詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野沢啓『言語隠喩論』(10)

2021-09-18 14:44:48 | 詩集

 

野沢啓『言語隠喩論』(10)(未來社、2021年7月30日発行)

 「終章 現実をそのまま書けるという幻想」。
 「終章」の最初の方に野沢は「どうも読んでくれているらしいのだが、残念ながらちゃんと理解してくれているとは思えない文章に出くわすことがあって、がっかりさせられることもすくなくない」と書いている。うーん、これは私のことかとも思うが、「ちゃんと理解する」というのは、私の場合、誰に対してもできないなあ。「読む」というのは「理解する」ということではなく、「読む」ことを通して「考える」ことであり、書くというのは自分の考えを「ことば」にして動かしてみる、確認するということだからだ。私は「理解したい」から読むのではなく「考えたい」から読む。開き直りみたいだが、まあ、開き直りである。
 何度でも書くが、私は、野沢の詩に対する特別な意識が理解できない。たとえば「詩を書くことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは書いてみるまえにはわからない」と書いているが、なぜ「詩」なのだろうか。私は「詩」に限定して考えることができない。また「書く」ということに限定して考えることもできない。「ことばを書くことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは書いてみるまえにはわからない」「ことばを話すことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは話してみるまえにはわからない」。それはさらには「ことばを読むことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは読んでみるまえにはわからない」であり、それは「ことばを読むことにおいてはことばがどのような意味-価値をもつのかは読んで、考えてみるまえにはわからない」でもある。
 野沢は「散文を適当に改行したものがほんとうの詩ではないのは、そこにあらかじめ仕込まれた平凡な流通的意味-価値しか存在しないからである」と書くが、それは野沢の問題視している作品が「散文文学」ではない、「文学」の領域に達していないということだろう。逆に言えば、散文の中には「適当な改行」を許さない文章というものがある。私がいま思い浮かべているのは、サラマーゴの『白い闇』というタイトルで邦訳されている作品である。原文は、読点(コンマ)はあふれているが、句点(ピリオド)がなかなか出てこない。この文章は、「適当な改行」を許さないし、「きちんと理解して」「改行」したとしても詩になるかどうかわからないが、読む瞬間瞬間において、私は、あっと驚く。読点の間合い、ことばの切断と接続の生き生きとしたリズムに出会ったときの、この驚きは、「詩」と呼んでいいものだ。それこそ「隠喩」に満ちたことばだ。ことばの衝突の「間合い」を含めて「隠喩」だと私は感じた。
 たとえば。
 書き出しは「Se ilumino el disco amarillo.」。「disco」は丸いものである。「丸い、黄色いものが光った」くらいの意味になるか。だから、この書き出しを読んだあるアメリカ人(スペイン語ができる)は「太陽を想像した」と言った。実は「信号」の円形の光のことである。ふつうに聞く信号「semaforo」という表現は後で出てくる。なぜ一般的なことばをつかわなかったのか。それは、この小説が、突然盲目になるという感染症が広がった世界を描いた小説だからである。私たちは、ふつう、信号を見るとき「色」だけを見る。でも、そこに色があるとき見ているのは「色」だけではない。かたちも見ている。その無意識に肉体が見て、無意識に肉体が排除しているものの存在が「disco」なのだ。つまり、この小説の書き出しは、人間には見ていながら見ないものがある。そしてそれは見えなくなる(盲目になる)ことによって見えるときがあるということの「隠喩」なのだ。この深い人間観察(洞察)を、人間ではなく、街のどこにでもある信号の描写のなかに集約させている。
 これは野沢もつかっている「身分け=言分け」という表現をつかって私なりに言いなおせば(野沢は違うかたちでつかうかもしれない)、こういうことになる。信号を見ているとき、人は色も形も見ている。しかし、ふつうは色しか意識しないので、その意識が色を識別するという肉体を動かし(身分け)、「黄色が点滅した」ということばになる(言わけ)。サラマーゴが書いているように丸い黄色(黄色い丸)が点滅したとことばが書かれるとき(言分けされるとき)、その背後では肉体が形と色を見るという具合に動いている(身分け)。肉体が色だけではなく形も見るという具合に動いてた(身分けしていた)からこそ、ことばは「黄色い丸が点滅した」という具合にことばがつかわれたのだ(言分けされたのだ)。「身分け=言分け」は、あらゆることばの現場で起きていることである。
 言いなおせば。
 「隠喩」は詩の特権ではない。優れた作品ならば、それが「散文」であっても「隠喩」に満ちている。「隠喩」が結び合って動き、世界を隠しながら切り開いて見せてくる。サラマーゴの書き出しでは「disco」ということばは「semaforo」ということば、その存在を隠しながら、ふつう、人間は信号を見ているとき信号のかたちが「丸い」ということを見逃しているという「事実」を切り開いて見せてくれる。この作品の書き出しには、歩行者用の信号が「青い人間のシルエット」を持っているということばも出てくるが、歩行者はたいてい「青」しか見ていない。しかし、そこには「歩く人間」がかたどられている。大抵は「四角い信号」のなかに「青い人間のシルエット」。でもね、ふつうは、そんなことを気にしない。「青」が見えればいい、と思っているからだ。信号の中のシルエットではなく、実際に生きている人間を、他の人間がどう見ているかはもっと複雑である。そのことも次々にあきらかにしていくこの小説にとっては「青い人間のシルエット」も強烈な「隠喩」である。もちろん、「隠喩」であることに気づかない人もいるだろうけれど。つまり、ことばから何を読み取るかという問題が、つねに「隠喩」にはつきまとう。それは「書く」人間だけの問題ではない。詩人だけが利用していることばの「働き」でもない。
 このことは、これから、もう一度触れる。

