詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「おまけ」

2021-09-21 10:30:48 | 詩(雑誌・同人誌)

坂多瑩子「おまけ」(「すぷん」4、2021年夏発行)

  坂多瑩子「おまけ」は省略して引用するのがむずかしい。作品自体に省略が多いからだ。

非常事態宣言ですこし遠くのスーパーに行くようにしたら
おなじ人を見かけるようになった

きょうは
その人 坂の手前のパン屋のかどをひょいと曲がった
つられて曲がると

わっ
ぐらんどみたいな
空地
ひとっこひとりいない

タケオに似ていた あれっ
埒もないこと考えながらパン屋に寄ってイギリスパンを買って帰った

布巾を洗って麦茶を沸かし
家事の終わりはいつもと同じように終わったが

「おれは、パンに夢をくっつけて食ってるんでさあ」
という一行を菅原克己の本から見つけた

するとちょっぴり夢がふくらんで
なにかを追っかけるようにあたしは走っていた

やぶれたフェンスをくぐると

履物屋
バス停
右に曲がると
小学校
空色のろくぼく

タケオだ ろくぼくの横に立っている

カンナが一列に 黄色

あの道を曲がったところだとあたしは思い
早く行けよ
遠い夕暮れで彼はいうのだった

 実は、この作品を朝日カルチャー講座で読んだ。書かれていることばそのものに難解なものはない。だが、詩を読み慣れていないと、すこし難しいところがある。説明がないからだ。書き出しの「非常事態宣言ですこし遠くのスーパーに行くようにしたら」にも省略がある。非常事態宣言はコロナの非常事態宣言である、ということはすぐに分かる。すぐに分かるから、分かった気持ちになるが、なぜ「少し遠くのスーパー」? これは、分かりにくい。近くのスーパーは人が多いから人の少ないスーパーを選んだということかもしれないけれど、まあ、そんなことはどうでもいい。「理由」なんて、どうとでも付け加えられるから、ここは分からなくていい。分からなくいいけれど見落としていけないのが「すこし遠く」という「感覚」。知っているけれど、ふつうは行かない。そして、その知っているけれど、という感覚が、この詩では大事。「おなじ人を見かけるようになった」とさりげなく書かれているが、なぜ「おなじ人」に目が行ったのだろうか。きっと「何か」を思い出したのだ。それが「タケオ」につながっていくのだが。「すこし遠い」けれどは、知っている。そういう関係にあるのだ。
 でも、これが、即座にはわからない。「タケオってだれ?」と受講生に聞いてみると、答えにつまる。「誰って?」「たとえば、夫とか、恋人とか」「夫じゃないことは分かるけれど、恋人でもない感じ」。そこで手がかりを探す。「タケオだ ろくぼくの横に立っている」。これは小学校の体をつかった遊び道具「ろくぼく」の横にタケオが立っているということ。でも、タケオは小学生か。たぶん小学生のときの友達なっだろう。その「タケオに似ていた」から「おなじ人」に目が行ったのだ。ふと、タケオの後をついて行ってしまったのだ。小学生のときのように。
 そこで見かけた空き地。バブル崩壊後、日本のあちこちにある空き地。そこから「ぐらうんど」を思い出す。小学校のグラウンドだ。
 それやこれやの間に、「家事」の日常が紛れ込む。
 「おれは、パンに夢をくっつけて食ってるんでさあ」という一行が突然だけれどとてもおもしろい、という声が受講生から聞かれた。「そして、この一行のあと世界がどんどん変わっていく」とも言う。
 ここからが、ポイント。
 「でも、そのパンは、突然のようだけれど、突然じゃないよ。前にパン屋が出てくる。パン屋に寄ってイギリスパンを買って帰った、という行もある。突然のようだけれど、ことばがつながっている。どんかわるけれど、つながりもどんどん見えてくる。夢ということばは、次の連にも出てくる。夢ということばで連がつながっている」
 そこから詩の中にある「つながっていることば」を探してみる。「ぐらうんどみたいな/空地」はそのまま「小学校」のグラウンドにつながるだろう。それから「空地」と「小学校」の前には「曲がる」という動詞がある。角を曲がると「空地」、角を曲がると「小学校」。昔の子供の遊び場は、「空地」か「小学校のグラウンド」。走って行って、走って遊ぶ。何を追いかけているかわからないけれど、何かを追いかけていたかもしれない。走って、角を曲がると、今まで見えなかったものが突然見える。「あの道を曲がったところ」に何かがある。
 さて。最終行の三行。「早く行けよ」というタケオ。「これは、どこへ行けよ、といっているのかな?」私はまた訪ねてみる。「夕暮れ」を手がかりにすれば「家へ行けよ、家へ帰れよ」ということかもしれない。遊び場をグラウンドから空き地にかえて(学校から空き地に移動して)遊び呆けている。日が暮れてくる。「早く帰れよ」とタケオは、そういうことも言ってくれるような、ちょっと「おとな」の子供だったのかもしれない。
 まあ、こんなことは、どこにも書いていない。
 だから「誤読」なのかもしれないが、詩は(詩だけではないが)、みんな「誤読」で成り立っている。人の言っていることを「正確に理解している」わけではなく、そのことばを自分なりに受け止めて納得している。だから坂多が「書いていることと違う」と言っても、そんなことは気にしない。坂多が書いていることばを通して、私は私の知っていることを「読む」。そして、受講生にも、自分なりに「読む」ということを提案する。
 そして、「読み」をつづけながら、この詩は、ふと小学校のときの友達の面影をのこす人を見かけ、子供のときを思い出した。友達のことを思い出して書いているんだなあ、と考える。それはまた自分自身の小学校のときの友達、何をして遊んだか、どこで遊んだかというようなことを思い出すんだけれどね。
 「小説のなかの、印象的なシーンをピックピップしたような感じの詩だ」
 受講生のひとりが、そう感想をもらした。これは、とても重要なポイント。詩を書き始めたころ、多くの人は「小説」のように「ストーリー」にしたがる。「ストーリー」にしないと「意味」がつながらないような不安に襲われる。でも、何かを思い出すときというのは「ストーリー」ではなく、断片なのだ。断片の背後にはもちろん「ストーリー」もあるだろうけれど、「ストーリー」の上を、イメージが飛び越えてつながっていく。
 「ストーリー」を「意味」と読み替えると、詩の姿がもっと鮮明に浮かび上がるかも。詩は「意味」ではなく、「意味」を飛躍したものなのだ。

