野沢啓『言語隠喩論』(2)(未來社、2021年7月30日発行)
「第一章 世界という隠喩」。「詩のことばはどこから始まるか」と書き出されている。「原始的人間が最初にことばらしきものを発声する機序がなにかしら或る必然的な契機によって動機づけられている」ということばが、それに続いている。私はこの論理に疑問を感じている。だから「詩がもともともっとも直接的なことばとして世界に対峙するかたちで発生した」ということも信じることができない。野沢は「詩の原理とは、本来的にことばがことばの力のみによってまったく新しい世界を創出することにあるのであって、なにか散文的な世界が先行して、それを詩のことばが言い換えてゆくというようなものでは絶対にありえない」とも書くが、これにも疑問を感じる。「散文文学」に先立って「詩(韻文文学?)」が先行するというのは理解できるが、詩が散文に先立つとは、私には考えられない。日常的に語られることばがあって、そのあとに詩が生まれてくる、というのが私の体験である。私のことばの記憶は、まず日常会話の「散文」だった。その記憶から、私は自由になれない。
野沢は「原始的人間」のあと「魔術」ということばを持ち出している。「巫女」も持ち出している。「至高の言語たる神のことば」という表現もある。私は魔術も神も見たことがないので、そういうものが「ことば」を持っているかどうかもわからない。そして、それが「散文」に先立つとも思えない。普通に会話する「散文」があって、そのあと「散文」(日常会話)と違うことばがあらわれたとき、人は驚き、それを「魔術/神」と呼んだり「巫女」と呼んだりするのはわかるが、「巫女」や「神/魔術」のことばが「詩」として最初に存在するとは、どうしても思えない。「巫女」のことばに驚くのは、それが今まで聞いたことばと違っているからであって、それは「初めて聞いたことば」だからではないと思う。今まで違っているから「初めて聞いた」という印象は生まれるが、それは「印象」であって「事実」とは違うだろう。
野沢は、西郷信綱の「詩は時代の経験や感情を静謐のなかに収斂した一の燃える小宇宙、すなわち精神的舞踏にも似た一の完成した祝祭であろうと欲する」ということばを引いているが、それは「祝祭」ということばが象徴しているように、日常ではない。「祝祭」意識するとき、それ以前に「日常」がある。「日常」が先行してあって、そのあとに「祝祭」がある。同じように「散文(日常のことば)」があって「詩」がある。「散文文学(日常のことばを使った文学)」と「詩文学」の問題と、「散文」と「詩」の関係が明確に意識されていないと思う。
野沢の書いていることは、あくまでも「散文文学」と「詩文学」との関係についてなら適用できても、「散文」と「詩」との関係には当てはまらないと私は考えている。
野沢は「散文」のなかから「哲学のことば」を選び出し、それと「詩のことば」を比較するが、この「哲学のことば」というのも私からみると「日常のことば(散文)」とはかなり違う。日常会話ではなくて、日常をはみ出した部分のことを語りたくて生み出されたのが「哲学のことば」だと思う。ソクラテス(プラトン?)はふつうの人が話すことばで対話しているが、その「文体」はふつうとは違う。だから、若者をかどわかすと批判され、死刑になってしまった。「哲学のことば」も「散文」というよりも「散文文学」なのだ。「文学」になることで、「日常」から孤立し、無縁になる。「孤立無援」ということばが42ページに出てくるが、それが「文学」というものだろう。
野沢はふたたびヴィーコのことばを引用しながら、「クリティカ(クリティック)」について「順序としてものがつくられ、つぎにそれを批判的に検討し判断する作業がなされるべきである」と書いている。この文章の「つぎにそれを批判的に検討し判断する」というのが「詩のことば」であり「哲学のことば」なのではないのか。まず「日常的散文」がなければ、「批判」は意味を持たない。「日常的散文」より先に、突然「詩のことば」「哲学のことば」が動き出すわけではないだろうと私は考える。