 野沢はデリダを引用しながら、「隠喩化作用(比喩が哲学的コンテクストのなかで隠喩になり、隠喩が固有の意味になること)」について、こう書いている。「第一の意味と第二の意味の二重の消失がどうしておこらなければならないのか」。これはもちろん反問のようなものであって、野沢は彼自身で、こう答えを代弁している。「隠喩」とは、「隠喩としては自ら消失し、その消失においてこそ隠喩としてひそかに復元するというじつにやっかいなシロモノなのだ、とデリダは主張する」。
 さて、ふたたび、サラマーゴの『白い闇』の「disco(円盤)」である。これは「信号」の言い換え、「譬喩」である。第一の意味は「信号」である。そして、「信号」の「意味」であると理解したとき、実は「信号の譬喩である(隠喩である)」という意味は消えて、「信号を見るとき、人は信号の色を見ているのであって形を見ているのではない」という別の「隠喩」、「人間の見ているものは何か」という問いとなって「復元」してくる。その問いは、もちろん気づかなければ気づかないでもいい。野沢は「ひそかに」という副詞をつかって書いているが、これは「わかる人」がわかればいいだけのことであり、「わかる人がわかればいい」だけなのだけれど、サラマーゴは「わかってほしい」と願って書いているだろうと思う。この小説にはいろいろな人々が登場し、いろいろなことばを言う。その「発話」のひとつひとつが、汲めどもつくせぬ「隠喩」になっている。「意味」がわかったと思った瞬間、「黄色い丸/丸い黄色」が「信号」だとわかった瞬間、「信号」という意味が消えて違う「意味」、人間は信号を見ているとき形ではなく色を見ているという「意味」があらわれると同時にそれさえ消えて、人間は何かを見るとき何かを見落としているという「深い意味」、「隠喩」を超えた「哲学(人間認識)」があらわれる。つまり、知っているはずの人間の中から、新しい人間が生まれてくるのを目撃することになる。その瞬間に立ち会うことになる。
 それは「黄色い丸が点滅した」(雨沢泰の訳は「丸い」を省略していて、サラマーゴのやっていることをたたき壊している/NHK出版)だけでも、そうなのである。人間は信号を見ているとき色だけではなく実は形も見ているという意識の覚醒が、その後の「見る」ということをめぐる「身分け=言分け」の世界を深め、肉体とことばは「哲学」そのものになっていく。繰り返しになるが、『白い闇』の書き出しから、読者は「新しい人間」の誕生に立ち会っているのである。

