詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「ソクラテスの弁明」再読

2022-01-01 22:35:24 | プラトン再読

「ソクラテスの弁明」再読

 「ソクラテスの弁明」再読、と書いてみたが、再読ではない。何度も読んでいる。傍線が何本も引いてある。余白にメモも書いてある。だが、いつもそうなのだが、再読するたびに、「初めて読む」という感じがする。
 最初に「ソクラテスの弁明」を読んだのは、高校二年のときだと思う。「倫理」の授業、そういう科目があったかどうかはっきりしないが、授業で読んだ。「国語」でないことだけは確かである。そのとき、どう思ったか。何も覚えていない。非常に、ひっかかるものがあった。死刑になるなんて馬鹿な男、と思えない何かがあったのだ。あれは何だったのか。その答えは、見つからない。だから、「初めて読む」がつづいているのかもしれない。
 きょう、私は、

たましい(いのちそのもの)

 ということばに傍線が引いてあるのを確認した。(「プラトン全集」1、岩波書店)84ページ)傍線が引いてあるから、何回目かに読んだとき、そのことばが印象に残ったのだろう。何か考えたのだろう。何を考えたのか、もちろん思いだすことができない。
 きょう思ったのは。
 私は「魂」ということばを、いまはつかわない。若いときに、多くの詩人のまねをして詩の中に書いたことがある。でも、どうしても落ち着かない。嘘っぽい。私は「魂」というものを見たことがない。人がつかっているからつかってみた、ということなのだが、つかってみて感じた「嘘っぽさ」が尾を引いている。それは、私がつかってはいけないことばなのだ。
 いっぽう、「いのち」はどうか。これは、よくつかう。「肉体」という意味とほとんどおなじ意味でつかっている。「魂」とは「肉体そのもの」である。あ、この定義なら、私には納得できる。傍線を引いたときも、そう思ったのか。それに近いことは考えたのだと思う。
 「魂」に似たことばに「こころ」というものがある。「精神」というものもある。「こころ」も「精神」もどこにあるかは、わからない。だが「肉体」は「全体」として、そこにあることがわかる。手がある。足がある。目があり、耳がある。実際に目で見たり触ったりしたわけではないが、脳や心臓、内臓があることも知っている。それをつないでいるものが「いのち」であり、その全体が「肉体」。切り離さない。分離しない。分離してはいけないものが「いのち」である。
 これ以上は考えない。ことばを動かすと、また嘘が始まる。私は「魂」ということばをつかうのではなく「いのちそのもの」ということばをつかうことで、ソクラテスの考えたことを考え続けようと思う。「こころ」や「精神」も「いのちそのもの=肉体」と言い換えることで私の言いたいことが言えるかどうか、それを考えよう。

 

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Estoy loco por espana(番外篇128)Joaquín Llorens

2022-01-01 20:17:38 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns
Técnica hierro 
70x50x30
Serie. Cuatro elementos

Esta forma misteriosa.
Me recuerdo el poema Ginkgo de Goethe.
¿La hoja de ginkgo, es originalmente una o dos ?
¿Una hoja se trata de dividir dos?
¿Dos hoja se trata de convertir en uno?

¿Este trabajo tuyo, su origen es uno o dos?

Lo que puedo ver en su trabajo es sustentarse los dos partes.
El de abajo soporta el de arriba que no cayera.
El de arriba soporta el de abajo que no temble.
Los dos están atados y estables.
Además, hablan de misteriosos sueños y contradicciones.
¿Es esto originalmente uno o dos?


¿Cuándo ví este trabajo por primera vez?
Recuerdo haber escrito que sería aún más interesante si este trabajo fuera enorme.
Creo que sería genial si la altura fuera de unos 2 metros.
Es muy emocionante incluso con su tamaño actual.

この不思議な形。
私はゲーテの銀杏の詩を思い出す。
銀杏の葉は、もともと一枚だったのか、二枚だったのか。
それは一枚だったものが二枚に分かれようとしているのか。
二枚だったのもが一枚になろうとしているのか。
君のこの作品は、一個だったものが二個になろうとしているのか。
二個だったものが一個になろうとしているのか。
私にわかることは、君の作品は、二つのものが支えあっているということ。
下にあるものは、上から倒れてくるのを支えているわけではない。
上にあるものが、下のものが揺れるのを支えているわけではない。
二つが結びついて、安定している。
しかも、それは不思議な夢と矛盾を語っている。
これは、もともと一つ? それとも二つ?