 というようなことを語りながら、私は、私の「誤読」にもこだわる。
 私がこの詩でいちばんすごいと思ったのは、

布巾を洗って麦茶を沸かし
家事の終わりはいつもと同じように終わったが

 この二行。ここには「タケオ」や「空地」「小学校」のようななつかしい思いではない。いわゆる「詩的」なものにつながるイメージは何もない。詩からは遠い「散文」が紛れ込んだような、奇妙な言い方をすると、「わくわくする」感じがない。むしろ「がっかり感」の方が強い。いつもとおなじ「日常(家事)」が終わるのだ。何も変わったことばないのだ。この二行だけを取り出すと、どこに詩があるのかわからない。単に一日の終わりを改行して書いただけのように見える。
 でも、これがすごい。
 何も変わらないという「事実」が、不意に思い出した「懐かしいもの」を揺さぶる。揺るぎない事実があるから、思い出の中へすっと入っていける。また、この事実(日常/家事)へ戻ってくることもできる。深くは語られていないが、この静かな「認識」が、この世界を支えている。このことから、これを「日常の経験」を改行し、説明を省略しただけの作品と呼ぶこともできるかもしれないが、私は、そうは思わないのだ。
 散文の力が詩を支えている、と感じる。
 こんな例がいいのかどうかわからないが、大岡信、丸谷才一、石川淳らがやっていた「歌仙」を思い出す。大岡や丸谷は、なんというか、ちょっとまねして書いてみたくなる「鮮やかな一句」を書く。ところが石川は「一句の屹立(鮮やかさ)」を狙っていない。ひたすら句を突き動かす「運動」主体のことばを書いている。「散文的」なのである。
 この不思議な、現実的な力が、

カンナが一列に 黄色

 という詩を支えている。忘れることのできない風景を支えている。それはどこに咲いていた一列なのか。坂多は書かない。どこに咲いていてもいい。思い出しているのは「カンナ」であり「一列」であり「黄色」なのだ。
 「早く行けよ(帰れよ)」と言われたときに「タケオなんか大嫌い」と思って、にらむように見たのが、そのカンナかもしれない。「大嫌い」はもちろん「大好き」と言えないときに言ってしまうことばなんだけれど。
 「おばさん詩」って、やっぱりいいなあ、と思う。私は坂多にあったことがないから、よくわからないが、私は勝手に「おばさん」と思っている。

 この感想も、野沢啓の『言語隠喩論』に対する疑問として書いた。野沢は坂多の詩を堂読むか、それを知りたい。
 

 

 

 


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