雨沢泰訳『白い闇』の訳文
雨沢泰訳『白い闇』(NHK出版、2001年2月25日発行)の訳文は、あまりにもひどい。私の持っているのは古い版なので改定版が出ているかもしれないが。108ページにこんな文章がある。
医者の妻は時計を見た。針は二時二十三分をさしている。眼を寄せると秒針がとまっていた。情けない時計のネジをうっかり巻き忘れていたのだ。それとも、情けないのは彼女なのか、わたしなのか。
この「情けないのは彼女なのか、わたしなのか」の「彼女」って、だれ? この小説には、おもだった女はサングラスをかけた若い女と、この医師の妻。ほかにはいない。いくら前を読み返しても「彼女」にふさわしい人間はいない。
スペイン語訳(原文はポルトガル語だと思う)では、こうなっている。「情けない時計」以後を引用する。
Se había olvidado de dar cuerda al maldito reloj, o maldita ella, maldita yo
たしかに「 maldita(情けない) ella (彼女)」ということばは出てくる。だが、これは「maldito (情けない)reloj (腕時計)」と医師の妻が思わず時計を罵った後、ほんとうに罵るべきなのは時計なのか、ふと思い悩む(後悔する)場面である。時計を罵ってもしようがない。情けないのは、ほんとうはネジを巻き忘れた私である。それが「 maldita(情けない) yo (私)」。
それでは「彼女( ella )とは誰なのか。誰、ではなく「cuerda(ネジ)」なのである。「cuerda」が女性品詞だから「 maldita cuerda 」と書くかわりに「 maldita ella 」と書いている。代名詞をつかっている。そして代名詞をつかったのは、そのあとに「 yo (私/代名詞)」が来るからなのだ。
スペイン語にしろ、フランス語にしろ、名詞に「男女」の「性別」があるということは、語学の初歩で習う。私はいまだにNHKのラジオ講座の初級編をクリアできないけれど、それくらいのことは知っている。小説を訳す人間なら、当然知っていることである。
日本語訳には(先に書かなかったけれど)、「情けない時計」にはわざわざ「傍点」がふってある。「情けない」ということばのつかい方に特徴がある、「時計」は器械だから「情けない」という修飾語はふさわしくない、けれどサラマーゴは「情けない」ということばをつかっているといいたいのだと思う。そこまで気配りができるならば、「 maldita ella 」を「情けない彼女」と翻訳する気持ちがわからない。
「maldito (男性形) maldita(女性形)」は時計、ネジを修飾するときは「情けない」というよりも「いまいましい、のろってやりたい、ばかな」くらいの訳の方が日本語敵だと思うが、それを「わたし」にそのままあてはめるとなんとなくおかしい。「わたし」の場合は、たしかに「情けない」の方がぴったりくる。ネジを巻くのを忘れてしまうなんて、わたしはなんて情けない(だらしない)人間なのだろう、というわけである。そこまでことばをつかいわけるのなら、なぜ「 maldita ella 」を「彼女」と訳したのか。「彼女」ということばで、あ、これはネジのことだ、とわかる日本人読者がいるだろうか。
この小説の書き出しの文章の訳文の不適切さについては既に書いたが、あまりにもひどい訳文だね。
ちなみに(というつかいかたでいいのかどうかわからないが)、スペインの友人に聞いてみた。この本を読むのを手伝ってくれている。「ここに書いてある ella はcuerdaのことか」。即座に、「そうだ」という返事。「ほかに何か考えられる?」という感じの答え方だった。代名詞(日本で言えば指示代名詞)が何を指すかは、どの国のことばでもむずかしいときがあるが、この部分では「 ella 」を「彼女(人間)」と思うネイティブは皆無だろう。そういう部分を「見落としている」のがなんともおかしい。原稿を読んだ編集者も「この彼女というのは誰ですか」くらい聞けばいいのに。
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