この作品を最初に見たのはいつだったか。
私は、この作品が巨大なら、いっそうおもしろいだろうと書いたと記憶している。
いまでもかわらない。
高さが2メートルくらいあったら、とてもいいと思う。
今の大きさのままでも、とても刺激的だが。

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なぜ、安倍晋三なのか

2022-01-01 18:15:01 |  自民党改憲草案再読

なぜ、安倍晋三なのか。

 2022年01月01日読売新聞(西部版・14版)の4面に、「語る新年展望」という連載が始まった。「有識者」インタビューだが、その1回目が安倍晋三である。こういう「企画」は読売新聞は、もともと1面でスタートさせた。岸田ではなく安倍であるところに問題があって、4面になったのかもしれない。「いくらなんでも、前の前の首相のことばが1面トップではおかしいだろう」という声があったのかもしれない。私も、そう思うが、扱いが1面から4面にまわったとしても、やはり違和感を覚える。なぜ、2022年の展望を語るのにトップバッターが安倍なのか。
 しかも、安倍は、ここで岸田にこんな注文をつけている。
↓↓↓↓↓
 岸田首相には、対中国でフロントライン(最前線)に立っているのは日本であり、日本こそ各国をまとめるリーダーシップを発揮しなければならない、ということを意識してもらいたい。
↑↑↑↑↑
 私は岸田を支持しているわけではないが、これはあまりにも奇妙な注文ではないか。
 自民党以外の人間ならまだわかるが、自民党が選んだ総裁の姿勢に、総裁をやめた人間が注文をつける。注文をつけるくらいなら、安倍が総裁をつづければよかっただろう。辞任しておいて、後継者の後継者にまで注文をつけるとはどういうことなのだろうか。安倍は、まだ「トップ」のつもりなのか。
 そして、それをそのまま記事にする読売新聞の「見識」はどこにあるのか。岸田よりも安倍がいい、安倍を支持するということなのか。たぶん、そうなのだ。安倍の「返り咲き作戦」が読売新聞の手で進められようとしているのだ。

