建畠晢『剥製篇』(思潮社、2021年09月01日発行)
建畠晢『剥製篇』の一篇、「犯罪惑星の斥候」。これを取り上げるのは、野沢啓『言語隠喩論』を読んだからである。私の言いたいことを書くのに、この作品が都合がいいからである。野沢の論を読むと、野沢が「隠喩」こそが詩の出発点であると言っているように思う。しかし、それではその「隠喩」はどうやって生まれるのかを説明しているようには思えない。「原始」とか「原初」とかが「隠喩」にかかわっていると考えていることはわかるが、どうやったら「原始」「原初」を手に入れることができるか。そのことを書いているとは思えない。唯一の手がかりのようなことばは「身分け=言分け」であるが、そのことを具体的な作品に触れながら書いているとは私には思えなかった。哲学者のことばをくっつけて「身分け=言分け」と論を進めているように思えた。
野沢がどう考えているかわからないが、私自身が「身分け=言分け」をどう考えているかを書いてみたい。野沢が引用した哲学者のことばとも、野沢自身のつかっていることばとも違うかもしれない。いや、きっと違うだろう。私は野沢が引用している哲学者のことばをほとんど読んだことがない。私は目が悪いせいもあって、ほんとど本は読まない。
一連目は、こうはじまる。
惑星の朝ぼらけ。戦いの野は薄明に眠り、鉄の館はいまだ門
を閉ざし、私は惑星の犬とともに斥候に出る。
この書き出しのなかにも「隠喩」がある、と私は読む。そして、そこには「身分け=言分け」がある。「朝ぼらけ」は「薄明」と言いなおされているが、その二つのことばは「眠る」という動詞と一緒に動いている。ふつう、「朝」になれば人は「起きる」。「眠る」ではない。「起きる」ことで初めて「朝ぼらけ/薄明」を認識できる。実際に、ここに書かれている「私」は起きている。しかし、起きているのに、起きていることを意識せずに、「眠る」という動詞の方へ意識をむける。なぜか。「斥候」は、他人に気づかれないように相手の動きを探ることだからである。「斥候」にとっては相手が無意識である(=意識が目覚めていない=眠っている)ということが好条件である。「私」は、相手が(そして世界が)眠っていることをまず確認するのだ。「戦いの野は薄明に眠り」の「眠る」という動詞は「斥候」にとっては不可欠な条件なのだ。「眠る」は「閉ざす」とも言いなおされている。「眠る」「閉ざす」は「斥候」自身の動詞(身分け)をあらわすことばではないが、「斥候」のしなければならないことを「暗示」している。「暗喩」している、といってもいいだろう。「相手に気づかれないように相手を探る」。「眠っている/意識を閉ざしている」ものを「探る」。「閉ざしている」「鉄の館の門」と敵の門ではなく、味方の門かもしれないが、それは「斥候」というものが多くの「味方」の知らないことを先に探るという仕事ととも関係しているからだし、もし「斥候」が「味方の知らないこと」を探るものなら、同時に味方を裏切るということも、どこかに含んでいるかもしれない。このままでは負ける。寝返ってしまえ、ということが「斥候」の行動になるかもしれない。
そんなことを暗示させることばが、すぐつづく。
あいまいな意図を
もった犯罪はどの方角でなされるのであろうか。
「あいまいな意図を持った犯罪」という、それこそ「あいまい」なことば。「戦い」なら「あいまいな意図」など、ふつうは、ない。「勝つ」という「意図」しかない。もちろん、この一文だけでは「意味」はわからないが、「味方も眠っている/敵も眠っている」という状況の中で、「斥候」である「私」が「はっきりとした意図」をもっていないからこそ、その意識のなかに「あいまいな意図をもった犯罪」というものが浮かび上がってくる。「探る」という「斥候」の「動き=身分け」が「あいまいな意図」という「言分け」を引き寄せるのである。
これは、さらにおもしろい展開を見せる。
すべてを見逃
すための斥候であるから、朝霧に沈む川向こうの砦から点呼の
声が響いたとしても、あるいは不意に馬の嘶きが聞こえてきた
としても、気持ちを騒がせることはない。
