詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野沢啓『言語隠喩論』(7)

2021-09-12 09:26:30 | 詩集

 

野沢啓『言語隠喩論』(7)(未來社、2021年7月30日発行)

 「第六章 詩作とはどういうものか」。
 「詩を起動することばが隠喩として設定されることばである」と野沢は書いている。ただし、これには注釈がある。「そのことばが詩のはじめに置かれるとはかぎらないが、どこに置かれようとも、そのことばを起点として詩の独自のイメージが展開されるだろう」。これは「隠喩」が生まれた瞬間に、詩の世界の「再構築」がはじまるということだろう。どこから書き始めるかではなく、書かれた瞬間に、その世界が揺るぎないものになって独立する。
 そんな例(?)として、野沢は吉岡実の「卵」を引用している。

神も不在の時
いきているものの影もなく
死の臭いものぼらぬ
深い虚脱の夏の正午
密集した圏内から
雲のごときものを引き裂き
粘質のものを氾濫させ
森閑とした場所に
うまれたものがある
ひとつの生を暗示したものがある
塵と光りにみがかれた
一個の卵が大地を占めている

 野沢は「詩を起動することば」として、「神も不在の時」と「一個の卵が大地を占めている」を想定する。「どちから、あるいはこの両方が起点になったのではないかと思われる。この二行が見出されたことによって詩の骨格はできあがり、そのあいだをつなぐべく二次的な詩的論理のことばが紡ぎだされたのであろう」。しかし、即座に「いや、吉岡的イメージの世界では、最後の〈一個の卵が大地を占めている〉という生物画的なイメージが先行したかもしれない」と言いなおしている。
 しかし、ここに書かれているのは吉岡の実感ではなく、あくまでも野沢の「感想」である。ここからわかることは、野沢は「神も不在の時」と「一個の卵が大地を占めている」に「詩を起動する力」を感じているということである。
 だから、そのふたつのことば(行)をつなぐようにして、こう書くのである。「〈一個の卵〉とはすでに神にも見紛う絶対的存在、あるいは神なき世界における絶対的存在の隠喩であることは見やすいだろう」。
 私は、ここで、困ってしまった。
 私は「神」というものの存在を見たことがない。野沢が「神」と呼んでいるものが何か分からない。そして吉岡が「神」と呼んだものと、野沢が「神」と呼んだものが同じであるかどうかもわからない。だから「神にも見紛う絶対的存在、あるいは神なき世界における絶対的存在の隠喩」と言われても、どんな世界の「隠喩」なのかわからない。
 さらに、野沢はこう書いている。「すでにして〈神〉というもの自体がなにか実体的なものであるわけではなく、それ自体が宗教的な意味での絶対的存在の隠喩にすぎないということである。そうすると、ここでの〈一個の卵〉とは単なる隠喩ではなく、バシュラールのことばで言えば、隠喩の隠喩ということになるだろう」。
 前の部分に「『創世記』的な宗教性は微塵もない」とも野沢は書いているのだが、では、どんな「宗教的な意味での絶対的存在」が想定されているのか。
 そもそも「一個の卵」を「絶対的存在(の隠喩)」と呼ぶ時の、その「根拠」のようなものが、私には、野沢の文章からつかみ取ることができない。「一個の卵」を「絶対的存在(の隠喩)」と呼ぶのなら、そう呼ぶだけの「根拠」が必要だろう。「神も不在の時」だから、その「不在」によって卵が絶対的存在(の隠喩)になるのか。なぜ「一個の卵」が「絶対的存在(の隠喩)」であって、その卵がある「場所」としての「大地」が絶対的存在(の隠喩)ではないのか、その「証明」のようなもの、野沢が、どのことばをどう把握することで、そう判断したのかの「説明」が必要だろうと思う。

