詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

文月悠光「波音はどこから」

2021-09-04 18:39:54 | 詩(雑誌・同人誌)

文月悠光「波音はどこから」(「現代詩手帖」2021年08月号)

 文月悠光「波音はどこから」について書いてみようと思ったのは、野沢啓『言語隠喩論』を読んでいるからである。野沢は「隠喩」について書いている。野沢の「隠喩特権主義/詩至上主義」のような立場から文月の詩はどう見えるのか。
 推測してもしようがない。
 私は私の読み方(誤読の仕方)を書く。文月が「子宮頸がん」と「乳がん」の検査を受けたときのことを書いている。
 その二連目。

子宮頸がん検査を受けに行った二年前、検査室に鎮座する椅子を見て冷や汗が出た。あまりに堂々と置かれていたので、有無を言わさぬ雰囲気に飲まれて「これが初めて」とは言えなかった。正直座ること自体が一種の拷問に思えた。この椅子が前時代的なのか、検査の場でこれを恥じる自分の感覚が前時代的なのか。混乱しながら、椅子が要請する姿勢に身をあずけた。


 私は「鎮座する」ということばにびっくりした。読んだことはある。しかし、私は使ったことはない。どうしてこんな古くさいことばをつかったのだろうか。そう思っていると、この「鎮座する」は「堂々と置かれていた」ということばにかわる。「鎮座する」が「堂々と置かれていた」の比喩なのか、「堂々と置かれていた」が「鎮座する」の説明、あるいは比喩になっているかわからないが、それは、ことばが違うけれど「同じこと」を言っていると私は感じた。ことばの「呼応」を感じた。
 人間は、大事なことは繰り返す。「同じこと」を何度も言う。
 で、この「鎮座する」は「堂々」だけではない。「堂々」は「有無を言わさぬ(雰囲気)」になる。それは「拷問」につながる。そしてそのあと「前時代的」ということばがでてくる。これらのことばは互いを補足しながら「検査室の椅子」を立体的に描き出す。
 だから(?)私は、「鎮座する」「堂々と置かれていた」「有無を言わさぬ」「拷問」「前時代的」というような表現は、すべて「椅子」を修飾しながら、ひとつの「比喩」になっていると考える。(だから、ということばのあとに「?」をつけたのは、こういう書き方が果して論理的かどうか私にはよくわからないからである。私には「論理」にみえるから、論理のためのことば「だから」をつかったが、他人から見れば論理ではないかもしれない。とくに野沢から見れば。)そして、こういう独特なことばの「連鎖」を私は、「詩」と感じているのである。言ってみれば、ことばの「連鎖/呼応」のなかに「隠喩」に通じるものを感じているのである。
 この不思議な連鎖の中で、文月は「混乱し」、椅子が「要請する」姿勢に身をあずけた。ここもおもしろいなあ。椅子は人間ではないから何かを「要請する」ということはない。しかし、文月は「要請された」と感じている。ここには「動詞」の「隠喩」があるのだ。「比喩」というと、どうしても「名詞」を思い浮かべてしまうが、私は「動詞」も比喩として動いていると感じるし、「比喩としての動詞」はとても重要だと感じている。「鎮座する」というもの「比喩」なのだ。椅子はただそこにあるだけ。でもそれを「鎮座する(鎮座している)」と感じるとき、そしてそれをことばにするとき、「客観的」ではない心情が動いている。
 「検査の場で恥じる自分の感覚が前時代的なのか」という自問は「鎮座する」ということば、その、私が古くさいと呼んだものと、しっかり結びついている。ここには「鎮座する」と書いてしまったことの、散文では説明しにくい何かが動いている。つまり、詩が動いている。
 この「心情」は、こう動いていく。

途端に、ヒヤリと冷たい金属をねじ込まれる。予告のない痛みと異物の侵入を、身体は全力で拒み、押し返した。「力を抜いてください」という指示が機械的に連呼された。患者番号と名前を照合され、扉から扉へ検査は滞りなく進む。疼く身体で歩いた、総合病院の長い廊下。子宮の出口はどこですか。痛みを無視されること。それは私の性別とどう関係しているの。


 ここにも「鎮座する」からはじまったことばの呼応がある。「拷問」が予想を裏切らずにはじまる。まるで「拷問」を予想してしまったために、拷問がはじまったみたいだ。そういう「検査」の果てに、「痛みを無視されること」という発見がある。
 ああ、いいなあ。読んでよかったなあ、と感じる。私のことばでは絶対に発見できないものが、文月のことばで発見されている。その発見の現場に立ち会う。これが詩を読む喜びだ。