「斥候」がここでは「見逃す」という動詞で定義されている。ふつうに私たちが考える「斥候」とは違う「動詞」を「私=斥候」は考えている。そうなのだ。人間は、ふつうに考える「定義」とは違った「定義」を選び、生きることができる存在なのである。それは「他人」を裏切るだけではなく「自分」をも裏切るということかもしれない。「忠誠」であるという「自分」を否定して「不実」であることによって「生きる」を選ぶこともできるのである。
人間は矛盾した存在である、ということが「隠喩」されているかもしれない。そして「隠喩」が指し示す世界は「動詞」のなかから生まれてくる。ある行動を選択する。「身分け」する。肉体をその選択にかかわらせていく。そうすると、その肉体の動き(身分け)によって、今までとは違った世界が「言語化される=言分けされる」。「身分け」する瞬間というか、「身分け」するまでに、人間は「あいまいな、どっちを選んでいいかわからない場」をくぐりぬける。そうした「場」を、私は「混沌」と呼んでいるが、混沌をくぐり抜け、実際にひとつの行動が決定されると、それに合わせるかたちで「ことば」も違って見えてくるのである。
「斥候」が「点呼の声(戦いの準備の声)」を意図的に見逃す、「馬の嘶き」をあえて見逃す。それは、味方が戦いに勝つという意図に反する。「斥候」の目的に反する。その意識のなかから、さらに新しいことばが動き始める。「言分け」が始まる。
誰かが誰かをさらっ
た日は犯罪惑星の起源であり、彼らは暫定的な罪と罰を繰り返
しながら記憶の中を生き延びてきた。
「罪と罰」は「暫定的」なもおよすぎない。「生き延びる」という動詞を選択するとき、罪や罰を気にするいのちはない。罪も罰もまた「身分け=言分け」にすぎない。そして、「言分け」とは「記憶」にすぎないのである。
さて。
では「言分け」(身分けを通して生まれてきたことば)が「記憶」であるならば、ここに書かれた建畠のことばの世界は、そのまま「詩」の「隠喩」になっていないか。
最後の段落は、こう書かれている。
犯罪惑星が音もなく運行する暗い宇宙。あいまいな意図を
もった犯罪の起源。暫定的に繰り返される罪と罰。点呼の声は
止んだ。静けさの中で時折聞こえてくる馬の嘶き。樹木の下で
惑星の犬は耳を立てる。やがて喊声が沸き上がるのであろう。
私はそのすべてを見逃すための斥候である。
「喊声」は味方の声か、敵の声か。どちらでもいい。「すべてを見逃す」は、どちらにも与しないということを意味するだろう。どっちでもいい。それがあったということを、「見逃す=語らない」ことによって、別な世界を暗示する(隠喩する)のが「詩人」なのだ。建畠にとって、詩人とは「語らない」ことなのだ。もちろん、この「語らない」は「隠喩」である。「語らない」といいながら、「語らない」という方法を「語っている」からである。ことばは「語らない」ということを「語る」ことができるのである。
「矛盾」したかたちでしか言えないことがある。「隠喩」でしか言えないことがある。そういう世界に建畠は対峙して、ことばを動かしている。
建畠の詩の紹介というよりは、野沢の書いていることへの疑問だけにおわったかもしれない。
だから、少し書き加えておく。詩集の中では「霧と剥製」が一番好き。巻頭の「あの声をどうして防ぐのか」も好きである。野沢の評論を読んでいなかったら、その二篇に触れながら感想を書いたかもしれないが、私は、どうしてもいま読んでいる本や、現実に私が直面していることにひきずられながら他の本を読んでしまう。だから、どうしてもこういう感想になる。
「引用」抜きで、さっと書いておけば、建畠のことばには無駄がない。同じことばが繰り替えされてもうるさくない。また逆に、削りすぎているという窮屈感もない。ことばの呼応がしっかりしていて、構造にゆるぎがない。一方で、「わからない? そんなこと、私の知ったことじゃない」というような突き放したところもある。それも気持ちがいい。いいさ。どっちにしたって、他人のことばなんか、わかるわけがない。私は私の「意味」を生きている。私以外の「意味」を生きることができない。だから、自分の好みのままに読んで、自分が思ったことをただ書くだけだ。
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