詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ガルシア・マルケス 文体の秘密(2の追加)

2022-01-23 14:13:55 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(2の追加)

 『Cronica de una muerta anunciada (予告された殺人の記録)』の109ページ。前回書いた、次の文章。

Le habló de las lacras eternas que él había dejado en su cuerpo, de la sal de su lengua, de la trilla de fuego de su verga africana.

 私は、この部分が本当に好きだ。マルケスの文章の特徴をあらわしている。構造がわかりやすいように書き直すと、こうなる。


Le habló de las lacras eternas(que él había dejado en su cuerpo), 
    de la sal de su lengua, 
    de la trilla de fuego de su verga africana.

 一行目、que以下は「las lacras eternas」の説明なので省略する。この(que él había dejado en su cuerpo)は厳密に言うと違うが、読んだときの印象としては、二行目、三行目のあとにもつづいているように感じられる。同じことばを繰り返したくないから一行目だけに書いている。
 彼女は話した。何についてか。あらためて、そこだけ取り出す。

de las lacras eternas
de la sal de su lengua
de la trilla de fuego de su verga africana

 ことばがだんだん長くなっている。一行目と二行目は見た目が同じ長さに見えるが、二行目には「de」が二回。最初の「de」は「habló de」だから、実際は、一回。一行目が「形容詞/eternas」だったが、二行目は「名詞」になっている。名詞が二個。
 三行目は「de」がもう一回増えている。さらに長くなっている。名詞が三個、形容詞が一個。
 でも、長さを感じさせない。
 なぜか。一行目で想像力をかきたてられ、二行目でそれが加速され、三行目で暴走していく。
 わいせつな「妄想」というのは、一度火がつくと、簡単にはおさまらない。それだけでなく、加速したことにひとはたいてい気がつかない。
 この「妄想力/想像力」をマルケスは利用している。リズムがいいのだ。
 これが逆だったら、きっとつまらない。

Le habló
de la trilla de fuego de su verga africana
de la sal de su lengua
de las lacras eternas

 違いが鮮明にわかるでしょ?
 マルケスは、口語のリズムを活用しているのである。そこにマルケスの文体の魅力がある。

 

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「パイドン」再読(3)

2022-01-23 12:12:38 | 考える日記

「パイドン」再読(3)(「プラトン全集」1、岩波書店、1986年6月9日第三刷発行)

魂は、存在していたのだ、シミアス。この人間というもののうちに存在する以前にも、肉体からは離れて、しかも知をともないつつ、存在していたのだ(219)

 私は魂の存在を感じない。ソクラテス、プラトンは好きだが、私は、ここは同意しない。
 私は、ソクラテスが「魂」と呼んでいるものを「ことば」と置き換えて読む。
 私が生まれる以前(人間という存在になる前)にも、私の肉体から離れて、しかも知をともないつつ、存在していた。
 何の矛盾もない。「ことば」は語られると同時に書かれていた。書かれたことばが残されている。私の肉体は、その「ことば」のなかに生まれてきた。この世に生まれるということは「ことば」のなかに生まれるということである。
 「ことば」には、それまで生きてきた人の「肉体の記録」も残っている。「動詞」がそのことを教えてくれる。「肉体」はどう動くか。その結果、そこにあるものに対してどう働きかけるか。その具体的な証拠が「動詞」だ。

 ソクラテスは、「魂」を「想起」と関係づけて語っている。「想起」とは「学ぶ」ということである。

学び知ると呼んでいるはたらきは、本来みずからのものであった、かの知識をふたたび把握することとはならないだろうか。そこでそのことを、想起することというのは、ただしい言い方とはならないだろうか(217)

学知は想起だということになろう(217)

 「魂」はみずからが持っていたものを想起することでふたたび手に入れる。学ぶこと、知ることは、みずから知っていたことを想起すること--。この不思議な「論理」はどこから出てきたのか。なぜ、「魂」が「記憶」をもっていなければならないのか。
 私は、ソクラテスが「書かなかった」ということと関係していると考えている。
 ソクラテスは語ったが、ことばを書き残さなかった。書き残したのはプラトンである。ソクラテスにとって、ことばとはつぎつぎに消えていくものである。声そのものである。語るということは、過去に語ったことばを思い出し、点検することである。これを「学ぶ」と言っている。自分が言ったことばだけではなく、他人が言ったことばも「思い出し」(想起し)、それを動かしてみる。きちんと動くかどうか確かめてみる。これが「学ぶ」ということ、「ことばの働き」を学ぶ。そして、それが確立された(他人と共有された)とき、その「学び」は「知」にかわる。
 ことばが声に限定されるとき、魂は、たしかにそれを予め知っていなけばならないかもしれない。予めもっていなければならないかもしれない。そうしないと、「思い出す」ということができない。
 でも、ことばが「肉体」を離れて「文字」として記録されて残るならば、それは人間の肉体が覚えている必要はない。肉体とは別のものに託しておくことができる。この「消えない文字」こそが、「ことばの肉体」の証拠なのだ。人間の肉体は死とともにつかいものにならない。存在しないに等しくなる。でも「ことばの肉体」は残る。
 そして「ことば(の肉体)」のなかには「肉体の動き(動詞)」も含まれる。「動詞」に触れることで、「肉体」は「肉体」の動かし方を知る。そこから「肉体のことば」が生まれる。「ことばの肉体」と「肉体のことば」が交錯しながら、人間を作り上げていく。これを、私は「学ぶ」と呼びたい。

 ソクラテスが「魂」と呼んでいるものを、私は「ことば」と置き換える。そうすると、すべてが納得できる。「魂」は「学び知る」という働きをする。それは「魂」みずからがもっているものを想起するのではなく、「ことば」を肉体に還元しながら、つまり肉体の動かし方を学びながら、学んだことを蓄積するのである。

 

 

 

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