野沢はまた「トピカの神髄は〈真なるものをつかみ取る術〉である」とも書いているが、その「真なるものをつかみ取る術」は「魔術」ではないだろう。「神がかり(巫女)」でもないだろう。野沢がつかっていることばでいえば「批判」検討し判断する方法だろう。「日常のことば」のつかい方をそのまま受け入れるのではなく、もっと適切なつかい方はないか、粘り強い精神で点検していく力が必要だと思う。
野沢は「詩は制作である」という項のなかで、三木清のことばを引いている。「作ることは単に意識の内部に於いて起こり得ることではなく、作るために我々は身体を必要とし、外部の存在に働きかけて、我々の外部に作品が出来上がる」。これは、私はその通りだと思う。「外部の存在」を「日常の散文」と置き換えてみると、三木の言っていることが私にはとてもよく納得できる。「外部の、日常のことば」に働きかけて、肉体の動きを参考にしながらことばを動かす。肉体でできる動き(運動)が、動き(運動)の比喩として働き、それをことをことばにしていく。そのとき、そのことばは「日常のことば」とは違ったかたちで姿をあらわす。それが「哲学のことば」「詩のことば」だ。「運動」のことばを比喩として納得できるとき、それを「真」と判断し、「運動」として不完全ならば「偽」であると判断する。プラトンがよくやっている方法、「それではその続きをほかのことば(比喩/例)で追いかけてみよう」ということだ。「ことばで追いかける」は、実は「肉体で追いかける」である。「肉体」そのものが動くわけではないが、「運動」というのはどこかでかならず肉体を刺戟してくる。その刺戟を感じながら追いかける。
この三木のことばから、野沢は市川浩(私は読んだことがない)の「身分け」、さらに丸山圭三郎(私は読んだことがない)の「言分け」へと進み、ふたたび三木清を持ち出している。市川、丸山を持ち出さなくても、「作るために我々は身体を必要とし」ということばを手がかりにすれば、その肉体を動かすこと(身分け)が、日常のことばに働きかけ、ことばの分節を促す(言分け)になると思うのだが、どうだろう。
野沢はまた、こう書いている。「日常生活の時空間から離脱してことばの世界に入るとき、詩人は自分をとりかこむ世界というものが巨大な空虚であることをいやおうなく認識させられる」。うーん。わけがわからない。「世界」に対する認識の仕方が私と野沢では違いすぎるのだろう。私の感覚では「日常生活の時空間から離脱してことばの世界に入るとき、詩人は自分をとりかこむ世界というものが巨大な新しい充実にかわったことを認識させられる(実感する)」なんだけれどなあ。わざわざ新しいことばの世界に入ったのに、捨て去った(破壊した)世界のことなんか気にしないけれどなあ。
この感じは、安藤元雄の「からす」について野沢が書いていることへの違和感にもつながる。野沢はからすが動かない理由を「みずからが動いてしまってはこの世界は崩壊してしまうこと、〈飛び立ったが最後、おれの体は散らばって/嘴だの目玉だの何枚もの羽根だの/その羽根の軸だのということになる〉ということを知っているからである」と書いている。「この世界」を野沢は、たぶん、「日常生活の時空間(からすの外部世界)」ととらえているのだと思う。私はそうは読まない。実際に飛び立ったら「肉体」を動かすしかない。あるときは嘴に、ある時は目玉に、あるときは羽根に「肉体」の動きの重点がうつっていく。動きは「散らばる」。そして、その「散らばる」は新しい充実なのである。からすは、それを知っている。知っているが、それを拒否している。「肉体」の興奮がつくりだす新しい「世界」を拒否し、いままでつかみ取ってきた「世界」を見ている。「身分け」「言分け」ということばをつかって言えば、新しく「身分け=言分け」するのではなく、すでに「身分け=言分け」してきた「世界」を再確認し、その「言分け」を強固にしようとしている。「言分け」を定着させようとしている。保守的なのである。
野沢のつかってきたことばでいえば、ここには「魔術」「巫女」が入り込む余地はない。「神がかり」「原始」とは違った「批判」の言語が動いているのだと思う。