 かなり脱線したかもしれない。
 野沢は、デリダを、さらに他の多くの人をルソーの《最初の言語は比喩的でなければならなかった》と結びつけて、考えを進めている。はっきり理解しているわけではないが、野沢がこのことばを引用するとき、野沢の視点は「比喩(的)」ということばに向いているように思う。
 だからこそ、私はあえて問いかけてみたいのだが、ルソーが書いている「言語」とは、いったい何を指しているのか。ルソーの書いている「言語」というこばこそ「隠喩」なのではないのか。つまり「意識化されたことば」のことではないのか。言いなおすと、「いま私が言ったことばは、これまで言われていることばと違う」という意識でつかわれていることばを指すのではないのか。この本の最初の方で野沢は雷を体験した古代の人間が、驚きの中で発することばについて書いていたが、その驚きとともに発する「ことば」は、それまで知っていることばではない。知っていることばでは伝えられない驚きをなんとか伝えようとすることば、言いなおせば「最初のことば」を否定する「ことば」である。野沢の書いている古代人がいったい何歳の人間を想定しているのか知らないが、雷を初体験したわけではなく、雷を体験してきたが、それまでの体験をこえる雷に遭遇したとき、今までとは違うことばをいいたいという気持ちになったのだろう。つまり、そのときのことばは、「雷」ということばを知っていて、その知っていることを否定して、なおかつ伝えたいものを伝えようとするものだったと思う。「最初の言語」は最初に「意識化」された言語のことだろう。「意識化」を補わないことには、私には意味が理解できない。
 野沢の書いていることは、この「意識化」のことなのかもしれないが、どうにもわかりにくい。詩の特権化が無意識におこなわれているように、いくつかのことばが無意識的につかわれている(定義が明確にされていない)と私は感じてしまう。
 (この問題は、パロールとかラングとか、さらにエクリチュールとかという「用語」と関係づけて見ることもできると思うが、私はカタカナを正確に読むことができないので、これ以上は書かない。)

  もうひとつ。
 そして、このときの「意識化」の問題というのは、人が生きている「現場」によって、それぞれに違う。だから「隠喩」としての詩を必要とする人もいれば、違うかたちの詩を必要とする人もいるということも忘れてはならないことなのではないだろうか。野沢の求める詩は野沢の求める詩。ことばは、たとえば「日本語」とか「英語」とか言ってしまうけれど、ほんとうは個人個人の「野沢語」「谷内語」のようなものであって、「文法」が違うのだ。それは何も「文学語」だけではなく「日常語」においても。その「違い」をどう意識化するか、どう違いを共存させていくかということを考えないといけないような気がする。少なくとも、私は「詩の言語の特権化(隠喩の独占)」という野沢の視点には疑問を感じてしまう。私には私の目指す「言語」というものがあるけれど、だからといってその他の「言語」を排除はしたくないのである。他人の言語がなければ、私はことばで考えることができない。他人の言語は多ければ多いほどいい、と思っている。もちろん、それを全部つかえるわけではないし、つかいたいとも思わないが。

 

 


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自民党憲法改正草案再読(24)

2021-09-18 09:23:39 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(24)

(現行憲法)
第四章 国会
第41条
 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
第42条
 国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する。
第43条
1 両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。
2 両議院の議員の定数は、法律でこれを定める。

(改正草案)
第四章 国会
第41条(国会と立法権)
 国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。
第42条(両議院)
 国会は、衆議院及び参議院の両議院で構成する。
第43条(両議院の組織)
1 両議院は、全国民を代表する選挙された議員で組織する。
2 両議院の議員の定数は、法律で定める。

 表記の変更と、「これを」の削除。「これを」という書き方がテーマの提示であることは、第42条、第43条の「文体」をみればはっきりするだろう。「これを」という再提示はしつこく、うるさい感じがするかもしれないが、憲法のような基本的なものには必要なことだと思う。

(現行憲法)
第44条(議員及び選挙人の資格)
 両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律で定める。この場合においては、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。
(改正草案)
第44条(議員及び選挙人の資格)
 両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律で定める。この場合においては、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。

 大きな変更点は「障害の有無」が改正草案で付け加えられたこと。これは、改正草案のいい点である。「但し」を「この場合において」と書き換えている理由はわからない。「この場合において」ということばを改正草案では他の部分でもつかっているか。丁寧に読んでみないと、「意味」(狙い)がわからない。
 「又は」については、先日、現行憲法は「又は」の前に読点をつけないのが普通である。現行憲法では「又は」で結ばれることばは、切り離せない、つまり「同一のもの」という認識があるのかもしれない、と書いた。「財産」と「収入」は基本的には違うが、「財産はあるけれど収入のない人」「収入はあるけれど財産のない人」の区別をしないためのものだろうか。「又は」の前に読点「、」があると印象が違う、ということを先日、書いた。
 これは強引な読み方かもしれないけれど、私は、とりあえずそう読んでみた。
 ところが「但し」「この場合において」は、どういう「違い」を明確にするために「この場合において」をつかったのかわからない。「但し」を「ただし」と表記変更する例は、次の第45条に出てくるが、「この場合において」とはしていない。
 ここには私には気がつきようのないとんでもない「罠(落とし穴)」があるかもしれない。第45条のように変えなくてすむなら、わざわざ変える必要がない。変えたからには何らかの「意図」があるはずだ。


