天沢退二郎「決して奇跡などとはよべない奇述の試み」(「現代詩手帖」2020年01月号)
天沢退二郎「決して奇跡などとはよべない奇述の試み」を谷川俊太郎「ことばを覚えたせいで」につづけるようにして読んでみた。二人はまったく関係なくことばを書いているが、読んでいる私はそこに関係をつくってしまう。きのうの考えが、まだ私のなかに残っている。もちろんそれはそっくりそのままではないから、関係をつくるといっても、ほんとうは無関係かもしれない。私は「論理」よりも、その日の「気分」を生きているということだ。
天沢の詩の前半。
その午後、見栄もせぬ一匹の赤トンボが、
一片の葉片方すらない枯れ花の茎の切り口にとまって
時に五秒か八秒か、飛び立ち
否、むしろ飛び立つかに見せては飛び立ち
私の眼を見るでもなく見ないでもなく
数分か数十分か毎に、行っては戻り
戻ってはまた飛び立ってこっちを見る
「赤トンボ」と「私」の関係を書いている。私が奇妙に感じるのは「五秒か八秒か」と「数分か数十分か」という時間の表現の仕方である。「か」で結ぶには二つの時間が離れすぎている。「五秒か八秒か」は物理的には三秒の隔たりだが、私はこんな数え方をしたことがない。「散文」の法則に反する。しかし、それでは「詩」には普通の記述の仕方か。よくわからない。
「飛び立つかに見せては飛び立ち」「見るでもなく見ないでもなく」というのは、「飛び立つか飛び立たないか」「見るか見ないか」と言い直すと、そこに時間を記述したものと類似の感覚が動いていることがわかる。
近接したものではなくかけ離れたもの、つまり反対のものを、天沢は「か」ということばで結びつけている。「否」という天沢自身への呼びかけは、そうしたものを強靱に結びつける接着剤である。「か」は、その「否」と同じ働きをしている。
近接しているのか、かけ離れているかの、わからない。それは「嘘」と「ほんとう」と言い換えてもいいかもしれない。
俗に「嘘か真か」というが、天沢は、こういう感覚で「時間」を見ていることになる。これは極めて奇妙である。「時間の意味」を逸脱している。一般的な「(ことばの)意味」にはとらわれていないという点で言えば、天沢のことばの運動は、絶対に「散文」とは呼べないだろう。しかし「散文」でないから「詩」であるかどうかは、簡単には言えない。
詩はつづいている。
そんな行きつ戻りつを
繰りかえしては 夕方の一時間を過ごしたのを
こっちの邑村でも、ごく数人のメンバーが、
私の傍らに立つともなく見守るでもなく
そんな二時間を人は何とよぶのかな
室内にいる他の人間よりも青空の推移を
こうして記述することだけは確認したこと
そのことだけは記述したのを、
あなたは何とよびますか?--
これは最初の部分の繰り返しと言えるのか。「一時間」と「二時間」は、どういう関係にあるのか。「立つともなく」と「見守るでもなく」はかけ離れたことか、あるいは反対のことか。
そんなふうに「言い直す(意味の明確化を試みる)」ことはできない。
たぶん、天沢にとっての詩の定義とはそうなるのだろう。つまり「意味の明確化」ができないものが詩である、と。散文は意味を明確にする。あるいは結論を要求するが、詩は結論を要求しない。
「記述」ということばを繰りかえしたあと、天沢は問う。
あなたは何とよびますか?--
谷川の詩を読んだあとなので、私はその記述を「詩」と呼んでおこう。
ただし、このときの「詩」の定義は、谷川の作品を読んだときの定義とはかなり違ったものになる。
では、どこが、どう違うのか。
それを明確にするのが「散文」の仕事なのかもしれないが、詩を散文で解説しなおしても無意味だろう。
私は天沢の問いに「詩」という答えを用意する。そしてそれは谷川の作品を先に読んだから思いついたことだから、谷川の作品とどこかでつながっている、関係があると書いておく。しかし、それは私の勝手な「誤読」だから、谷川の考えていることとは無関係である、とも書いておく。
接近しているがかけ離れている。
そういうことを感じた。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2019年10月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168077138
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com