野沢啓『言語暗喩論』(6)(未來社、2021年7月30日発行)
「第五章 レトリックから言語の経験へ」。
「誰かにむけてことばを切り出すということは、すでに身分け=言分け的な行為であり、どれだけ創造性が稀薄であろうとも、ひとはそんなことをいちいち意識せずに日常のなかでみずからのことばを発し、そのことをつうじてなんらかの意思の伝達ないし創出をしているのである」と野沢は書く。さらに「日常的言語でさえも隠喩的本質を内蔵させているというのがことばの本質である」とも。
私は、この部分には納得できる。
だからこそ、次のことばにつまずく。
「文学、とりわけ詩という書法、書く行為は、誰に要請されたわけでもないのに、こうした状況投企的なポイエーシス行為であり、ことばを創出する純粋さにおいて、書く行為の極限である」「詩を書くという主体的選択において書くことの動機とは、書くこと以前にはもともと存在せず、書くことによって初めて状況が作られるという意味で状況投企的になるのであって、そういう主体的選択行為なしにはどんな詩の一行も書かれる必然性はないからだ」
なぜ、詩なのか。なぜ小説であってはいけないのか。あるいは絵画、彫刻、音楽、さらには物理や数学であってはいけないのか。たとえばモーツァルトにとって……。
「モーツァルトにとって音楽、とりわけ作曲(音符を書く)という行為は、誰に要請されたわけでもないのに、こうした状況投企的なポイエーシス行為であり、メロディー、和音、リズムを創出する純粋さにおいて、作曲は音楽行為の極限である」「作曲するという主体的選択において作曲することの動機とは、作曲する以前にはもともと存在せず、音符を書くことによって初めて状況が作られるという意味で状況投企的になるのであって、そういう主体的選択行為なしにはどんな楽曲の一小節も書かれる必然性はないからだ」
こう書かれている文章に出会ったら、私は、なるほどなあと思うだろう。野沢の書いている文章は、それこそ「暗喩」なのである。暗喩だから、何にでも当てはまる。詩に限定する必要はない。なぜ詩を特権的であると書くのか。それは野沢が詩を書くからだとしか言いようがない。「ことばを創出する純粋さ」という表現があったが、「純粋」ということばに何か詩至上主義のようなもの、詩を書いている野沢を「特権化」する視点を感じて、私は落ち着かなくなる。
「詩を構築する世界が、現実の世界にたいして擬似的な様相をみせようが、あるいはまったく幻想的なイメージの提出になろうが、おのずから現実世界にたいする反世界、反現実の世界であるということは、この世界が現実の世界にたいして隠喩的であることを必然的に示している」
野沢はどう読むか知らないが、鴎外は「雁」の終わりの方で、こう書いている。「実体鏡の下にある左右二枚の図を、一の映像として視るように、前に見た事と後に聞いた事とを、照らし合わせて作ったのが此物語である」(一部表記変更)「二枚の図」の「一枚」は自分の知っていること、「もう一枚」は他人から聞いたこと。それを「ひとつのことば」のなかに統一する(ひとつの視点で制作する=ポイエーシスする?)と、そこにいままで気がつかなかった「世界」が出現する。「ことば」によって創り出された世界は、現実世界の「隠喩」として「雁」という作品になる。「雁」には現実が「隠喩」されている、ということになりはしないか。
この章で野沢は、高良勉の「ガマ(洞窟)」と氷見敦子の「日原鍾乳洞の『地獄谷』を降りていく」を引用しながら、二人のことばが現実世界の「隠喩」になっている、と語る。具体的には、高良の作品について「沖縄の戦後世代の詩がもつことばの力、歴史的現実に密着しながら詩的創造力をことばに託して拡張していく力こそ、詩のことばが隠喩としてどこまでも想像の世界を広げていく可能性を示唆している」。この「文体」に鴎外を当てはめるとどうなるか。「明治の小説がもつことばの力、歴史的現実に密着しながら小説的創造力をことばに託して拡張していく力こそ、小説のことばが隠喩としてどこまでも想像の世界を広げていく可能性を示唆している」にならないのか。