(現行憲法)
第45条
 衆議院議員の任期は、四年とする。但し、衆議院解散の場合には、その期間満了前に終了する。
(改正草案)
第45条(衆議院議員の任期)
 衆議院議員の任期は、四年とする。ただし、衆議院が解散された場合には、その期間満了前に終了する。

 「但し」「ただし」は先に書いたので触れない。
 この条項では「衆議院解散の場合には」を「衆議院が解散された場合には」を書き直している。ここには大きな問題がある。
 「衆議院が解散された場合には」という文体の中では「国会」は「受け身」である。誰かが「国会を解散する」のである。だれがするのか。
 現行憲法では、第69条に「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。」という規定がある。衆議院(主語)が内閣不信任案を可決(内閣信任案を否決)した場合、その決議が正しいかどうか国民に問うために内閣は国会を解散し、総選挙に訴えることができる。いわば衆議院の議決に対する「対抗手段」として内閣に「解散をする権利」を与えている。この「対抗手段」がないと、内閣は「独自性」を確保できないという考えに基づいている、と私は読んでいる。あくまで、衆議院の可決に対する「賛否」を問うのが「解散→総選挙」である。「議会制民主主義」に対して、一定の「歯止め」をかける条項といえる。内閣の構成員(首相)は選挙で選ばれた人である。その選挙で選ばれた人が「不信任」されたときは国民にその是非を問いかけることができる、という「権限の付与」ということになる。
 国会(衆議院)は「自動的」に解散できるわけではない。ちゃんと「任期」が決められており、任期の変更ができる(解散ができる)のは、内閣と国会が対立したとき(内閣不信任が可決されたとき)だけなのである。現行憲法第7条第2項を「借用」して、解散権を振りかざす首相が何人もいたが、第7条は天皇の「権能規定」であって、内閣(首相)について規定したものではない。あきらかに憲法を逸脱したものである。
 改憲草案の第45条は、そういう「経緯」を抜きにして「衆議院が解散された場合には」と書いている。内閣=首相(主語)が勝手に(不信任されたわけでもないのに)国会を解散するという一方的な「暴力」を許すことになっている。いま横行している内閣(首相)による民主市議の破壊を追認し、それを推進する条項である。「解散権」は、「内閣」の条項にふたたび出てくる。ここでは、その問題を「主語」を隠すことで、こっそりと忍び込ませていることになる。
 憲法は権力(内閣、首相)を拘束するためのものなのに、そのことが隠され、内閣(首相)が「主語」になって、国民を拘束するということが改憲草案で押し進められるのである。首相がかってに国会(衆議院)を解散できるのであれば、衆議院議員の「任期」はあってないに等しい。ある議員を落選させるために国会を解散するということさえできてしまう。内閣に人気があるうち解散し、野党の議席を減らす、内閣が不人気の場合は人気が回復するまで選挙をしない、という方法が横行することになる。
 実際、そういうことが、いま、起きている。
 きょうの読売新聞は「自民総裁選告示」のニュースと同時に、今後の「日程」について書いている。
↓↓↓↓
 政府・与党は、衆院選の日程について、10月26日公示、11月7日投開票を軸に検討を進めている。衆院議員の任期満了日(10月21日)以降の衆院選は、現行憲法下では初めてとなる。
↑↑↑↑
 任期が10月21日に満了になるのはわかっている。わかっているなら、任期が満了になる前に選挙をすべきだろう。なぜ、それができないのか。できないのではなく、しないのだ。いまは、菅が辞めたとはいえ、自民党の不人気がつづいている。ここで選挙をすればコロナ感染が終息しないことも影響して、きっと自民党は議席を減らす。その影響を少なくするために、選挙を先のばしにしているのだ。
 菅が辞任を表明したときは、国会を開いて、国会を解散させ、解散による総選挙というかたちにすることで11月28日まで投票日を延ばせる、ということが読売新聞によって報道されていた。コロナ感染がどうなるかわからないが、いまの感染者減少傾向がつづけば、自民党のコロナ対策は「成功した」という印象を生むことになるかもしれない。それを狙っているのだ。
 自民党の「議席確保」だけのために選挙(解散)が利用されようとしている。
 「衆議院解散の場合」「衆議院が解散された場合」の違いを見逃してはならない。

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