詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本育夫「こきゅうのように 十八編」

2021-09-06 09:31:21 | 詩(雑誌・同人誌)

山本育夫「こきゅうのように 十八編」(「博物誌」49、2021年07月15日発行)

 山本育夫「こきゅうのように 十八編」を、野沢啓ならどう読むか、ということは、わからないが、わからないからこそ私は野沢の『言語暗喩論』への疑問を、こんな形で書いてみるのである。「暗喩」だけが詩なのか。「暗喩」がなければ詩は成立しないのか。いったい「暗喩」とは何なのか。
 
 山本育夫「こきゅうのように 十八編」の「06幽霊の憂い、あるいは憂国」を読む。

  空には空の憂いあり この胸のポート にも
  ポートの憂いがあるぞ
  憂いは幽霊 ゆ うれい のなかにも ある

 私は「幽霊」を見たことがないから、「幽霊」そのものについては何も判断しないが、「憂いは幽霊 ゆ うれい のなかにも ある」という書き方は、秋亜綺羅みたいだな、と思う。私はこういう「語呂合わせ」がとても苦手。めんどうくさいなあ、と思ってしまう。
 で、このときの「幽霊」と「ゆ うれい(憂い)」の出会いって、どちらかがどちらかの「比喩(暗喩)」?
 比喩とか暗喩とかいう「詩的」なものではなくて、詩とは違うもの。私が書いたように、単なる「語呂合わせ」のなかにふとあらわれた「発見」?
 「ゆ うれい」というような「語呂合わせ」にはならないけれど、「憂い」はどこにでもある、と山本は書く。「こころがある」ところに「憂いがある」。「憂い」は「こころ」を言いなおしたもの、つまり「比喩」なのだ。「ような」ということばをつかっていないから「直喩」に分類されるか。それはわからないが、どこにでも「憂い」があるので、

  気がついたら 憂いが こんなに
  たまって いました
  いました

 これはなんだろう。「いました」を繰り返している。「ゆ うれい」のような明確な「ずらし」のようなものはないが、「いました」の繰り返し、しかも二回目は一字下げという微妙な書き方に、私は何かを感じる。あ、山本は、二回目の「いました」を書きたいのか、と思う。そして、その感じが何となくわかる。一回じゃ気がすまない。「散文」のように一回ではすますことができない。
 ここに、たぶん山本の「詩」がある。この「詩」を、私は野沢の『言語暗喩論』を出発点にして語り直すことができない。野沢はどうだろうか。何か語れるだろうか。「これは、野沢の考えている詩ではない」と語ることを避けるだろうか。
 自分が書きたくないものに対して、それを避けて通るということは、私にはよくある。面倒なことはしない。自分の考えにあうものだけをとりあげてことばを動かしてしまう。私は自分の考えたいことをことばにするだけだから、それでいい、と自分に言い聞かせているけれど。野沢はどうなのかなあ。
 山本の詩は、「憂い」をつぎつぎにかき集める。そして、

  気がついたら 憂い が こんなに
  こんなに こんなに こんなに こんなに
       たまって
           いやがる

 「こんなに」が「憂い」ということばのかわりに積み重なる。そして「たまって/いやがる」。 「たまって いました」があふれかえって「いやがる」。「いやがる」を「いる」の強調の口語ではなく、私は「嫌がる」「嫌がっている」と読んでしまう。そして、「嫌がる」の主語は何かなあ、とぼんやり考える。「憂い」が「憂い」の多さを嫌がっているのか、山本が嫌がっているのか、それとも「たまる」という動詞そのものが嫌がっているのか。
 判断できないが、私はこの判断できなところに「詩」を感じるのである。あ、いま、私のことばが壊されている。壊れたがっている。このまま壊れていけば、いままでと違ったものが見えるはずだと、山本のことばの前で立ち止まっている。こういう瞬間が、私にとっての詩。
 ここから私がどうかわったか、それを書くことができるときもあるし、書くことができないときもある。この詩では「壊れたがっている」というところまでは書けるが、「壊れた後」までは書けない。書くと「嘘」がまじってくる。そういう、ちょっと「保留」つきの、ぼんやりした詩である。これはこれで、私は「いい」と納得している。
 「感動しました」と書けないときもある。
 「13曇天丼」。

