそれた大根芝居
あるいは知的会話という猿芝居
見られていると
見つめる奴らのスキが見えてくる
猿は猿だ 羞恥心を知らない
言ってしまえばおしまいなのに
昨夜が気になって話をかえる知恵が浮かばない
「脇の下にキスしてと言えばよかった」
「長く持たせようと数を数えたのが失敗だった」
反省などするから声がうわずっている
さて猿は猿 人間から生まれたわけではない
しかしおまえらの淫乱は私から生まれた
わからせるために再び背後にまわる
「ねえ、あの猿何しているの」
答えなくていい
ガキはみんな知っている
土曜の夜ごとのクスクス笑い
「やっと眠ったわね」
扉を閉めおわらないうちのくすぐりあい
みんな知っている
知っていることを知らせたい
自己主張して困らせたいだけなのだ
聞こえなかったフリをして歩いていけばいい
おまえなんか付録だと言い放って
腕でも組んで歩いていけばいい
捨てられやしないかと必死になって追いかけてくるはずだ
さのもの日々にうとし
さるもの追わず
などということはない
ないからこそそんな言い方をする
猿には木から落ちた経験がある
弘法にも書き損じたことがあるはずだ
能のない猿のように
真似してみせればわかる
「あいつは猿真似しかできない」
剥き出しの批評を待って
さて 反論の時間だ
「真似は批評の一種である
真似るだけの価値があると
世間に広めるべく努力をしているのである」
「論理をすりかえるな
オリジナル、その実現への努力に対して非礼じゃないか
それが猿真似の意味だ」
「真似されてはじめて
オリジナルという価値が生まれる
真に個性的なものに意味などない
真似されること、つまり自分の歩みが
常識となることを願わない
哲学者、科学者、芸術家がいただろうか」
中間派を装いながら
どこまでもごまかしていけばいい
引用を細工しながら自尊心をくすぐってやれ
真似されたと不機嫌になる奴なんか
くっきりと映りすぎる鏡に
欠点を見つけ出し
あばかれることを恐れているだけなのだ
横向きに鏡の位置をかえてやればいい
ちょっとからかって
「秘密を教えてくださいよ
どの手が最高ですかねえ
あれもこれもモテ方にあやかりたいと
真似しているだけなんですから」
ランチタイムに耳打ちしてやれよ
「ほら見ろよ、あいつまた
同じ奴と同じ体位でセックスしてらぁ」
童貞のニキビが笑う
本で読んだだけだと知られまいと
最初に口をきいたおまえのことだ
ハーフタイムを知らない欲望がいちばん嫌いだ
どうしていいかわからなくなって
一生の間にいくつできるか
眠らずに考えつづけたんだろう
ゲスなチンピラめ おまえだな
「猿にオナニー教えたら
やめられずに死じまった」
などといいふらしたのは
あらゆる進歩は消化不良のゲップにすぎない
いったいいくつ空想を信じるつもりなんだ
オナニーのために




(アルメ251 、1987年08月10日)
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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(8)

2020-01-26 09:16:44 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (白い山梔子の花の匂いで目がさめた)

言葉よ
まだ目ざめないのか

 「白い」山梔子の匂いで肉体は目覚めた。この「白い」はなぜだろう。なぜ「白い」と書いたのだろうか。
 何かの匂いで目がさめた。山梔子だった。白い花だった、と肉体の認識は動く。しかし嵯峨は「白い」を最初に書いている。ここには「発見」が書かれているのではなく「記憶」が書かれているのだ。嵯峨の「言葉」は記憶を追認している。つまり、知っている「言葉」が動いているだけだ。
 だから言うのだ。「言葉よ/まだ目ざめないのか」は、「言葉よ/目ざめよ」という命令なのだ。まだ「言葉」になっていない「ことば」があるはずだ。未生のことばが。
 それは、こう言い直される。

ぼくの魂しいのどのあたりを急いでいるのか





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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