詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

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自民党憲法改正草案再読(25)

2021-09-25 10:09:11 |  自民党改憲草案再読

(現行憲法)
第46条
 参議院議員の任期は、六年とし、三年ごとに議員の半数を改選する。
第47条
 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。(改正草案)
第46条(参議院議員の任期)
 参議院議員の任期は、六年とし、三年ごとに議員の半数を改選する。
第47条(選挙に関する事項)
 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律で定める。この場合においては、各選挙区は、人口を基本とし、行政区画、地勢等を総合的に勘案して定めなければならない。

 第46条は変更なし。
 第47条は、「法律」に対して一定の規定を与えている。「一票の格差」問題を配慮しての追加といえる。一票の格差は「人口を基本」としている。改正案は「人口を基本にする」と最初に書いてあるが、「行政区画、地勢等を総合的に勘案して定めなければならない」と言う。現行でも「行政区画」は勘案されていると思う。問題は「総合的に」ということばである。「総合的」とか菅が得意とした「俯瞰的」ということばは非常にあいまいである。どこまでを「総合的」と呼ぶか、ここには「定義」がない。「総合的」は「恣意的」と読み直すことが可能だし、実際、恣意的に操作するために「総合的」というあいまいなことばが挿入されたのだ。人口、行政区画、地勢は、そのときそのときで変更ができないが、「総合的」の「総合」はいつでも変更できる。
 こういうあいまいなことばは法律には不向きだし、憲法ではつかってはいけないことばだろう。
 昨年、日本学術会議の会員(議員?)任命拒否問題が起きたとき、菅は「総合的/俯瞰的」ということばをしきりにつかった。具体的に説明できないとき、権力は「総合的/俯瞰的」ということばをつかうのだ。それは「おまえらには、総合的/俯瞰的視野がない」という「独裁」の表明である。具体的に問題点を指摘できないとき(問題点に対処できないとき)、その人間を一般的には「無能」と呼ぶが、菅は自分の「無能」を棚に上げて、説明を拒否するために「総合的/俯瞰的」ということばをつかったのだ。

(現行憲法)
第48条
 何人も、同時に両議院の議員たることはできない。
第49条
 両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。
第50条
 両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。
第51条
 両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。
第52条
 国会の常会は、毎年一回これを召集する。
(改正草案)
第48条(両議院議員兼職の禁止)
 何人も、同時に両議院の議員となることはできない。
第49条(議員の歳費)
 両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。
第50条(議員の不逮捕特権)
 両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があるときは、会期中釈放しなければならない。
第51条(議員の免責特権)
 両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問われない。
第52条(通常国会)
1 通常国会は、毎年一回召集される。
2 通常国会の会期は、法律で定める。

 第48条から第51条までは、大きな変更はない。
 第52条は「召集する」が「召集される」になっている。能動から、受け身へ、文体が変更されている。これは「国会」が、国会自身で国会を召集するというは日本語として奇妙だからということかもしれないが、逆に考えてみるべきである。
 国会は誰かによって「召集される」ことで開かれるのではなく、かならず開かなければならないものなのである。「召集」は「名目」なのである。天皇の国事行為を定めた第7条「国会を召集する」とあるが、これはあくまでも「名目」であって、天皇はそれを拒むことも、天皇の発案でできるわけでもない。
 「国会の常会は、毎年一回これを召集する」というのは、いわば、憲法が「召集する」のである。つまり、憲法が「国会の常会は、毎年一回これを召集しなければならない」と言っているのだ。内閣総理大臣やその助言を受けた天皇が国会を「召集してはならない」、勝手に通常国会の開会を中止してはいけないという禁止条項なのだ。
 これは逆に言えば、内閣は勝手に国会を解散してはいけないということでもある。解散していいのは、内閣不信任案が可決されたとき、内閣信任案が否決されたときだけなのだ。日本の内閣は議院内閣制である。しかし、内閣にも主張があるだろうから、対立したときは、信を国民に問うことができる、というのが内閣に許されている。対立もしていないのに、勝手に「解散権」をふりまわしてはいけない。
 そういう意味が含まれているのに、それを「召集される」と書き直すと、意味が見えなくなる。それだけではなく、逆に「内閣が召集するのだから、内閣が解散できる」という意味に転用されてしまう。
 これは次の第53条と結びつけて読むといっそう明確になるが、その前に、追加されている第2項について。「通常国会の会期は、法律で定める」とわざわざ追加しているのはなぜだろう。これでは「国会」は「法律」よりも下位に属することにならないか。「国会」よりも「法律」が優先するのはおかしい。
 このことは、第50条を見ればわかる。国会議員は、国会開会中は基本的に逮捕されないし、逮捕されても議院の要求があれば釈放される。釈放しなければならない。国会、国会議員は「法律」に優先するのである。
 第47条にも「法律でこれを定める」と「法律」が出てきたが、それはあくまでも「選挙区」「投票の方法」であって、国会や国会議員ではない。「国会議員」を「法律」で選ぶことはできないのである。
 国会の会期は、国会が自ら決めることであって、「法律」の規定を受けない。改正草案がわざわざ「通常国会の会期は、法律で定める」と追加したのは、「法律の解釈」によって「会期」を変更する意図があるからだろう。
 
