詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野沢啓『言語隠喩論』(4)

2021-09-05 11:33:30 | 詩集

野沢啓『言語隠喩論』(4)(未來社、2021年7月30日発行)

 「第三章 隠喩の創造力」。
 「隠喩の創造力」とは何か。「詩は書かれるそのつど生成してくることばの暴力的発動であり、それはことばの先端が未知の世界に触れようとして発光している暗喩的創造行為である」ということばが手がかりになるかもしれない。そしてこのときの「未知の世界に触れよう」とする運動は、野沢によれば「自覚的に統合されたことばの運動」でなければならない。野沢は「自覚的に統合されたことばの運動 」のひとつとして「暗喩的想像行為」をとらえている。そういう「ことばの運動」を考察の対象にしている。
 そう理解した上で(誤読した上で)、私の考えたことを書く。
 第三章では石原吉郎の作品を取り上げて、野沢は論を進めている。まず「事実」の前半を取り上げる。

そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすらわらいさえしている
見たものは
見たといえ

 野沢は「余計な形容語のない、この切り立ったようなことばの簡潔な発語は詩人の身体の奥深くでうずいていた存在への渇望と、それへの至りえなさとでもいったものを刻印している」と書いている。
 ふーむ。よく分からない。
 この詩のどの部分を「暗喩」と野沢が読んだのか、それがまずわからないから、この吉原の詩が「暗喩の創造力」と同関係しているのかがわからない。
 後半も引用した上で、こう書いている。「石原の詩のことばは、それが何を意味するか白紙の状態で世の中に提出される、新しい世界への暗喩的言表以外のなにものでもない。ここにあるのはもっとも単純で始原的なことばの提示であって、その意味をまさぐるようにみずからの身体を世の中に再接続しようとして発語されることばの切実さなのである。」
 ここに「暗喩」ということばが出てくる。「始原的ことば」も出てくる。野沢が書いてきている重要なことばがふたつならんでいる。「新しい世界」はこの冒頭の方に引用した「未知の世界」に通じるだろう。そういうことはわかっても、吉原の書いているどのことばが「暗喩」なのか、わからない。この詩の「未知の世界」を指し示す具体的なことばが何なのか、その「入り口」がわからない。「 何を意味するか白紙の状態で世の中に提出される」ことばを私は「暗喩」を言いなおしたものと読んだが、具体的にはどのことばが「暗喩」になっているのかの、私にはどうにもわからない。
 野沢はどのことばを「暗喩」と呼んでいるのかわからないが、つまり、なぜ野沢が「暗喩の創造力」を論理的に説明するために吉原の作品を引用しているのか、その論理の構造がわからないのだが、そのことを脇においておいて、私は吉原の作品をこう読んだ。
 私が注目するのは「 そこにあるものは/そこにそうして/あるものだ」という三行である。これは野沢のことばを借りて言えば「 何を意味するか白紙の状態で世の中に提出され」たことばである。「そこ」って、どこ。「そこにそうしてある」とはどういうこと? 「うすらわらいさえしている」が「そうして」の説明かもしれないが、あいかわらず「そこ」がわからない。
 これに関連するのだが、野沢は「位置」引用した上で、こう書いている。「〈それ〉が何であるか最後まで明らかにされないまま〈納得〉という心理的事態が断定される」。
 この「それ」は「そこ」に似ている。
 私の読み方では、この「それ」「そこ」こそが「暗喩」なのだ。「それ」「そこ」は何かを指し示すことばである。「ここ」「これ」「あこ」「あれ」とも違う。そのことばを発した人間から妙な「距離」にある。聞いている人間にとってもよくわからない「距離」にある。しかし、そういう「場」のあることは、言っている人にも書いている人にもわかる。つまり、そういうものがあることを「納得」している。
 やはり吉原の作品を取り上げてあれこれ書いていた野村喜和夫だったかだれかが「ある」ということばに注目して、「フランス語では、ある、をil y a 、彼(il)は持つ(a=avoir)という形で表現する」と言っているのを読んだことがある。そのときも書いたのだが、「彼は持つ」ではなく、「il y a」を取り上げるならば「y」にこそ注目すべきだろう。この「y」はスペイン語の「ある」では「hay=ha(彼は、持つ)+y」というかたちで存在する。「y」は明確には何を示すかわからないが、暗黙の了解の「場」のようでもある。だからフランス語では「on'y va」「allonz'y」とういう具合にも日常的につかわれる。「y」がどこか、いちいち聞かない。「いく」という動詞を動かすために必要な「無意識=共有された意識」なのである。
 「そこ」「それ」ということば自体は、日本人に共有されている。そしてそれは「ある」という動詞と親和性がある。この「親和性」をぐいと前面に押し出しているのが吉原の詩である。「そこにある」「それがある」こそが、この詩の「暗喩」なのだ。「そこに/それが/ある」。それに対抗するようにして「ここに/これが/ある」。「ここ/これ」とは「私の肉体」に他ならない。そして、私の肉体は「ここ/これ」なのだが、それは単純に「ここ/これ」と主張できない。「そこ/それ」のようにして向き合わないと生きていけない。そういう状況が吉原の「シベリア抑留体験」ではなかったのか、と私は想像している。「ここ/これ」を「そこ/それ」として生き抜く。そうしないと、こころが死んでしまう。気が狂ってしまう。
 抽象的になりすぎた。「位置」に戻ろう。引用しないつもりだったが、引用する。「位置」は抑留中の、作業場への行き帰りの歩行を書いている。五列になって歩く。五列の「真ん中」が一番安全である。

しずかな肩には
声だけがならぶのではない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である

 「勇敢な男たち」とは「生き延びる男たち」である。そしてそれを「ぼく」ではなく「君」と呼ぶのは「ぼく」を「ここ/これ」ではなく「そこ/それ」として生き延びるからである。「それ」を吉原は受け入れている。納得している、ということだ。
 架空の物語の「勇敢な男(たとえばランボー)」ならば、五列の隊列の真ん中など選ばないかもしれない。しかし、力がないけれど生きていたいと欲望する男は「それ」を選ぶのである。そして生き延びる。
 「そこ」「それ」こそが、「暗喩」でしか語れない「事実」なのである。

 カントの『判断力批判』から「芸術のうちで、最高の地位を占めるものは詩である」ということばを引いた上で、野沢は、こう書いている。「〈構想力〉とは自由な認識=創造力のことであって、観念的な理性や理念から独立にはたらく力能である」。カントは詩にそういう「力能」を認め、詩を芸術の最高の位置を占める、と言ったと野沢は考えているのだろう。
 私には、そういうふうには感じられない。カントが詩を芸術の最高の地位と考えたのは、カントが詩を書かないからだろう。詩はカントにとって完全なる他者なのだ。音楽や美術も他者かもしれないが、詩は、カントと同じようにことばをつかっている。おなじことばをつかうものとして、自分の対極、絶対的な他者を最高の存在というのは、男の詩人が「女になって詩を書きたい」というのに似ている。カントの言う「最高の地位」とは、それこそ「暗喩」なのではないのか。「最高の地位」が暗喩なら、そこに結びつけれらている詩もまた暗喩のひとつだろう。自分にはたどりつけないものがある。それを「最高」のものと認めた上で、カントはカントの「ことばの運動」をつづける、ということだろう。「芸術のうちで、最高の地位を占めるものは詩である」を含めて、カントにはカントの書いていることが一番正しいという自信があるから、そういうことを書くのだと思う。私はカントも読んだことがないのだが、野沢の引用していることばを読みながら、そういうことを考えた。

 

 


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