野沢啓『言語隠喩論』(9)(未來社、2021年7月30日発行)
「第八章 言語の生命は隠喩にある」。
私の書いていることは「揚げ足取り」というか、「後出しジャンケン」のように見えるかもしれない。しかし、公表されている『言語隠喩論』についての感想なのだから、どうしたって「後出しジャンケン」的な「揚げ足取り」になってしまう。
私の疑問は、野沢の「詩の特権化」につきるが、その「特権化」の方法にはかなり強引なものがある。
たとえば野沢は、こう書く。「散文的論理はあくまでもひとつの整合性をめざすものであってその先になんらかのテロスをもっているのにたいして、詩はそうした論理的帰結とはもっとも縁遠いものである。理屈で詩は書いてはならないし、そもそのまともな詩が書けるわけがない」。
この文章をよく読むとわかるが、野沢は「散文的論理」と「詩」を比較しているが、実際にやっていることは「散文」と「詩」の比較ではなく「論理」と野沢が「詩」と読んでいるものの比較である。詩には詩の「論理」があるはずである。たとえば野沢は「詩は隠喩でなければならない」という「論理/結論」を持っている。その「論理」にしたがって野沢は詩を書いているし、詩の評価もその論理に基づいている。
「論理」は当然「結論」を持つが、それは「散文」が「結論」を散文の先にもっているということではなく、あくまで「論理」がもっているのである。これは「音楽」でも「絵画」でも同じだろう。音楽そのものは「結論」をもたないかもしれない。しかし「音楽的論理」は「結論」を持つだろう。音楽(楽曲)はたいてい、いわゆる「ド」や「ラ」で終わる。これが「ファ」や「シ」で終わったら、妙に感じるかもしれない。私は音痴なので、はっきり妙な感じをもつとは言えないが、それでもたとえば「月の砂漠」の最後が「ドシラ」で終わらずに「ドシファ」だったら変だなあと思うだろう。ピカソの「ゲルニカ」に青の時代の貧しいピエロのようなタッチと色が紛れ込んでいたら、ここの部分、どうもおかしいと感じるだろう。「論理」というのは明確に言語化されないときでも存在している。言語化されていないから存在していないとは言えない。そして「論理」というのはいつでも「後出しジャンケン」だから、必ず「結論」は正当化される。ピカソの「アビニョンの娘たち」は最初は批判されたが、いまでは現代絵画の出発点のように「評価(結論)」されている。その「評価/結論」にむけて、新しい「論理」が展開されたのだ。これはピカソが「論理」をもって、そういう「結論」にむけて「アビニョンの娘たち」を描いたかどうかとは関係がない。ピカソは「論理(ことば)」で描き、「結論(ことば)」に到達したのではないからだ。「ことば(論理/結論)」は遅れてやってくるのだ。
つまり、というのはかなりの「飛躍」というか、脱線、いや「誤読」なのかもしれないが。
野沢は詩は「論理」なし、つまり「結論」を想定せずに書かれているというが(これはたぶん野沢の実感)、散文だって「結論」を想定せずに書くということはあるのではないのか。森鴎外は「渋江抽斎」を書いたとき、渋江抽斎が作品の途中で死んでしまう、ということを想定していたか。渋江抽斎が死んだ後でも、「結論」を目指してことばを動かし続けたのか。私には、どうしても、そう考えることはできない。プラトンというかソクラテスと言っていいのか私にはよくわからないが、「対話篇」のことばは「結論」を想定して動いたのか。話し始めたら、たまたまそうなった、というだけではないのか。そして、その「対話」が終わった後、それを読み返せば、そこに「論理」が存在するというだけのことではないのか。もう一度書くが、「論理」も「結論」もあとからやってくる。それは「後出しジャンケン」である。
これは、こう言いなおせるだろうか。私には作者の「論理/結論」とは別に、受け手の「論理/結論」というものがあるように思える。そして「作者の論理/結論」と「受け手の論理/結論」は完全に一致するものではないからこそおもしろいと思う。受け手が「作者の論理/結論」をそのまま受け入れれば、すべての作品が「傑作」になるのではないだろうか。
