詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野沢啓『言語隠喩論』(5)

2021-09-08 17:18:02 | 詩集

野沢啓『言語隠喩論』(5)(未來社、2021年7月30日発行)

 「第四章 詩を書くことの主体的選択」。
 私は同じ疑問を何度でも書く。
 野沢は「《言語の具体的実践》という問題意識こそが、詩を書くという言語実践の立場から言語の創造力を問おうとするわが言語暗喩論にとっての本質的な問題である」と書いたあと、「言語実践」と「主体的選択」について、まずエミール・ヴァンヴェニストのことばを引用する。「話し手がみずから〈主体〉として発言できるのは、わたしがこの話し手を指名する言述の審級においてほかならない。したがって主体性の根拠は言語の実践のうちにあるということは文字通りほんとうである」。そのうえで、こう言いなおす。
 「詩を書くという主体的選択をするということは、わたしという主体を言語に預け、あたかもその言語を書きつづけていく書き手という〈わたし〉をわたしが再設定するという以外のものではない」
  私の疑問は単純である。ヴァンヴェニスト(私は、やはり、読んでいない。名前を聞くのも初めてである)は、詩について語っているのか。暗喩について語っているのか。野沢の引用している文章を読むかぎりでは、ヴァンヴェニストは「わたし」という存在と「ことば」との関係を言っているのはたしかだが、その「ことば」は詩に限定されていない。詩であろうが、散文文学であろうが、日常会話であろうが「わたしという主体の根拠は発話する(発言する)という行為(運動、と私は言いなおす)にある」と言っている。これを私なりに言いなおすと「ことばを発するわたしの、そのことばを発するという主体的な行為こそがわたしなのだ」になる。「私はことばを発する、ゆえに私は存在する」と要約することもできる。何も詩に限定されない。
 野沢は「詩を書くという主体的選択をする」と書いているが、「詩を書く」のかわりに「ことばを発する(話し手、発言、ということばをヴァンヴェニストはつかっている)」と言いなおせば、
 「ことばを発するという主体的選択をするということは、わたしという主体を言語に預け、あたかもその言語を発しつづけていく話し手という〈わたし〉をわたしが再設定するという以外のものではない」
 となる。
 なぜ「ことばを発する」ではなく「詩を書く」と野沢はヴァンヴェニストのことばを言いなおしたのか。ヴァンヴェニストが「詩を書く」ということを問題にしているのならわかるが、「詩を書く」ということ限定して発言していないのだとしたら、この書き換えは、いわゆる「我田引水」にならないか。
 たぶん、こういうことは野沢は意識している。だからこそ野沢は詩人・入沢康夫のことばを引用しながら、「主体」の問題をこう言いなおしている。ヴァンヴェニストの書いていることは「詩」に展開できると主張する。
 「詩を書くとき、詩の書き手はこのわたしではなく、わたしによって指名された書き手が詩のことばを書くのである。わたしであってわたしではない者こそが詩人であり、書くことの審級とはランボーの言う〈わたしとはひとりの他者である〉という位相にほかならない」
 「主体」は「ひとりの他者」と言いなおされている。でも、これは「詩の書き手」に限定されないだろう、と私は思う。散文も同じだと思う。そして「書き手」にも限定されないと思う。「読み手」もまた「ひとりの他者」として「ことば」を読む。だからこそ、私たちは「殺人者」にさえ共感してしまう。魯迅があるとき芝居を見た。その芝居では悪人が処刑される。そして処刑されるとき「今度生まれてきたらこんな失敗はしない。もっと上手くやってやる」というようなことを言う。それを聞いて興奮した、というようなことを書いている。悪人に共感するということは、「現実」の問題としてあってはならない。けれど、芝居を見ているとき「芝居を見るというもうひとりの他者」になって、現実の法律の問題、倫理の問題をはなれて「感情」も「理性」も動いてしまう。人間の中には、どんなときでも「もうひとりの他者」がいて、それは「主体的」に動くのである。詩を書くときだけではない。
 なぜ、詩に限定しているのか、詩を書くことに限定して「暗喩」の問題を語るのか。詩の「特権」であるように語るのか、その疑問を私は捨てることができない。