 この詩は「意識が海ならば、身体は舟。」という一行ではじまる。ちょっと気取った(?)、いかにも「詩」という感じ。「海」も「舟」も、それこそ「隠喩」。これがマンモグラフィの検査の過程で「雪を被った山脈」という「比喩」を突然呼び寄せる。そして、

  私は舟からは見えないはずの、
  海の底を初めて覗いた。

 という具合に大転換する。この超スピードの大転換に私は「うーん」と声を上げて、二度三度と、繰り返し読んでしまう。このことをこそ書かないと文月のこの詩を紹介したことにはならないのかもしれないが、この部分の美しさは、ちょっと他人には語りたくない。自分の「秘密」にして隠しておきたいという気持ちもあるので、これ以上書かない。
 先に引用した「それは私の性別とどう関係しているの。」の答えを文月はここでつかみとっている。発見している、とだけ書いておく。

 

 

 

 

 

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菅辞任の背後になにがあるか--オリンピックは中止すべきだった(35)

2021-09-04 09:32:38 | 考える日記

 9月4日の読売新聞(西部版・14版)の見出し。(番号は私がつけた)
↓↓↓↓
①菅首相退陣表明
②コロナ対応に批判
③後任 岸田・河野・石破氏軸か
④衆院選11月の公算
⑤総裁選不出馬
↑↑↑↑
②は退陣の理由。疑問は、なぜ、いまそれを理由にするかである。第5波はつづいているが、感染者数はいくぶん減り始めている。ふつうなら「感染者が減り始めている。政策の効果が出始めている」と言うところである。コロナ対策が批判を受けたことは確かだが、それが一番の理由とは考えられない。なぜ?
③は、だれが次の首相になるか、という読売新聞の「見立て」。
④は、首相以上に国の将来を決定する「衆院選」の日程予想。衆院議員の任期が10月21日とわかっているのに、そのまえに衆院選をしない? なぜ?
⑤は①の言い直し。安倍の退陣表明のときと同じで総裁選までは菅が首相であることを補足説明している。

