長田典子『ふづくら幻影』(思潮社、2021年09月01日発行)
長田典子『ふづくら幻影』の「夏の終わり」にも「降りる」という動詞が出てくる。野沢啓が高く評価している高倉勉、氷見敦子の作品に出てくる「降りる」である。「降りる」という動詞の働きについて野沢は書いていなかったが、私は「降りる」という動詞こそが高倉勉、氷見敦子の作品を読むときの「キーワード」だと思った。地底(鍾乳洞)へ降りることで、地上では見えなかったものを発見する。それを明るみに出す。
長田の作品では、こうつかわれている。
ダムの施設点検のために
湖から水が全部抜かれたことがあった
家の跡が見られるかもしれないというので
家族で底まで降りて行ったのだ
この「降りる」は高倉、氷見のつかっていた「降りる」に通じる。「降りていく」ことで過去(歴史)に出会う。隠れていたものに出会う。それは知っているには知っているが、自分ではまだことばにしたことのないものだ。
それは、何か。
わたしたちは 無意識に
庭の入り口だった場所から
失われた空白となった土地に入って行った
ここが庭 このあたりが築山
ここには柚子の大木があった
母屋はここ 玄関 台所 風呂場
製紐工場は母屋に対して直角に建っていた
この部分は、「谷川さん、詩をひとつ作ってください。」という映画に出てくる、東日本大震災の被害者の中学生(だったかな?)のことばに似ている。津波で跡形もなくなった家の跡を訪ねる。そこで、ここが台所、ここが私の部屋というようなことを言う。それは単に場所の記憶ではなく、場とともに生きる肉体の記憶だ。肉体で何をしたか。玄関で靴を脱ぐ。台所で大根を切る。風呂場で体を洗う。肉体の記憶へ、肉体の時間へ「降りて行く」。そのことばの前では、谷川の詩は無力である。突然噴出してきた「他人のことば(他人のことば)」が谷川を圧倒して、存在している。そこに私は「詩」を感じた。谷川が主人公の映画なのに、谷川がかすんでしまう。それを谷川は受け入れている。
きのう書いたことに関連して言えば、谷川はその女子中学生のことばをどんなに詩に書きたかっただろう、と思ったに違いないと思った。でも、書くことはできない。映画の中で少女が言ってしまっていて、谷川が出てくる映画を見た人は、そのことばが少女のことばだと知っているからだ。谷川も、その少女の肉体を見て(直接か、間接かはわからないが)、その肉体を覚えている。それは谷川の肉体とは絶対に違う。ことばはときどき「肉体」そのものをもって動くのである。
長田は、その映画を見たかどうか、私は知らない。見ていたって、かまわない。同じ映画の中で長田と少女が一緒にいたわけではないのだから。谷川は少女とは顔を合わせていないかもしれないが、映画の中で一緒にいた。それが問題。もし、バスの中で聞いた誰かのことばなら、谷川はそのままつかえる。同じバスのなかにいたということを知っているのは谷川だけであって、私たちはそれを目撃していないからだ。だれも少女の肉体を思い出せない。そこには単純に「ことば」があるのだ。詩のことばは「自分が生む必要はない。選んでいけばいいんだ」というのはそういう意味だろう。映画の中の少女は、自分でことばを選んでいる。それが自分の肉体だと差し出すことを選んでいる。映画に、ことばと肉体を撮られていることを知っている。でもたまたまバスの中でいっしょになった少女は、肉体を差し出しながらことばを選ぶということをしていない。だから、谷川は肉体を引きずっていないことばを「選ぶ」のである。それに谷川の肉体(谷川のなかに存在する少女の肉体)を重ね、少女になる。ことばとともに少女として生まれ変わる。これは野沢がつかっていた表現で言えば「再=構成」「再=創造」ということになる。私の「誤読」では、だが。
長田は、このあと、こんなことばを「選んでいる」。
いつも陽が射した明るい道は見当たらず
棚田は埋もれ
土が水平に広がって
集落は もう本当に閉じられてしまった、
「埋もれる」という動詞がつかわれている。「埋もれる」は「閉じられる」と言いなおされている。「降りて行って」「埋もれる」「閉じられる」を長田は見つけ出している。その途中で、長田は、
ここは むかし道だったのだから
ということばを繰り返している。「埋もれた/閉じられた」ものは家や田んぼだけではない。「記憶」が「埋もれ/閉じられた」のである。だから、それを「掘り起こし/開く」のである。
この「埋もれる/閉じる」と「掘り起こす/開く」という相反する動詞の動きを通して、私はたとえばダムが支えた経済成長の時代、そのために失われたものというものを想像したりする。「埋もれる/閉じる」「掘り起こす/開く」という動詞を通して、単に長田(一家)の歴史/世界を見るだけではなく、その時代の世界と人の動きそのものを見る。つまり「隠喩」としての詩がここに成立していると見る。
野沢は、どうだろうか。
「ここが庭 このあたりが築山」というような行の展開だけだったら、私は、この詩についてそんなに感動しなかったかもしれない。けれど「埋もれる/閉じられる」という動詞を含むことばの動きに、長田の書きたいことは「掘り起こし/開く」ということだったのだと気づき、そのことを書いておきたいと思ったのだ。私たちの暮らしのなかには「掘り起こし/開く」ことが必要なものがあるのだ。
「ツリーハウス」には、こんな行もある。
村はたべられちゃったの?
なにに?
あは、
食べられてなんかいないさ
ドングリの大木みたいに
続いていくのさ
村が「食べられた」のなら、「食べた」のは何? 高度成長という日本の経済政策かもしれない。でも、長田は「食べられていない」という。そして、それに対抗して「続いていく」という動詞を向き合わせている。
ある世界に対し、あることばをつかって向き合い、向き合うことで見えなかった世界を浮かび上がらせようとする働きを「隠喩」と呼ぶならば、この長田の世界もまた「隠喩」の世界であると思う。長田の「掘り起こしている」のは「原始」というものではなく、数十年前の、ひとつの村の記録であるけれど。沖縄の激しい戦闘の記憶、あるいは胃がんの壮絶な苦しみというものではないけれど。そこにはたとえば「白いセドリック」のような、まばゆい夢もあるのだけれど。
かなりいびつな感想になっているかもしれない。私は、何かを書くとき、純粋にそれだけに向き合って書くということがなかなかできない。そのとき考えているほかのことがどうしても混じってくる。いまは野沢の『言語隠喩論』を読んでいるので、どうしてもそのことと関連づけて書いてしまう。私の感想は、その日、その日で変わってしまう。「ひとつの答え」を想定していない。「絶対詩」のようなものを考えないからだ。
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