(現行憲法)
第53条
 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。
(改正草案)
第53条(臨時国会)
 内閣は、臨時国会の召集を決定することができる。いずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があったときは、要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない。

 現行憲法で「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる」と書いてあるのは、日本の国会が「通年国会」ではないからだ。国会開会中に何か国の安全を脅かすようなことが起きたら、どうしたってそれに対処するための「法律」の整備が必要になる。そのために国会を開かなければならない。「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる」は実質的には、「国会を開かなければならない」という義務規定である。内閣に「召集権」を認めている(内閣が勝手に、国会を開いたり開かなかったりしてはいけない」という内閣に対する「禁止事項」なのだ。
 それは、それにつづく「いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」という文言で説明されている。議院の要求があれば臨時国会を開かなければならないのだ。そしてその「要求基準」は「いづれかの議院の総議員の四分の一以上」である。過半数でも、三分の二でもない。しかも、衆議院、参議院のどちらかだけでも開かなければならない。国会議員には、それだけの権限が与えられている。国会の権限、国会議員の権限は、内閣の権限を上回るのである。これは、憲法が国民→国会→内閣、という順に展開されていることからもわかる。自民党は、これを逆転させて内閣→国会→国民という「支配体制」に変更しようとしている。「支配体制(独裁体制)」を隠蔽するために、天皇に「元首」という称号を与えようとしている。「独裁」と批判されたら、「元首は天皇です」と答えるつもりなのだろう。
 脱線した。
 改正草案は「要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない」ともっともらしく追加しているが、これはこの改正草案が2012年、自民党が野党だった時代につくられたものだからだろう。ほんとうに国会を優先させ「要求があった日から二十日以内に臨時国会が召集されなければならない」と考えているのだったら、森友学園問題以降の「臨時国会要求」にはきちんと応じるべきだ。
 改憲草案の「先取り実施」はいろいろあるが、この第53条は先取り実施されていない。不都合なときは知らん顔をする。憲法も法律も、自分の都合に合わせて「総合的」に判断し、運用するというのが自民党の姿勢なのである。

 いま、マスコミは自民党総裁選一色である。衆議院議員の任期満了が迫っているのに、自民党総裁選を優先させ、自民党の都合に合わせて、衆院選を衆院議員の任期切れ後に実施する。順序が逆である。衆院議員の選挙を優先させ、自民党の総裁選は日程を変更すればいいのである。衆院選の結果次第で自民党が野党になる可能性もある。自民党総裁が「首相」に選ばれない可能性もあるのだ。それを阻止するために、自民党は菅を退陣させ、総裁選を実施し、できるだけ「不人気」を挽回し、そのあとで総選挙を実施しようとしている。自民党敗北回避のための作戦に、マスコミが一致して協力している。
 「独裁」はここまで進んでいる。マスコミは「独裁」の手先になって動いている。
 野党もだらしがない。なぜ、自民党総裁選の日程を変更しろと要求しないのか。安倍から始まった「独裁」に野党もなれきってしまっている。

 

 

コメント
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