 私は、見出しを見ながら、二つの「なぜ」を考えた。「なぜ」が浮かび上がるのは、見出しには書かれないことがあるからだ。
 記事を読んでみる。
↓↓↓↓
 菅首相(自民党総裁)は3日、退陣する意向を表明した。新型コロナウイルス対応への批判に加え、党内の求心力が低下し、党総裁選(17日告示・29日投開票)での再選は困難と判断した。
↑↑↑↑
 「党内の求心力が低下」と書いてある。これが一番の原因であって、「新型コロナウイルス対応への批判」は付け足しである。いままでだって批判され続けてきた。最近の批判が強まっているわけではない。東京五輪開催前の方が強かっただろう。
 最近のニュースでは、二階を幹事長から外す(更迭する/左遷する)、6日に党人事を発表するという予定だったはずだ。ところが後任の幹事長のなり手がいなかったのだ。だれに打診したか知らない。河野、石破に打診したのかもしれない。しかし、拒否されたのだろう。どうすることもできなくなって「もう、やめた」と放り出したのだ。(これは、安倍そっくりである。まさに、安倍政権を「継承」しているやり方だ。)
 このことについては、こう書いてある。
↓↓↓↓
首相は二階幹事長ら党執行部を刷新し、局面を打開したい考えだった。しかし、総裁選直前の異例の人事に党内から反発が噴出し、人選も難航した。衆院選を巡っても解散か、解散を伴わない「任期満了選挙」かについて判断が揺れ動き、「菅離れ」が加速した。こうした情勢を踏まえ、9月末の総裁任期での退陣を決断したとみられる。
↑↑↑↑
 「菅離れ」の加速。周りを「イエスマン」だけで固めているから「イエスマン」がいなくなればやっていけなくなる。菅は総裁選で敗れると予測した議員がどんどん菅から離れていく。「左遷」なんて、こわくない。もう菅には「左遷」するだけの力がない、とみんなが思い始めた。「人事」だけで政治をしてきた人間なので、人事の変化にも人一倍敏感なのだろう。「菅離れ」に恐怖をおぼえたのだろう。負けて退陣するくらいなら、退陣して「負けない」という方を選んだのだ。しかし、これは菅の勘違いだね。国民はみんな「菅は負けた」と思っている。
 では、だれに、負けたのか。
 これが「④衆院選11月の公算」の「なぜ」につながる。私は、こういうことには疎いから、衆議院の任期がわかっているのだから、「衆議院」に空白が生じないように任期以前に選挙をすればいいと思うが、そうしようとはしていない。少なくとも読売新聞は、そういうことを「提言」していない。自民党によりそう形で、選挙日程について、こういうことを書いている。(2面の記事。さすがにここまでべったりの「作文」を1面には掲載できなかったということか。)
↓↓↓↓
①衆院選の投開票日は、自民党総裁選後、臨時国会召集などを経て、11月上中旬の公算が大きくなった。衆院議員の任期満了日(10月21日)以降の衆院選は現行憲法下で初めてとなる。
②9月29日投開票の自民党総裁選で新総裁が選ばれると、10月上旬の臨時国会召集が見込まれる。首相指名選挙後、新内閣が発足する見通しだ。直後に衆院を解散しても選挙準備期間を考慮すれば、投開票は11月7日以降となる可能性が高い。10月31日投開票の可能性も残るが、日程に余裕はない。解散時期を遅らせれば、公職選挙法に基づき、投開票日を11月28日まで遅らせることができる。
③新首相が解散せず、任期満了に伴う衆院選に臨む可能性も残る。公職選挙法は、任期満了選挙の投開票日を「国会閉会翌日から24日~30日後」と定める。10月上旬に臨時国会を閉会すれば、10月31日投開票の可能性も残るが、代表質問に臨めば、11月7日投開票の公算が大きい。最も遅いのは10月21日の任期満了日に閉会した場合で、11月14日投開票となる。
↑↑↑↑
 ①に「公算が大きくなった」と書いてあるように、これは、あくまでも読売新聞の「見立て」。そして「公算が大きくなった」と書くことで、世論を「大きい公算」の方へ引っ張ろうとしている。
 ②「見込まれる」「見通し」「可能性が高い」と、あくまでも客観性を装っている。断定をさせることで「嘘を書いていない」と装っている。しかし、「日程に余裕はない」と書いた後、「11月28日まで遅らせることができる」と書いている。
 ここに、今回のニュースの「本音」がある。なぜ、菅がきのう退陣を発表したかのほんとうの理由がある。
 「できる」だけ、衆院選の日程を遅れさせたいのだ。衆院選が遅れれば遅れるほど自民党はいまの「逆風(不利な状況)」から抜け出すことが「できる」と考えている。
 「できる」がポイントなのだ。
 コロナ感染状況がどうなるかわからないが、いまの少しずつ減少している状況がつづけば11月下旬(約3か月ある)には「緊急事態宣言」が完全に解除「できている」かもしれない。もちろん第6波に襲われる危険性もあるが、終息に向かうことを期待しているのだろう。もし、コロナ感染の状況が改善したなら、「新首相誕生」の期待もあって、自民党の支持率は上がるだろう。自民党にとって有利な選挙戦が「できる」だろう。
 そういうことを狙っているのだ。
 私は、この記事の「できる」に笑いだしてしまったが、読売新聞の記事には、こういう「絶妙」なことばが頻繁にあらわれる。「できる」って、だれが考えている? 「できる」ってだれが判断した? おかしいでしょ?
 安倍が「だれか」の操り人形だったように、菅もまた「だれか」の操り人形なのだろう。その「だれか」の指示のようなものが働いている、と私は思うのである。
 だからこそ、菅は「コロナ対策に全力をあげる」と言った。しかし、首相であることをやめる人間が、任期期間中の一か月弱で何ができるだろうか。あいかわらず「ワクチン推進」と言うだけだろう。だから「コロナ対策に全力をあげる」というのは国民向けのメッセージではなく「だれか」に向けたメッセージなのだ。「コロナへの批判は引き受けるから、見捨てないで。次の衆院選に当選できるようにして」と言っているのだ。
 ③は、なんというか、「悪あがき」のような「予測」。
 「最も遅いのは10月21日の任期満了日に閉会した場合で、11月14日投開票となる」の「最も遅い」が傑作である。ここにも「できる」だけ「遅くしたい」という「欲望=本音」が見える。

 今回の突然の「菅辞任劇」は、衆院選をできるだけ遅くすることで自民党の議席減を最小限に抑えたいという「だれか」の作戦によるものである。読売新聞の2面の「予測作文」も「だれか」の指示を受けたもの(別なことばで言えばリークされた情報)だろう。衆院選の任期がわかっているのだから、それ以前に選挙を実施するためには(国会に空白を作らないためには)どうすべきか、という「提言」を読売新聞は書くこともできたのに、そうしていない。「できる」ことをせずに、与えられた「自民党に有利な情報」で世論をリードしようとしている。

 私は別に菅の応援をしようとしいわけではないが、こんなことにならないようにするためには、東京オリンピックは中止すべきだったのだ。東京オリンピックを中止して、コロナ対策にもっと真剣に取り組んでいれば、菅は「続投」できたのかもしれないのだ。
 いまさら「コロナ対策に全力」なんて言って、たとえ10月末までに(衆院選までに)コロナが終息したとしても、だれが菅の「手柄」と思うだろう。
 

 

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