「ソクラテスの弁明」再読
「ソクラテスの弁明」再読、と書いてみたが、再読ではない。何度も読んでいる。傍線が何本も引いてある。余白にメモも書いてある。だが、いつもそうなのだが、再読するたびに、「初めて読む」という感じがする。
最初に「ソクラテスの弁明」を読んだのは、高校二年のときだと思う。「倫理」の授業、そういう科目があったかどうかはっきりしないが、授業で読んだ。「国語」でないことだけは確かである。そのとき、どう思ったか。何も覚えていない。非常に、ひっかかるものがあった。死刑になるなんて馬鹿な男、と思えない何かがあったのだ。あれは何だったのか。その答えは、見つからない。だから、「初めて読む」がつづいているのかもしれない。
きょう、私は、
たましい(いのちそのもの)
ということばに傍線が引いてあるのを確認した。(「プラトン全集」1、岩波書店)84ページ)傍線が引いてあるから、何回目かに読んだとき、そのことばが印象に残ったのだろう。何か考えたのだろう。何を考えたのか、もちろん思いだすことができない。
きょう思ったのは。
私は「魂」ということばを、いまはつかわない。若いときに、多くの詩人のまねをして詩の中に書いたことがある。でも、どうしても落ち着かない。嘘っぽい。私は「魂」というものを見たことがない。人がつかっているからつかってみた、ということなのだが、つかってみて感じた「嘘っぽさ」が尾を引いている。それは、私がつかってはいけないことばなのだ。
いっぽう、「いのち」はどうか。これは、よくつかう。「肉体」という意味とほとんどおなじ意味でつかっている。「魂」とは「肉体そのもの」である。あ、この定義なら、私には納得できる。傍線を引いたときも、そう思ったのか。それに近いことは考えたのだと思う。
「魂」に似たことばに「こころ」というものがある。「精神」というものもある。「こころ」も「精神」もどこにあるかは、わからない。だが「肉体」は「全体」として、そこにあることがわかる。手がある。足がある。目があり、耳がある。実際に目で見たり触ったりしたわけではないが、脳や心臓、内臓があることも知っている。それをつないでいるものが「いのち」であり、その全体が「肉体」。切り離さない。分離しない。分離してはいけないものが「いのち」である。
これ以上は考えない。ことばを動かすと、また嘘が始まる。私は「魂」ということばをつかうのではなく「いのちそのもの」ということばをつかうことで、ソクラテスの考えたことを考え続けようと思う。「こころ」や「精神」も「いのちそのもの=肉体」と言い換えることで私の言いたいことが言えるかどうか、それを考えよう。