 では、安倍を返り咲かせて、どういう「世界展望」をもくろんでいるのか。
↓↓↓↓↓
①今年最大の焦点は、台湾情勢です。中国に現状変更の試みをやめさせる努力が欠かせません。
②台湾有事となれば、沖縄・尖閣諸島も危機にさらされます。日本は、日米同盟を強化するとともに、自らの防衛力を高めなければなりません。
③今、領土を奪われる危険にさらされているのは日本です。
↑↑↑↑↑
 中国が台湾を侵略するかもしれない。これが「台湾有事」と呼ばれるもの。そのとき危機にさらされるのは台湾である。中国は一貫して「台湾」を国人は認めていない。中国の一部であると主張している。日本政府の基本的立場も同じだし、読売新聞も同じである。(台湾を「国」と表記した寄稿原稿を、書き直させるくらいである。)沖縄・尖閣諸島は台湾に地理的に近いが、中国は沖縄・尖閣諸島は中国の領土であるとは主張していない。尖閣諸島については議論はあるが、台湾に対する主張とは違うだろう。どうして、「今、領土を奪われる危険にさらされているのは日本です」と言えるのか。その根拠が、まったく説明されていない。
 このことに関係する問題はふたつ。まず、その一。
↓↓↓↓↓
 「自由で開かれたインド太平洋」の構想を提唱し、中国の振る舞いに対してずっと警鐘を鳴らしてきた日本が、いざという時に後ろに引けば、協力してくれる国々から「何だ、日本は。口先だけだったのか」と見られてしまう。
↑↑↑↑↑
 「自由で開かれたインド太平洋」というのであれば、中国がインド太平洋で行動を制限されるのはなぜだろう。「自由で開かれたインド太平洋」とは中国の行動を制限するためのものでしかない。日本が自由にインド太平洋を航行できるを言いなおしたものにすぎない。「自由で開かれたインド太平洋」が「口先だけ」のことなのに、中国批判が「口先だけだったのか」と他の国から見られたからといって、どうということはあるまい。だいたい、武力に頼らず「口先だけ」で相手を説得するのが「外交」だろう。「口先(言論)」を放棄して、論理を展開するのは別の目的があるからだ。
 それが問題点の二つ目。
↓↓↓↓↓
 変則的な軌道で飛ぶ北朝鮮の弾道ミサイルや、中露の極超音速滑空兵器に、今のミサイル防衛体制は太刀打ちできません。新たな矛に対処する盾を日本が持つ頃には、もう次の矛が出来ている。これ以上、ミサイル防衛に資源を投入するより、打撃力を持つ方が合理的なんです。
↑↑↑↑↑
 これは「防衛」は無意味だ。「防衛」するより「敵(基地)攻撃」の方が「合理的」と言っている。そんなことを言えば、中国も北朝鮮もそう考えるだろう。日本はどんどん軍備を増強している。「防衛」を考えるよりも、日本攻撃を考える方が「合理的」だ。日本から核ミサイルを打ち込まれる恐れもない。日本の背後にはアメリカがいるが、アメリカを直接攻撃するよりは日本を攻撃する方が「合理的」だ。アメリカとも和解しやすい。どうしたって、そう考えるだろう。
 日本に安倍がいれば、中国にも安倍のような考え方をする人間がいるに違いない。「防衛よりも敵基地攻撃が合理的」と考える人間がいるはずだ。
 問題は、武力増強が、ほんとうに「合理的」であるかどうかである。
 武力は人を殺し、生活を破壊する。それ以外の何の役に立つか。役立つとしたら軍需産業を儲けさせるのに役立つだけだ。日本がアメリカから軍備を購入すればアメリカの軍需産業が儲かるだけだ。アメリカの軍需産業が儲かれば、アメリカの軍需産業はバイデンを支持するだろう。それは、けっして安倍を支持するということでも、岸田を支持するということでもない。単に、安倍、岸田を利用するというだけのことである。
 そんな無駄遣いをするよりも(安倍にとっては、首相.に返り咲けるわけだから無駄遣いとは考えないのだろうが)、新しい魅力的なデジタル製品を開発するとか、画期的な電気自動車開発することに力を注いだ方が、日本を発展させるのに有効だろう。自民党は2012年の改憲草案の前文に「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」と書いている。なぜ「経済活動」なのか、私には疑問だが、「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」がほんとうの願いなら、「活力ある経済活動」を促すために何をすべきか提言すべきだろう。自分の金儲けではなくて。
 読売新聞も同じ。安倍批判をしたら電通から広告を回してもらえなくなるということを「身内」のことだけを考えるのではなく、「活力ある経済活動」とは何なのか、それを支えるために言論はどうあるべきなのかを考えた方がいいだろう。

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(24)

2022-01-01 16:52:08 | 詩集

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(24)

(天から)

天から
降ってくる
言葉

地から
湧いてくる
言葉

心の
水面に
浮く
言の葉

人から人へ
行き交い
いつか
沈む

 「言葉」がもし「意味」だったら、三連目は「浮く」でいいか。「乱す」にかわるかもしれない。最終連の「沈む」は「汚れる」「悲しむ」「泣く」か。そのとき「天」はあるか。意味は人間がつくる。

 

 

 

 

(自然は語らない)

自然は
語らない
歌わない
生きるだけ

ヒトは
混沌にいて
秩序を
求め

言葉を孕み
意味に
迷う

草木と
空に
背いて

 「秩序」とは「言葉」がつくりだした「意味」のことか。そうであるなら、「自然は/語らない」ではなく、ヒトには自然の歌声が聞こえないだけだろう。「自然」は「意味」を持たなくても、「生きる」ことができる。

 

 

 

 

 

(沈黙に)

沈黙に
自然の
静けさが
満ちて

耳は澄み
微風に
酔う

理と知を
超えようと
あがく
言葉

心の無力を
嘆く

 前半と後半は違う世界に見える。「耳は澄み」は「澄ませる」ではない。「無我」になり「澄む」。「あがく」のは「我」が「あがく」。「無力」は「無我」の対極。「魂」とは「無我/無音/沈黙」の別の名か。

 

 

 

 

 

 

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