ヤスミラ・ジュバニッチ監督「アイダよ、何処へ?」(★★★★★)(2021年9月2 6 日、KBCシネマスクリーン2)
監督 ヤスミラ・ジュバニッチ 出演 ヤスナ・ジュリチッチ
映画が始まってすぐ、ファーストシーンで、私は、あれっと思う。室内。ソファに座っている男を映し出す。映像に奥行きがない。人物に立体感がない。精密な絵画か写真のよう。えっ、こんな映像をずーっと見せられるのか、といやな感じになる。作為的すぎる。映像を加工しすぎじゃないのか。
ちょっとがっかりしながら、自動販売機で買っておいた缶コーヒーの一口呑む。
映画は、画面が変わって、まず木と太陽が映し出され、戦車の一部が映し出される。一部で「全体」を暗示し、そこから「世界」を描き始める。これも、まあ、平凡な手法だなあ。そんなことも思う。
ところが。
主人公のアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)が出てきてからが、引きつけられる。アイダは国連の平和維持軍の通訳をしている。通訳というのはなかなかやっかいな仕事である。自分の思っていることとは関係なく、ひとのことばを正確に別な人に伝える。時間が一瞬止まり、世界がことばのなかで繰り返され、ことばが通じた後やっと動き出す。この「間合い」がなんとも言えず「濃厚」なのである。その「濃厚」さのなかに引き込まれる。なぜ「間合い」が「濃厚」になるかといえば、アイダは一方でセルビア人に侵攻される住民(犠牲者)であり、他方で住民を守る平和維持軍の職員だからだ。つまり、守られる人間でありながら、守る人間なのである。もし彼女がどちらか一方だったら、彼女の行動は違ってくる。彼女にも主張があるはずなのに、通訳をするときは、それは封印されている。この封印感が間合いを濃密にする。
この奇妙な「濃厚な間合い」は実際に「濃厚な関係/複雑な関係」を生み出す。アイダは国連軍の中にいて「安全」である。しかし、夫やこどもは国連軍の基地の外にいる。避難してくるが、中に入れない。避難させたい。しかし、国連軍はアイダの家族だけを特別待遇するわけにはいかない。混乱が大きくなるだけだ。アイダはまず夫を侵攻してきたセルビア人との交渉役に仕立てる。セルビア人と交渉する民間人の代表に仕立てる。そのあと強引に二人の息子も基地の中に引き入れる。基地の外にはまだ2万5000人も住民が避難場所を求めて待っている。
アイダのやっていることは、だんだん「通訳」の仕事から、家族を守ることへと重心を移していく。しかし、これがなかなかうまくいかない。国連軍はアイダの家族を守るためにだけ存在するわけではなく、スレブレニツァの住民を守るために存在するのだから。ひとりの願いだけを聞いているわけにはいかないのだ。でも、アイダにとっては、まず家族なのだ。他の人が目に入らなくなる。「通訳」の仕事の枠をはみ出し、自分自身のことばを「英語」で、つまり自分の母国語以外で言うことになる。これが「敵」との交渉ならば、その「敵のことば」を話すということは意味があるが、「味方」と話すのに自分以外のことばをつかわなければならない。「敵」とは「母国語」で話し、「味方」とは「外国語」で話す。「外国人」にはアイダは「外国人のひとり」にすぎない。しかも、その国連軍が向き合っている「敵」はアイダの話すことばを話しているのである。ここで、とても奇妙なことが起きるのだ。国連軍が最後まで守るのは、結局「国連軍が話すことば(英語)」を話す人間だけであり、国連軍に協力する人間だけであり、それ以外の人間は「区別しない」のである。いちおうスレブレニツァの住民を守る姿勢は見せるが、具体的には、何もしない。放置する。
結局、「英語」を話すために、アイダは家族から引き離されてしまう。そして家族は、夫、ふたりの息子が全員男であるために虐殺されてしまう。
で。
途中は省略するが、映画の終わりの方で、私はもう一度、あっと声を上げる。ファーストシーンの奇妙な映像、あれは「写真」だったのだ、と確信する。
アイダはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が終わった後、自分の住んでいた家に向かう。そこには別な一家が住んでいた。家の中は改装されている。そこに住んでいる女が、アイダの家族の残したものを渡してくれる。それは写真だ。冒頭のスナップ写真はないが、きっとそのなかの一枚なのだ、と私は確信する。冒頭の奇妙な感じのシーンは、この写真を受け取るシーンの伏線なのだ。彼女には、もう写真しかない。記憶はもちろんあるが、記憶の証のようなものは写真しかない。家族は、その写真の中に生きている。この悲しみ、そして喜び(というと、変かもしれないが)。写真は、アイダにとっては過去といまとをつなぐ「通訳」のようなものである、とも思う。
映画は、そのあともつづいていくのだが、「写真」の存在を、ことばをつかわずにただ映像の質の変化だけで表現したこの構成に私は心底こころを揺さぶられてしまった。(途中に、家族の交友関係がわかる写真を廃棄するシーンもあって、最初のシーンと写真の引き渡しのシーンを強く結びつけるのだけれど。)「スレブレニツァの虐殺」では、きっと、アイダの持っている写真さえも残されていない犠牲者がいるのだ。戦争は、人間の記憶さえも奪い去り、なかったことにしてしまう。そのことへの強い抗議が、この映画を貫いている。「一枚の残された写真」になろうとする映画である。個人に徹することで、歴史を忘れないという映画である。戦争は個人を破壊する野蛮な行為であると告発する映画である。
私は、結局、缶コーヒーは最初の一口だけで、残りを飲むのを忘れてしまった。吸引力の非常に強い映画である。
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