野沢の書いていることは、あらゆる「芸術(創作)」の、そしてあらゆる「精神活動(たとえば数学や物理、あるいは哲学)」の「隠喩」になっている。隠喩として読むことができる。こういう言い方をしてしまえば、一台のパソコンもまた世界の隠喩として表現できることになる。私はその構造を語ることができないが、パソコンの仕組みを知っている人なら、設計から製造、そして実際の稼働を含めて「世界の隠喩」として語ることができるだろうと想像できる。
「隠喩」を問題にするのなら、もっと「ことば」そのものにこだわって、どのことばがどのような「隠喩」になっているのか、それを指摘しながら、自分が知っている世界と、高良、氷見の書くことで出現させた世界がどう違うのか、それを書かないと「隠喩」について書いたことにならないのではないか、と私は疑問に思う。
「詩」ではなく、あくまでもいま読んでいる、その作品。ジャンルではなく、個別の作品の中で「隠喩」がどう動いているか、その詩的を抜きにして隠喩と詩を語り、詩を特別視するのは危険ではないだろうか。
野沢が取り上げている高良と氷見の詩には、不思議なことに共通点がある。「鍾乳洞」が出てくる。鍾乳洞の特徴は、それが長い時間をかけて誕生したということにある。鍾乳洞は歴史を持っている。鍾乳洞に入り込み、高良はそれを「子宮」と感じる。氷見は胃がんを抱えている「内臓(腹部)」と感じているようだ。だが、それは胃、腸だけではなく、やはり「子宮」にも通じているようだ。「柔らかい胎児の足」ということばが、それを感じさせる。ふたりは、ともにその鍾乳洞の暗い内部を歩きながら、そこに「歴史」を感じている。高良は沖縄戦の歴史、自分を超える人々の歴史、氷見は彼女自身の「歴史(一生、半生)」を思い、またその想像力の中で人間の一生を思い描いている。歴史には「暗い内部」がある。
二人の詩には「鍾乳洞」とは別に、同じことばが登場する。「降りる」である。高良は「ガマの迷路を降りていく」、氷見は「「三途の川」を渡って「地獄谷」に降りる」とつかっている。「降りる」は「這い寄っていく」「移動する」のように、肉体の動きとして書かれる。窮屈さを感じながら、それでもその「奥」へ動いていく。高良の詩には「這い寄る」のかわりに「はい上がる」がある。「這う」が共通している。「這う」は普通の歩き方ではない。「這う」歴史というものがあるのだ。「這う」ということば、その動詞が呼び寄せる世界がある。そして、それは「暗さ」と通じている。ただ暗いだけではなく、「生きる」ことの切実さともつながっている。
そういうことが重なって、ふたりの詩は、人間が生きていることの「隠喩」となっている。人間が生きている時間よりもはるかに長い時間をかけて動いている地球。その底、その穴のなかを這いずり回って生きるとき、自分だけではなく、自分を超える命のつながりを感じる。自分自身か「隠喩」になったような感じがするかもしれない。
だが、こういうことを書いているのは、二人の詩だけとは限らないだろう。小説にも、そうした体験を書き、そこに現実の世界を浮かび上がらせる作品があると思う。私は目が悪いので、多くの本を読むことをあきらめている。具体的な作品を呈示して野沢に反論することはできないが、詩だけがことばを「隠喩」としてつかい、詩のことばだけが「隠喩としての世界」を創作(制作)しているわけではないだろう。
(これまで野沢の書いている「隠喩」を「暗喩」と私は誤読していた。そして「暗喩」と書いてきたが、「隠喩」の間違いです。訂正します。誤記の訂正は、いつになるかわかりませんが。)
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