現代物理の「論理」は少し違って見えるかもしれない。「論理」が先行する。「結論」が正しいかどうか、膨大な実験で「実証」し、実証されてはじめて「理論」になる。逆に見えるが、「後出しジャンケン」が起きていることを決定するという意味では同じなのだ。実験で起きたことを「論理」でととのえ直すことができるから、その論理は正しいということなのだ。
「理屈で詩は書いてはならないし、そもそのまともな詩が書けるわけがない」と野沢は書くが、散文(たとえば小説)だって同じだろう。詩だけを特権化してしまう「根拠」が私にはわからない。ただ野沢が詩を書いている、ということ以外に特権化の理由がないのだとしたら、同じ主張を散文を書いている人、音楽をやっている人、美術を自分の人生だと思っている人が小説を特権化し、音楽を特権化し、美術を特権化してもいいだろう。詩の特権化に意味があるとは、私は思えないのである。
「散文的論理」を野沢は「哲学」と同一視しているように見える。「詩と接近と訣れ」という項目を立てて、哲学と詩の違いを検証している。
そのなかで私がいちばん注目したのはニーチェのことばである。野沢は、次の文章を引用している。「われわれの感官知覚の基礎になっているものは譬喩であって、無意識的な推論ではない」。これは、私の受け止め方では「われわれの感官知覚の基礎になっているものは譬喩であって、譬喩というのは、言いなおすと意識的な推論(論理)である」という意味になる。そして、その「意識的な論理」を言いなおすと「類似のものを類似のものと同一化すること--一方の事物と他方の事物とにおけるなんらかの類似性を見つけ出すこと、これが根源的な過程である」になる。「一方の事物と他方の事物とにおけるなんらかの類似性を見つけ出す」というのは「AとBは別のものであるけれど、二つのものの間には似たものがあると、ふたつの存在を知った後で、後出しジャンケンのように指摘すること(見つけ出すこと)」である。この「後出しジャンケン的発見」は「記憶」となる。そして「記憶はこの活動によって生き、間断なく練習をつづけている。混同ということが、根源的な現象なのである」。野沢がこの文章をどう読んだか、私にはよくわからないが、私なりに読めば、「類似」をつぎつぎに発見し、「A=B」という「譬喩」を「記憶」として積み重ね続けると、いつしか「混同」がおきる。「A=B」が「B=A」になったり、「A=B」「B=C」から「A=C」になったりする。「君はバラだ」「バラは甘く匂う」から「君は甘く匂う」になったりする。「バラの花びらは柔らかく傷つきやすい」から「君はバラの花びらだ」になったりもする。この「混同=根源的な(錯覚)現象」のために必要なのは「無意識的な推論」ではなく「論理的なことば」である。「論理的なことば」だけが「間違える」ことができる。もっと正確にいえば「正しく間違えることができる」。私の考えでは、この「正しく間違える」ことが「隠喩」なのだ。そして「正しく間違える」ためには、まず「論理」が必要なのだ。
野沢が「原初的な叫び声」と読んでいるものは、私からみると「正しく間違える」という欲望になる。他人の語っていることばでは満足できない。そして、「正しく間違える」というとき、その主眼は「間違える」ではなく「正しく」にある。「間違える」けれど、そこには「正しさがある」というのが「譬喩/隠喩」の「論理」ということになるだろう。「譬喩」をつかうとき、そこには「私には私の正しさがある」という主張があると思う。それはあくまでも既にあるものへの「異議申し立て」であり、「論理」である。
野沢はシェリーのことばも引用している。「言語の生命は隠喩にある。すなわち、言語は、事物の、まだ理解されずにいた関係を明確にし、その理解を永続せしめるものである」。野沢は、これを詩にだけに結びつけるのだけれど、私は詩以外の言語にも、それは適用できるものだと考える。私はいまサラマーゴの『白い闇』という小説を読んでいる。視界が真っ白になるという感染症が広がる。そのとき人はどう行動したかを描いている。それは私から見れば「《喩だけで成立している》テキスト」である。「《喩だけで成立している》テキスト」のことを野沢は「詩と呼ぶべきものである」と定義しているが、それでは『白い闇』は詩なのか。