  曇天が好きだ どんてん
  鼠色の雲の間から ぽわんと
  明るい気流が湧き出して わいわい
  空全体が ぱっと 輝き出す なんという
  曇天 だ だっ その光を浴びていると
  不安やおののき が 嘘のように消えていく
  健康なぼくが がっ 健康な心身で 立っている

 そう? 私はタイトルに引っ張られて「曇天」を忘れて「天丼」を思う。「天丼」から明るい湯気がわきあがり、天丼そのものが輝く。「わいわい」と「だ だっ」という音のにぎやかさが、天丼を食べる喜びにつながる。食べる喜びの前では「不安やおののき が 嘘のように消えていく」。うれしいなあ。「健康なぼくが がっ 健康な心身で 立っている」の「がっ」という音のはみ出しには、強い自己肯定がある。自己主張がある。いいなあ。
 この詩は、このあと

  孤独がすきだ こどくには 毒が潜んでいるし
  ひとりには 鳥が住んでいる だから
  ひとりは 空に飛び立てる んだ んだ んだだ

 という、またしても秋亜綺羅みたいな行を挟んで、ことばが変わっていく。「心身」という最初に引用した部分にあったことばが我を張り始め「曇天/天丼」はどこかに消えてしまう。もっと言うと詩が変わってしまう。そして、その変わり方を、ずるいなあ、山本は「心身を意識したことがないから」という行から終わりまでを、黄色いページに印刷しているのだ。白い紙ではなく、とつぜん紙の色が変わる。ことばの運動のなかに、ことば以外のものが入ってくる。山本にとっては、こういう変化も「意識」なのだ。そして、そこに意識の運動があるかぎり、それは詩なのだ。
 この「黄色」は、ある意味では「暗喩」なのである。でも何の「暗喩」? わからないね。「かわった」ことの「暗喩」と言っておこう。この色、ことばにとっての「ノイズ」という存在の「暗喩」。このことを、野沢の『言語暗喩論』では語りようがないと思う。野沢は「別の問題」と言うだろうけれど。でも、私は、それを別の問題にせずに「暗喩」の問題、詩の誕生の問題と考えたい気持ちがある。
 でも、それをどう書くか。これは、難しい問題。あえて言えば、私は「論」を完結させたくない。逆に、自分の中で「論」になってしまうものを「解体」しつづけたい。いつでも、いま、目の前にあるものに対して、自分をどう開いていけるかを考えたい。わからないまま、わからないことを、わからないという形で広げ続けたい。何かにであったら、ぱっと、それにあわせて変われるように、私を「開放」しておきたい、と思う。その、開放の準備のためにことばを動かしたいと思っている。
 脱線した。
 山本のこの詩は「へそ曲がり」ということばを経て、(解説は省略)、

  そこから〈ひねくれ者〉のことを「へそ曲がり」!
  というようになったんだって 知らんけど ど
  ぼくは そいういう もの だ だ だだだ

 と終わる。この最後の「だ」の繰り返し。その音の響きが好きだなあ。気持ちがいい。意味なんか「知らんけど」、「だ だ だだだ」と自己肯定しておく。それでいいじゃないか、と思う。意味なんて、人間はだれでも持っている。そして、意味は、ひとりひとりが違っている。それでいい、と私は考えている。ひとりひとりの生きている「意味」が違うから、「意味」をになう「暗喩」も当然ひとりひとり違ってくる。その意味/暗喩の違いを「ひとつ」に統合しなくてもいいと私は感じている。

 詩を、広いところに放り出したい、と私は思っている。

 


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