文月悠光「波音はどこから」(「現代詩手帖」2021年08月号)
文月悠光「波音はどこから」について書いてみようと思ったのは、野沢啓『言語隠喩論』を読んでいるからである。野沢は「隠喩」について書いている。野沢の「隠喩特権主義/詩至上主義」のような立場から文月の詩はどう見えるのか。
推測してもしようがない。
私は私の読み方(誤読の仕方)を書く。文月が「子宮頸がん」と「乳がん」の検査を受けたときのことを書いている。
その二連目。
子宮頸がん検査を受けに行った二年前、検査室に鎮座する椅子を見て冷や汗が出た。あまりに堂々と置かれていたので、有無を言わさぬ雰囲気に飲まれて「これが初めて」とは言えなかった。正直座ること自体が一種の拷問に思えた。この椅子が前時代的なのか、検査の場でこれを恥じる自分の感覚が前時代的なのか。混乱しながら、椅子が要請する姿勢に身をあずけた。
私は「鎮座する」ということばにびっくりした。読んだことはある。しかし、私は使ったことはない。どうしてこんな古くさいことばをつかったのだろうか。そう思っていると、この「鎮座する」は「堂々と置かれていた」ということばにかわる。「鎮座する」が「堂々と置かれていた」の比喩なのか、「堂々と置かれていた」が「鎮座する」の説明、あるいは比喩になっているかわからないが、それは、ことばが違うけれど「同じこと」を言っていると私は感じた。ことばの「呼応」を感じた。
人間は、大事なことは繰り返す。「同じこと」を何度も言う。
で、この「鎮座する」は「堂々」だけではない。「堂々」は「有無を言わさぬ(雰囲気)」になる。それは「拷問」につながる。そしてそのあと「前時代的」ということばがでてくる。これらのことばは互いを補足しながら「検査室の椅子」を立体的に描き出す。
だから(?)私は、「鎮座する」「堂々と置かれていた」「有無を言わさぬ」「拷問」「前時代的」というような表現は、すべて「椅子」を修飾しながら、ひとつの「比喩」になっていると考える。(だから、ということばのあとに「?」をつけたのは、こういう書き方が果して論理的かどうか私にはよくわからないからである。私には「論理」にみえるから、論理のためのことば「だから」をつかったが、他人から見れば論理ではないかもしれない。とくに野沢から見れば。)そして、こういう独特なことばの「連鎖」を私は、「詩」と感じているのである。言ってみれば、ことばの「連鎖/呼応」のなかに「隠喩」に通じるものを感じているのである。
この不思議な連鎖の中で、文月は「混乱し」、椅子が「要請する」姿勢に身をあずけた。ここもおもしろいなあ。椅子は人間ではないから何かを「要請する」ということはない。しかし、文月は「要請された」と感じている。ここには「動詞」の「隠喩」があるのだ。「比喩」というと、どうしても「名詞」を思い浮かべてしまうが、私は「動詞」も比喩として動いていると感じるし、「比喩としての動詞」はとても重要だと感じている。「鎮座する」というもの「比喩」なのだ。椅子はただそこにあるだけ。でもそれを「鎮座する(鎮座している)」と感じるとき、そしてそれをことばにするとき、「客観的」ではない心情が動いている。
「検査の場で恥じる自分の感覚が前時代的なのか」という自問は「鎮座する」ということば、その、私が古くさいと呼んだものと、しっかり結びついている。ここには「鎮座する」と書いてしまったことの、散文では説明しにくい何かが動いている。つまり、詩が動いている。
この「心情」は、こう動いていく。
途端に、ヒヤリと冷たい金属をねじ込まれる。予告のない痛みと異物の侵入を、身体は全力で拒み、押し返した。「力を抜いてください」という指示が機械的に連呼された。患者番号と名前を照合され、扉から扉へ検査は滞りなく進む。疼く身体で歩いた、総合病院の長い廊下。子宮の出口はどこですか。痛みを無視されること。それは私の性別とどう関係しているの。
ここにも「鎮座する」からはじまったことばの呼応がある。「拷問」が予想を裏切らずにはじまる。まるで「拷問」を予想してしまったために、拷問がはじまったみたいだ。そういう「検査」の果てに、「痛みを無視されること」という発見がある。
ああ、いいなあ。読んでよかったなあ、と感じる。私のことばでは絶対に発見できないものが、文月のことばで発見されている。その発見の現場に立ち会う。これが詩を読む喜びだ。
この詩は「意識が海ならば、身体は舟。」という一行ではじまる。ちょっと気取った(?)、いかにも「詩」という感じ。「海」も「舟」も、それこそ「隠喩」。これがマンモグラフィの検査の過程で「雪を被った山脈」という「比喩」を突然呼び寄せる。そして、
私は舟からは見えないはずの、
海の底を初めて覗いた。
という具合に大転換する。この超スピードの大転換に私は「うーん」と声を上げて、二度三度と、繰り返し読んでしまう。このことをこそ書かないと文月のこの詩を紹介したことにはならないのかもしれないが、この部分の美しさは、ちょっと他人には語りたくない。自分の「秘密」にして隠しておきたいという気持ちもあるので、これ以上書かない。
先に引用した「それは私の性別とどう関係しているの。」の答えを文月はここでつかみとっている。発見している、とだけ書いておく。
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