私の書いていることは、「論理」ではなく「支離滅裂」なことばかもしれない。それは、そうなのである。私はいつでも「結論」を想定せずにことばを書いている。つまり、野沢は「散文的論理はあくまでもひとつのひとつの整合性をめざすもの」と書いていたが、それはあくまでも「論理」の問題であって「散文」の問題でも「ことば」の問題でもない。だから詩の対極に「散文的論理」を設定し、その枠内で「言語隠喩論」を展開しても、それは「散文」と「詩」の違いを証明することにはならないと思う。詩を特権化することは、詩の強化にはつながらないと思う。特権化はいつでも「排除」と背中合わせだからである。野沢は「哲学」と詩を接近させて論を展開するが、ことばの到達点は「哲学(書)」のなかにだけあるのではないと思う。言いなおせば、参照すべきなのは「哲学(書)」だけではないのではないだろうか、と思うのである。
さて。
この章では、野沢は島崎藤村、土井晩翆の詩を吉本隆明がどう読んだかを引用しながら、とても興味深いことを書いている。土井晩翆の「星と花」の一部。
同じ「自然」のおん母の
御手にそだちし姉と妹
み空の花を星といひ
わが世の星を花といふ。
吉本はこれを「この詩の芸術的自立感は、ただ星を空にある花として意味連合し、花を地上の星として意味連合させたことによるだけであることに注目すべきである。いわば、喩法だけで成立している詩ということができる」と書いている。これを受けて、野沢はこう書く。「ここでの〈意味連合〉とは、いまならたんに初歩的な隠喩と呼んでもかまわないものだが、こうしたレベルであっても原初的な喩が動き出した時代を的確につかんで《喩法だけで成立している詩》として方法的に見出していく吉本の詩史論的嗅覚はさすがである。わたしからすれば、《喩法だけで成立している》テクストこそ詩と呼ぶべきものなのであって、吉本はそこまで喩の自立性を信憑していなかったことになる」。
「初歩的な」ということわりをつけているのだけれど、野沢は「星と花」のことばを「隠喩」と呼んでいる。そして「《喩法だけで成立している》テクストこそ詩と呼ぶべきもの」と言っているのだが、ここに書かれている「初歩的」と「現在の詩(初歩的ではない詩)」への移行がどうやって行なわれたのか、その「詩史」が書かれていないので、わたしはびっくりしてしまう。いまでも、野沢は、この「星と花」を詩であると「評価」するのだろうか。この本のなかに引用されてきた安藤元雄、石原吉郎、高倉勉、氷見敦子の作品などと比べると、私には、その接点というものがみつけられない。
さらに「喩法」ということばを野沢はつかっているが「法」であるなら、それは「論理」ではないのか。今回の最初に引用した野沢のことばに「散文的論理」という表現があった。「喩法」とは「譬喩の論理」のことではないのか。「散文の論理」ではなく「譬喩の論理」だけで成立していることばの運動、それが詩、というものならば、やはり詩にも論理が存在し、論理が存在するところでは結論が生まれてしまうということにならないか。
書かれなければならないのは「喩の論理(隠喩の論理)」なのではないのか、と私は思っている。具体的には、「星と花」が「喩法だけで成立しているテクスト(詩)」であるというのなら、その「喩法」のなかに、野沢がこれまで書いてきた「身分け=言分け」がどんなふうに実行されているかを書かなければならないのではないのか。「初歩的」というのは多くの人ができることに通じると思うが、野沢は、この詩にどんな「身分け=言分け」の動きを見ているのか、ことばの「初心者」にもわかるように書いてほしいと思う。
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