 この第四章で野沢は『発熱装置』(思潮社)から「15」を引用し、「自己分析ないし自己解説」をしている。そして、こう書いている。「明治の近代から現代までを包括するひとつの世界を構築してみたわけである。わたしとしてはこの作品全体が部分的に散文脈を織り込んだけっこう大がかりな暗喩的世界だと思っている」。
 どのことばが「暗喩」か。そういうことを野沢は問題にしていないことが、この書き方からわかる。詩というものを「暗喩的世界」ととらえ、それが実現されているとき、野沢はその作品を詩として認識するということだろう。
 この「論理」は論理として理解はできるが、私はやはり疑問を持つ。野沢の文章を読むと「散文文学」と「散文」の区別がよくわからない。同じように「暗喩的世界」と「暗喩」の区別がよくわからない。
 「暗喩」ではなく「比喩」ということばをつかっているアリストテレスの、次の文章を野沢は引用する。「重要なのは、比喩をつくる才能をもつことである。これだけは、他人から学ぶことができないものであり、生来の能力を示すしるしにほかならない。なぜなら、すぐれた比喩をつくることは、類似を見てとることであるから」。そして、この文章に対して「暗喩(比喩)についてポイエーシス的立場からみても基本中の基本の定義である」と書く。
 そうであるなら。
 まず「自己分析ないし自己解説」では、どのことばが「暗喩(比喩)」なのか、それを明示してほしいと思う。基本の基本を脇においておいて「作品全体」が「比喩的世界」というのでは、個別のことばが見えてこない。
 アリストテレスは、また野沢が引用している文章によれば「比喩は、なによりも特に、明瞭さと快さと斬新さを文章に与えるもの」と定義している。アリストテレスは「文章」ということばをつかっている。「詩」ということばではない。なぜ、それを引用した上で「他人から学ぶことのできない比喩(暗喩)の感覚、比喩的発想、世界を文字通り(字義通り)ではなく比喩の目で見ることが詩人であることの初期条件である」と展開するのか。アリストテレスのことばを踏まえるならば「他人から学ぶことのできない比喩(暗喩)の感覚、比喩的発想、世界を文字通り(字義通り)ではなく比喩の目で見ることが文章家(ことばをつかう人)であることの初期条件である」になるのではないのか。私には、野沢はいろいろな哲学者が語ったこと、必ずしも詩人や詩について限定して書かれたものではないものを、「詩人」に適用し、論理を展開しているように見える。なぜ、原典の論理を逸脱する?
 それはたぶん野沢が哲学者のことばを「詩」として読んでいるからだろう。「暗喩」として読んでいるからだろう。つまり詩との「類似を見てと」り、「類似」をバネにして、「暗喩的世界」としての「詩論」を展開しているからだろう。あるいは野沢の論と、野沢の引用する哲学者のことばは、たがいに「暗喩」になっている、ということだろう。
 野沢は、こうも書いている。(文章に含まれる注釈を省略する。)「リチャーズの暗喩論を擁護したマックス・ブラックは《暗喩は予め存在する類似性を定式化するというより、類似性を創り出す》と評価した。この力こそが暗喩の発見的創造力なのである」。私はここでも思うのである。リチャーズ、マックス・ブラックは「詩の暗喩」について語っているのか。それともことばが必然的にかかえこむ「暗喩」の問題を語っているのか。繰り返しになるが、野沢は、哲学者の論理を「詩論のための暗喩」として「創造的に発見」している。そして、語っている。

 野沢の本のタイトルは『言語暗喩論』である。ここには「詩」ということばはない。詩に限定せずに「暗喩」について語ったものであるなら、私は野沢の書いていることに教えられることが多い。しかし、その教えられたものを詩に限定するとき、私は疑問を感じる。
 詩を書くから詩にこだわる、というかもしれない。しかし野沢は評論も書いている。野沢は評論を書くときは「暗喩」をつかわないのか。ある論が「暗喩的世界」を浮かび上がらせることはないのか。

 


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濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(★)

2021-09-08 09:46:40 | 映画

濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(★)(2021年9月6日、中洲大洋、スクリーン2)

監督 濱口竜介 出演 西島秀俊、三浦透子

 毎年カンヌ映画祭に行っているアメリカ人が「とてもおもしろかった」と激賞したので見に行ったのだが。
 私は村上春樹の小説が大嫌いなので、やっぱり、この映画はダメ。
 ぞっとした。
 何がぞっとしたかというと、冒頭の、女が夢か何か、物語を語る声にぞっとした。あえて感情を殺したような、たんたんとした口調。聞いた途端に、あ、この映画は「声」を描いているのか、と直感してしまう。その直感に、ぞっとしたのである。
 村上春樹の小説にぞっとしてしまうのは、それが「予想通り」だからである。「予想」を裏切るようには進まない。何か、全然知らないものが突然あらわれて物語を変えていくという瞬間、作者(村上)がそれにつられて変わってしまうという瞬間がない。
 いちばん「あざとい」と感じたのは、映画の中に出てくる「ワーニャ伯父さん」。これを役者が多国語で演じる。そのリハーサルの過程で「ことば/声」の問題が語られる。つまり、説明される。感情を込めずに、ただ、正確に。その訓練をしたあと、「正確なことば」が「演技」のなかで「感情の共有」を生む瞬間がある。それを「劇場」に来ている観客にも共有させる。それが芝居だ。その通りだと思うが……。だからこそ、芝居は「一声、二顔、三姿」というのだとも思うが。これを、そのままことばで説明してしまってはねえ。「手話」をもってきて、それを強調するのはねえ。
 私は、「ワーニャ伯父さん」でやっていことをこそ映画でやればよかったのだと思った。つまり、映画を多国語で演じる。逆に「ワーニャ伯父さん」を日本語だけで演じる。そうすると声の問題がもっと切実につたわる。声の中にはわかるものとわからないものがある。それを手さぐりで、あるいは体当たりでというべきか、探りながら自分を開いていく。わからないものにであったとき、人間は、たいてい自分に閉じこもる。西島秀俊は妻の浮気を目撃して(これも声がきっかけ)、自分に閉じこもる。妻が急死したあとも自分に閉じこもる。そこから、どうやってこころを開いていくか。何が西島のこころを開かせるか。それが「ことばの意味」ではなく、「ことばを語る声」である、というのなら、この部分こそ「声」を頼りにするしかない「多国語(何を言っている、意味がかわからない)ことばで映画にして見せなければ、映画にする意味がない。
 映画の中で起きていることを「ワーニャ伯父さん」の「日本語」が手がかりになって、観客の中で広がる。そういうふうにしないと。
 まるで、とてもよくできた村上春樹の「解説本」を読んでいるような映画だった。
 役者たちも、やっていることを完全に理解してやっている。この映画は「声」がテーマだとわかってやっている。それがまた、気持ち悪い。えっ、この役者、こんな人間だったのか、と映画を忘れて引きつけられる瞬間がない。こういう「完璧さ」というのは、私は大嫌い。

 


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