どうでもいいが、この新潮文庫「国の女房や子供を干し上げて置いて」の「干し上げる」に注釈をつけていない。
これは、なんというか、いまの若い人にも通じにくいだろう。
「上戸」などは辞書を引けばわかるし、若い人もつかうが、「干し上げる」はどうか。
「ひもじい思いをさせる」なんだけれど。
「口を出す」と同じで、なかなか、ね。
野沢啓『言語隠喩論』(8)(未來社、2021年7月30日発行)
「第七章 詩という次元」。
「われわれは、言葉が制度化している世界のなかに生きている」というメルロ・ポンティのことばを引用した後、野沢は「われわれはこうした日常的消費のもとにあることばを超えて、ことばの〈根源〉にさかのぼり、〈始原の沈黙〉を見いだしてそれを破る所作で記述できるところまでいかなければならない」と書く。さらに「〈思惟の感性的世界への現前〉〈思惟の身体〉こそ、いかなる要請も受け付けずみずからの成立根拠を世界と同致させることばの実存であり、それを目的意識に実現する詩の言語であり、その言語の世界開示生の隠喩的本質にほかならない」と。
あ、だんだんわからなくなる。
これを言いなおしたのが、たぶん、つぎのことばだ。やはりメルロ・ポンティを踏まえて、こう書いている。メルロ・ポンティは「《知覚がまず与えられるのは、たとえば因果性の範囲が適用できるような世界のなかでのひとつの出来事としてではなく、それぞれの瞬間における世界の再=創造ないし再=構成としてである》と述べているが、このことは知覚のみならず詩の言語にもあてはまるだろう。そしてその場合、知覚とは違って詩の言語の世界は再=創造ないし再=構成されるのではなく、まさにあらたに創造ないし構成されるのである」。
野沢が引用している範囲のことばを手がかりに、私なりに考えれば、メルロ・ポンティは、世界は「われわれ」に先立って言語化されている。そのなかで「知覚」というものが生まれるのは、「ことばによって制度化されている世界」のその「制度化」をそのまま受け入れる(たとえば、学校で教えられた通りに理解する)ときではなく、自分のことばでもう一度納得できる形につくりなおすときである」と言っている。「再=創造」「再=構成」には、すでに存在する「制度」への疑問と、解体が含まれている。「再=」には、とても重要な意味が込められていると思う。この「再=」という考え方は、その後、フランス(?)で展開された「脱構築」というような思想につながっていったのではないか、と私はぼんやりと考えている。
野沢はこの「再=」の部分を否定し、「世界は再=創造ないし再=構成されるのではなく、まさにあらたに創造ないし構成されるのである」と書くのだが、では、「疑問、解体」なしに、どうやって「あらたな創造」「あらたな構成」が可能なのか。〈根源〉とか〈始原の沈黙〉とか、野沢は書いているが、それはどのようにして獲得できるものなのか。このことを野沢は書いていないように私には思える。
野沢は、メルロ・ポンティの「知覚」に対して「未知」を対峙させ「詩を書くことはひとつの未知の世界をつくりだすことだと断言してしまっていいだろう」とも書くのだが、私の読み方ではメルロ・ポンティは「知覚するということは、ひとつの未知の世界をつくりだすことだ」になる。つまり、規制の「制度化されたことば」では把握できない(表現できない)ものを「あらたなことばで、あたらしい世界として再=創造、再=構成することが知覚する」ということである。「知識」をそのまま教えられるままに受け取るのではなく、自分自身が知に目覚める、認識に目覚めるが「知覚」だろう。
野沢は「ことばを通じて既成の世界のなかにひとつの世界の開けを見いだす者こそ詩人と呼ぶべきものである」とも書いているが、メルロ・ポンティなら「ことばを通じて既成の世界のなかにひとつの世界の開けを見いだす者こそ知覚した人と呼ぶべきものである」というのではないか。そうであるならば、たとえばソクラテスは「対話」を通じてそういう仕事をしなかったか。ソクラテスは「知覚する人」ではなかったか。
野沢は「詩にかぎらず創造的な思想においてことばの連鎖である言説、言表、言述とはそれを表出した個人の存在を超えている」とも書いているが、では、なぜ詩だけを特別視するのか。
野沢はフーコーのことばも引用している。「言表の主体を定式的な表現の作者と同一なものとして考えるべきではない。(略)それは、確定された、空の--相異なった諸個人によって実際には充たされうる--ひとつの場所である」。この「ひとつの場所」を野沢は〈ひとつの次元〉と言い直し「ことばの語ることのもっとも深い審級に立っているのが詩人である」と書く。でも、フーコーの言っている「ひとつの場所」が、定冠詞つきの場所ではなく、定冠詞の存在しない場所、つまり、意識が確定していない場所(そこには相異なった諸個人の「定義」が確定されないままうごめいている)ということなら、それは東洋哲学で言う「混沌」というものではないのか。それはメルロ・ポンティのことばでいえばことばが制度化される前の状態ということではないのか。その「混沌」のなかをくぐりぬけて生み出されることばこそが「表現」になるのではないのか。そして、その「表現」は「詩」に限定されるものではないだろう、と私は思う。
野沢はメルロ・ポンティの「画家や語る主体にとって、絵画やことばは、すでにつくられてある思想を展示する行為ではなく、その思想そのものをわがものとする行為なのだ」ということばも引用している。メルロ・ポンティメルロ・ポンティは「画家や語る主体」と言っている。「詩人は」と特定していない。
でも、こういうことはいくら書いても「すれ違い」になるだろうなあ。なんといっても、私はメルロ・ポンティとかフーコーとか、野沢の引用している他の人のことばを直接読んだことがない。野沢の引用を通して読んでいるだけだ。次の谷川俊太郎のことばも、私は読んだことがないが、とても印象に残った。野沢は谷川を引用しながら、こう書いている。「谷川は(略)《詩の才能てのは、有限の語彙から何を選択するかという才能なんだ。自分が生む必要はない。選んでいけばいいんだ》とも発言している。谷川らしい目ディエーターとしての立場を自覚した発言になっている」。
私なりに谷川のことばをフーコーのことばと結びつけて読めば、谷川は「自分のことばを書く必要はない。詩に書かれていることばは、詩の表現の作者のものである必要はない。詩に書かれていることばを谷川のことばであると考えるべきではない。それは、確定された、空の--相異なった諸個人によって実際には充たされうる--ひとつの場所から、谷川が選んだものである。不特定多数のひとがつかっている(話している)ことばから、そのときの状況に合わせて選んだものである」ということになる。「他人のことば」を選ぶとき、その瞬間瞬間、谷川はいわば谷川を自己否定する。そうすることで「個人」を超える。「個人を超える」方法として、谷川は「他人のことば」に耳を傾ける、「他人のことば」を選択し、それを「再=構成」するという方法を選んだ。それは谷川にとっては世界の「再=創造」すると言いなおせば、それはメルロ・ポンティの言っていることにもつながる。
詩人ではないが、私の大好きなセザンヌは、キャンバスの塗り残し(空白)について聞かれたとき、「ルーブルで色が見つかったら、それを塗る」というようなことを答えている。これは谷川の言っていることにつながる。「画家の才能というのは(才能のひとつは)、有限の色のなかから何色を選択するかという才能なんだ。自分が生む必要はない。選んでいけばいいんだ」。ことばも色も、すでに世界に存在している。そして、それはそれぞれ「制度化」されている。この「制度」をどうやって「再=創造」「再=構成」するか。
野沢は「詩人」を特権化し、「原始」や「根源」というようなことばを提示するだけで、「方法」を語っていないように私には思える。
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