詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

青柳俊哉「形のない風見」、池田清子「見えますか」

2020-01-30 13:22:25 | 現代詩講座
青柳俊哉「形のない風見」、池田清子「見えますか」(朝日カルチャー講座、2020年01月20日)

形のない風見    青柳俊哉

冷たい雨がふりつづいて
色あせた玉ねぎ畑を
黒猫が走りすぎていった

空のうえから
雪を放射するように
ゆきやなぎの穂先がふる
ゆきのしたの葉先もいっしんにふる
つばきの花もぽとぽとと土になじむ

色あせたブチの犬が
夕げをもとめてぬれた花芝の下を走りすぎていった

よく似たものたちがむすびあって
形のない風見が空のうえでクルクルまわる日

 感想を語り合っている途中で、参加者から「黒猫、ブチの犬に何か意味があるんですか?」という問いかけがあった。「黒猫、白い雪、ブチ、混ざり合う感じ」と青柳が説明した。
 詩に対して問いかけるのは大事なことだが、私は作者の「答え」というものは大事とは思わない。書き終わった瞬間から、詩は(詩に限らないが)、それは作者のものではない。読者のもの。読者が好き勝手に読んでいいものだと思う。だから、問いかけは作者にするのではなく、常に自分にする。このことばは、自分にはどう読むことができるか。それが基本だと思う。
 この詩は、確かに青柳が意図どおり「色の変化」をひとつの世界のとらえ方として描いている。
 最初に「黒」が選ばれている。「色あせた玉ねぎ畑」を走る「黒」猫。この黒は強い。雨に濡れた畑だから、土は黒っぽいと思うが、その黒を凝縮したような「黒猫」。これは「絵」として完成している。
 二連目に「雪」が出てくる。「白い」を隠した雪だ。しかし「雪を放射するように」とあるので、実際には雪は降らないのかもしれない。かわりに「ゆきやなぎ」「ゆきのした」が「ふる」、さらに「つばき」が「土になじむ(落ちて、土と一体になる)」。この「つばき」も「白」を思い描いているかもしれない。
 この二連目では、私は「ふる(降る/振る)」という動詞が「なじむ」に変化していくところがおもしろいと思った。同じ動詞を繰り返すのではない。動詞が変化するとき、その「主語」を見つめる作者の気持ち(認識)も変化している。認識の変化が、動詞の変化に反映されていると思う。
 そして、最後の「なじむ」という動詞が、青柳が説明したように「ブチ」を必然として呼び寄せるのだと思う。このとき一連目に書かれていた「色あせた」が繰り返される。繰り返すことによって「ブチ」がなじみやすくなるというか、「必然」がわかりやすくなるけれど、説明になりすぎるかもしれない。「走りすぎていった」の繰りかえしも、詩のことばを急がせすぎているかもしれない。
 「結論」を急ぎすぎている感じがする。
 だからだと思うが、「最後の二行がわからない」という感想が漏れた。三連目までは具体的な風景(情景)として「絵」にすることができる。しかし、四連目は「絵」にできない。「形のない」ということばが「絵」であることを拒否している。
 「絵」(情景)を描きながら、「絵」を拒否する。情景であることを拒絶する、というのが青柳の詩の特徴である。具体的な風景ではなく、「心象」をことばにする、「形のない」ものをことばを借りて、「形」であるかのように存在させる。「形」は「意味」と言い換えることもできる。「意味」を「生み出す」、いままでなかったことばで「生み出す」という明確な意図をもって、ことばに向き合っている。
 この最後の二行で私が立ち止まったのは「むすびあう」という動詞である。「黒、白、ブチ」という形で動いた色が「なじむ」。その「なじむ」を言い直したのが「むすびあう」だ。単に「むすぶ」のではなく「むすびあう」。それぞれが「主語」のまま対等に生きる。「むすぶ」という動詞のときは、青柳が主語となって「黒、白、ブチ」を「むすぶ(混合させ、なじませる)」ということもできるが、「むすびあう」の場合は、青柳がその「むすぶ」のなかに溶け込んで入っていくか、あるいは「黒、白、ブチ」の動きに身をまかせるかのどちらかである。たぶん、自分以外の存在が動詞の主語になることに身をまかせるというよりも、そこに溶け込んで青柳自身も動くという前者の形をとるのだと思う。
 だから「形のない」と書くとき、青柳は「風見」を外から見ているのではない。「風見」になって動いている。動いているもの(人間)は自分の形など見ない。形は「動き(動詞)」が必然的に形成するものである。簡単にいいなおせば、歩くときは手を振り、足を前に出す。走るときは、その手の振り方、足の広げ方が、歩くときとは違う「形」をとる。泳ぐとなれば、さらに違う。「形」は「動き(動詞)」が生み出すものなのだ。
 どういう「動き(動詞)」を生きるか。
 「むすびあう」という動詞といっしょに「よく似たもの」ということばが選ばれている。「黒猫」「ゆきやなぎ」「ブチの犬」、さらには「玉ねぎ畑」「花芝」はふつうに考えれば「似ていない」(別個のもの)である。しかし、それが青柳の肉体を通ることで「似たもの」になる。それは「形のない」何か、形を超えた何か、であり、「むすびあう」という動詞を生きている。
 ある一日の心象が、そういうことばで書かれているのだと、私は読む。


