Roberto Mira Fernandezを見たときの最初の印象は絵画的ということである。
どこが絵画的なのか。
写真でしか見たことがないから間違っているかもしれないが、作品を見るときの位置が固定されている印象がある。正面から見なくてはいけない。
横からはもちろん背後から見てもいけない。いけないということはないかもしれないが、たぶん横や背後から見られることを想定していない。これはRoberto Mira Fernandezが絵を描いていること、芝居をやっていることとも関係しているかもしれない。絵や芝居には「背後」から見るという習慣がない。作品も「正面」を向いて見る人と対面するのだ。
さらに、別の印象にも、絵画、芝居のイメージが入り込んでくる。
まず、絵画。
二つの作品は、どれも不思議なバランスを保っている。倒れそうで倒れない。まるで絵画なのだ。絵画は絶対に倒れない。逆さまにしてさえ倒れないのが、絵画の中に描かれた世界だ。不安定な形であるのに、その不安定を維持している。不安定であることが、Roberto Mira Fernandezにおいては安定なのだ。そして、私はその不安定に誘い込まれていく。
そのとき、芝居の印象が作品の背後からやってくる。
芝居では、役者は突然あらわれる。小説のように「背景」説明されない。役者は登場人物人物の「過去」を肉体で感じさせなければいけない。透明であってはいけないのだ。
Roberto Mira Fernandezの不思議な形は、「私には過去があります」と主張している。「過去があるから、こういう形をしているのです」と告げる。その過去に耐えてきて、いま、ここにあるから、それが不安定に見えても過去に耐えてきた時間がその不安定を逆に安定させる。
これはなんだろう。「過去」とはなんだろう。
まだわからない。
わからないからこそ、私はそれを見てみたいと思う。
*
存在が形になるまでには「過去」がある。
形になってしまった作品は「いま」の姿しか見せない。
何を経験してきたから、いまの姿になったのか、自ら語り、説明し、共感を強要したりはしない。
こうした作品の前では、鑑賞者は自分の過去と向き合わないといけない。
私はどうして私になったのか。
そう自問するとき、Roberto Mira Fernandezの彫刻は、この不安定なのに直立している形の背後にあるものを語り始めるだろう。
それまで私は自問する。
なぜ私はこの作品の前に誘われ、見つめ合っているか。
答えが見つかったとき、きっと作品を抱きしめたくなる。
そういう作品だ。
Hay un "pasado" antes de que una obra se convierta en una forma concreta.
La obra que ha ido tomando forma sólo muestra la apariencia del "ahora".
No habla de lo que ha experimentado el trabajo y cómo se ve ahora. Por supuesto, no fuerza la empatía.
Frente a estas obras, el espectador debe enfrentarse a su pasado.
¿Por qué me converto en yo? ¿Por qué me encuentro contigo?
Al preguntarse eso, la escultura de Roberto Mira Fernández comenzará a decir qué hay detrás de esta forma inestable pero erguida.
Hasta entonces me pregunto.
¿Por qué me invitan a mirar este trabajo?
Cuando encuentres la respuesta, seguramente querrás abrazar tu trabajo.
Es un gran trabajo.