野沢啓『言語隠喩論』(3)(未來社、2021年7月30日発行)
「第二章 隠喩の暴力性」。
「詩は書かれる前から内容や方向が見えているということは原則的にありえない」と野沢は書く。私は、ここで、もうつまずいてしまう。それは詩だけのこと? たとえば、私はここで野沢の本の感想を書いているが、書くにあたってはっきりしていることは、野沢の書いていることばを出発点にして思ったことを書くというだけのことであって、内容も方向も見えていない。私だけではないと思う。たとえば私の大好きな森鴎外の「渋江抽斎」。読んでいて一番びっくりするのは、主人公の渋江抽斎が途中で死んでしまう。半分くらいのことろだったとおもう。えっ、これ何? 主人公が死んでしまったら、もう何も起きない。あと半分は何を書く? たぶん鴎外にも、そのことはわからなかった。わからないから、死んだ後も、それまで考えてきた渋江抽斎が周辺の人の中でどう生きているかを書いてみようと思ったのだと思う。詩に限らず、哲学のことばも、どこまで行ったら「終わり」なのか、それをわかって書いている人はいないだろう。どうしても書いたこと以上のことが世界に存在しているように思える。だから書き続ける。ことばの運動とはそういうものだろうと思う。
ハイデッガーのことば「ひとは言語を実存論的・存在論的にもちいることによって語る人間としての立場にたつことができる」は、何も「詩人」のことを言っているわけではないだろう。「人間一般」のこと、言いなおせばハイデガー自身のことを言っているにすぎないと思う。
野沢は「詩作的な語り」ということばに注目して〈情状性〉というものは「〈音声の抑揚や転調〉〈語り方のテンポ〉〈発音の仕方〉といったものに該当する。これは〈「詩作的な」語り〉がもつひとつの指標とも言えるものである」と書いている。でも、〈音声の抑揚や転調〉〈語り方のテンポ〉〈発音の仕方〉は選挙演説でも工夫されるし、愛の告白(結婚の申し込み)でも、それなりに工夫されるだろう。詩だけの問題ではないと思う。
「ことばのあるところにのみ世界がある」というの詩の問題だけではなく、日常のことばでも同じだろう。散文でも同じだろう。さらにいえば、たとえば「数学」や「物理」でも同じだろう。「数学、物理のあるところにのみ世界がある」と数学者や物理学者は考えるだろう。いいなおせば、それは「世界は数学、物理がなければ完全にとらえられない」ということでもある。
「思索において、存在がことばになってくる、ということのうちに存している。ことばは存在の家である」とは詩だけの問題ではない。そして「思索」というのは、何も「形而上学」と呼ばれる抽象的な(?)ことがらだけではない。「今夜のおかずは何にしようか」「カレーは食べたくないなあ」もまた「思索」のひとつであり、それを「ことば」にするとき、そのことばといっしょに、そのことばを発した人間がいる。ことばのなかに、その人がいる。ハイデガーが語っているのは、特別な人間と特別なことばの問題ではなく、どこにでもいる人間とどこにでも語られていることばの関係としか、私には思えない。普通の人、普通のことばに適用できないことなら、それは「哲学」ではないだろう。「思想」ではないだろうと思う。
ことば、とくに詩人のことば(そして詩人)を「特権階級」のようにしてとらえる野沢のことばの運動に、私は、とても疑問を感じる。
野沢はヴィトゲンシュタインも引用している。私はハイデガーもヴィトゲンシュタインも読んだことはないが(野沢の引用しているものを読んでいるだけだが)、どうも納得がいかない。
「わたしくしの言語の限界は、わたくしの世界の限界を意味する」ということばは、私が日々感じていることとまったく重なる。私は「誤読」しているのかもしれないが、それは「菅の言語の限界は、菅の世界の限界を意味する」という具合にも転用できる。特別かわった「哲学」ではなく、だれにでも当てはまることを言っているにしかすぎない。誰にでも当てはまる定義(普遍的定義)だから「哲学」なのだ。
野沢は「わたしくしの言語の限界は、わたくしの世界の限界である、というヴィトゲンシュタインの命題は、詩人の発動することばにかんして言えば、ことばによる世界への果てしなき挑戦を呼びかけるもの」と書いているが、「詩人」に限定する必要はないと思う。ソクラテスの対話編は、みんなそういう意識でことばが動いていないだろうか。ソクラテスは自分のつかっていることばしか知らない。わからないこと(わからない世界)がある。だから、それをことばにしたい。ことばにすることによって世界を広げたい。だれか、「正しいことば」を教えて、と問いかけ続けている。それはソクラテスの挑戦ではなかったのか。
ソクラテスがよく口にする「靴職人」とか「馬を飼育する人」は「暗喩」ではないのか、というのが私の素朴な疑問である。「靴職人」とか「馬を飼育する人」とかを持ち出すことのなかには、大変な「暴力性」がある。なぜ「正義」とか何とかについて語るとき「靴職人」「馬を飼育する人」から考え始めなければならないのか。当時のアテナイ市民、権力者を困惑させ、起こらせたのは、そこに思いもしなかった(自分よりも身分の低い?人間の行為、行動から考え始めなければならないという「暴力性」が潜んでいたからだろう。その「暴力性」とは、「私が否定されてしまうかもしれない」という恐怖を呼び覚ます力である。それは、ソクラテスのことばにも、安倍の演説にヤジを飛ばす市民のことばにもある。比喩だけとはかぎらならない。詩を一般化し、それを「暗喩」と結びつけて、詩の特権、暗喩の特権を語ることは、私には納得できない。読み進むに従って、なぜ「暗喩」(暗喩による詩)を絶対視するのだろうという疑問が大きくなる。
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