見えますか        池田清子

歩いた先に 何か見えますか
歩いた先に 何がありますか
歩いた先で 息ができますか
歩いた先でも 私は私ですか

時々 椅子に座り
時々 壁をつたい
時々 木に寄りかかり
時々 水を飲み

橋を渡ったら
見えますか

 参加者から「短くリズミカルなことばが心地よい。頭韻を利用してことばを動かし、問いながら、答えを見つけ出そうとしている」と指摘と、「時々ということばを繰り返すのではなく、違うことばをまじえてもいいのではないか」という指摘があった。
 私は最初の二行が好きだ。
 「何か見えますか」が「何がありますか」にかわっている。「見えますか」と「ありますか」は「意味」としては同じだと思う。しかし「何か」みえるか(あるか)と「何が」見えるか(あるか)とは、かなり印象が違う。「何か」はぼんやりしている。「何が」の方が問いかけとして強い。
 池田のなかで「問い」が強くなっている。つまり「答え」を求めようとする気持ちが強くなっていることがわかる。何を求めているのだろうか。「息ができますか」は、その何かによって「生きていけるか」どうかを問いかけていることになる。そして「生きていけるか」というのは「私は私」でいられるか、ということでもある。「私は私」のまま、生きたい。
 二連目は「座る」「伝う」「寄りかかる」「飲む」と、動詞が変化している。しかし、ほんとう変化していない。それぞれの行のあとに「また歩く」ということばが省略されている。池田は「歩く」という動詞を(運動を)つづけているのだ。
 一連目で「歩いた先に」を繰りかえしていたが、そのときはまだ歩いてはおらず、遠くを見つめていたのかもしれない。これから歩くその道を思っていたのかもしれない。あるいは歩き始めて、立ち止まり(椅子に座りを含む)、遠くを見ていた。
 二連目は、いわば「起承転結」の「承」であり、一連目を深める形で言い直したものだ。
 三連目は「結」である。「橋を渡ったら」は「橋を歩いて渡ったら」、その「先に」見えますか? という問いである。何が省略されているのか。「何か」見えますか? 「何が」見えますか? あるいは「私が」見えますか?
 どのことばを補うかは読者に任されている。どのことばを選んでも、池田が自分自身を探して歩いていることがわかる。自分を探して池田は詩を書いている。





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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(12)

2020-01-30 09:35:43 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (魂しいを失う日がある)

人を憎んだことを
愛したことを
生命の皿の上にのせてみる

 この「皿」は天秤の皿のことだろうか。憎んだことと愛したことを、天秤で測ってみる。「生命」そのもので測ってみる。
 嵯峨は「魂しい」と書くのだが、なんだか「未練」のように私には感じられる。
 「魂」の定義を私は知らないし、「魂」が存在するとも考えないが、嵯峨の「魂しい」は、多くの人が言う「魂」とは違うものかもしれない。







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