 私は、この詩を、こう読んでいる。
 この詩で一番大事なのは、最終行の「占めている」という動詞である。なぜ、それを重要視するか。「一個の卵」と「大地」の関係において、「一個の卵が大地を占めている」ということは常識的にはありえないからである。よほど巨大な卵を想定しないかぎりは大地を占めることはできない。だから、ここでは「占めている」ということばが「占有する」という意味を超えていることになる。あえて言えば、この「占めている」は「支配している/統治している」。独占している、占有している、占領している、かもしれない。そして、一個の卵が「世界」を「支配/統治している」ということを「占める」ということばで代弁させているのだとしたら、それは、たとえば一般的に存在しているといわれる「神」の「力」と類似したものが卵にあることにならないか。「占める」という動詞をつかった時、「一個の卵」は「(一個の)神」の隠喩となるのではないのか。
 私はもともと「神」の存在を信じていないから「神も不在の時」そのものは、単なる「ことばのあや」としか考えないが、絶対的な支配力、統治力、統合力の存在しない世界では、「一個の卵」を「ある絶対的な統合力」の「隠喩」と考えることもできるかもしれない。それはニュートンが引力を発見した時「りんご」のようなものである。「りんご」そのものに何か力があるわけではないが、「りんご」が大地に「落ちる」ときの運動そのものをみて、そこからニュートンは「引力」という目に見えないもの(それまでだれも見たことがないもの)を「見える形」で証明した。りんごの落下は引力の隠喩、引力が存在することの隠喩であり、それは私には理解できない「数式」で存在が「確定」された。吉岡が感じ取ったのは「引力」ではなく、もっと別の「力」だろうけれど、それが「占める」という動詞のなかに隠されている。だから「占める」を私は「隠喩」と呼ぶ。
 この「占める」の前に繰り返される「ある」も重要なことばだと思う。「神も不在」(存在しない、ない)ときに、何かが「ある」。それは「うまれたもの」(今まで存在しなかったもの)であり、「ひとつの生を暗示したもの」である。それが「ある」その何かわからないものに吉岡は「一個の卵」と名前をつけた。なぜ「卵」なのか。なぜ、「一個の石」「一本の花」ではなかったのか。それは「卵」からは何かがうまれるという「意識」があるからだろう。「石」や「花」からも何かがうまれることがあるが「卵」の方が「いきもの/力を振るうことができるもの」がうまれるという意識がある空かもしれない。こういうことは「後出しジャンケン」のようにどうとでも追加できることである。重要なことは、「占める」ためには、「占める」主体の存在が必要、「ある」がないと「占める」ということができないということ。「ある」を書くことによって、吉岡のことばは「占める」へとたどりつくことができた。ほかにも、「一個の卵」が「うまれる」までの過程の動詞が書かれているが、私が注目したのは「ある」である。「ある」はニュートンの例で言えば「落ちる」であり、ニュートンの「落ちる」が「引力(引っ張る力)」にかわったように、吉岡の「ある」は「占める」に変わるのである。「意味」が見えやすくなったのである。この何かが「見えやすくなる」ことが「隠喩」の効果のひとつではないだろうか。

 私の書いていることは、野沢がこの章で批判しているレイコフ/ジョンソン批判のたぐいのものかもしれない。野沢は、こう書いている。「レイコフ/ジョンソンが考える隠喩がひとびとの生活のなかに埋没した常套的メタファーにすぎず、それ自体がなにか新しい創造性をもつ隠喩ではなく、すでに使い古された、わかりやすく凡庸な隠喩にすぎない」。「占める」が「独占する/支配する/統治する/占領する」という読み方は「新しい創造性をもった」読み方ではなく、すでに「使い古された」読み方(読み替え)にすぎない。でも、私は、そういう自分の知っている「読み方」でしか、ことばと向き合うことしかできない。自分の知っている生活のなかに埋没している常套的な「読み方」で「誤読」し、そこに書かれている「ことば」を点検する。
 私はかつて田中庸介に「反知性主義」と批判されたことがあるが、私は自分の「肉体」が知っている「動詞」を手がかりにして読むことしかできない。「占める」は「支配する」とか「統治する」という大げさなことは体験したことないが、なんという遊びか忘れたが「陣地取り」のようなもので「占める」がそれに通じるものであることをなんとなく感じている。

 

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