「パイドン」再読(「プラトン全集」1、岩波書店、1986年6月9日第三刷発行)
「パイドン」には「魂について」という副題がついている。私は「魂」の存在を確信していない。実感できない。その私が「パイドン」をどう読んでいるのか。そのことを確かめるために、再び読み始めた。テキストは岩波書店から出ている全集。訳者は松永雄二。
私はいつの場合も「結論」をめざしているわけではない。強いて言えば「魂」について考えることが「結論」になる。だから何のめどもなく、ただ思いついたままに書いていく。(引用の末尾の数字はページ。ワープロでは出てこない漢字は、テキトウに意味が通じる文字をつかった。)
最初に私がうれしくなったのは、次の部分。
ソクラテスを思いだすというのは、自分で語るにしても、ひとから聞くにしても、いつもわたしにはこのうえないよろこびなのですから!(159)
これは孔子の「友あり遠方より来る」を思いださせる。人と一緒に知っていることを語り合うのは楽しいことだ。協力して知っていることを思いだすのだ。
死を前にして、こういう喜びをソクラテスは持った。共有した。まず、このことが一番うれしい。私は、その喜びに誘われて、「パイドン」を読む。
詩人というのは、いやしくもほんとうにつくるひと(ポイエーテース)であろうとするならば、けっして事実の語り(ロゴス)をではなく、むしろ虚構(ミュートス)をこそ、詩としてつくるべきだ(166)
「魂」が登場する前に「詩/詩人」が出てくる。「詩」とは、ことばである。
私自身、詩を書き、詩の感想も書いているので、この「魂」について書かれた「パイドン」は、どこかで詩と交錯するだろうと思う。
ソクラテスは、ケベスのこの問題の追求ぶりに、よろこばれた様子にみえました。(173)
問題の追求。これは、ことばを動かすことである。ことばが「事実」を、あるいは「真実」をと言うべきか、何かを求めてかってに動いていく。かってに、と書いたのは、いまソクラテスは死刑寸前である。そのときに死刑のことなど気にしないで、自分が気にかかることの方へ向けてことばを動かす。あるいはケベスのことばは、かってに動いていく。ここに、私の関心がある。ことばは、なぜ、そんなことをしてしまうのか。そして、このことばの暴走(?)をソクラテスは喜んでいる。
そして、ソクラテスはその問に答えられるかどうか「わたしに試みさせてくれ」(174)と応える。ソクラテスは「結論」(答え)を知っているわけではない。これから考えるのだ。私がソクラテスから学んだものがあるとすれば、まず、これだ。「答え/結論」など知らない。だから考える。
その考える途中(対話の途中)で、「シミアスは笑いだした」(177)。これも、私はとても気に入っている。考える途中で(たとえば詩を読んでいる途中で)、私は笑いだしてしまうことがある。それは、何と言えばいいのか、ことばがかってに笑いだすのである。何か知らないこと、予想外のことが起きて、タガがはずれる。「ソクラテスは、ケベスのこの問題の追求ぶりに、よろこばれた」というのも、このタガがはずれる瞬間だろう。それは、ことばを、新しい活気の中へ引き込むのだ。
こういうことが、「魂」を語り合うことの出発点というか、「助走」になっている。
「魂」はいつ登場するか。「死とは何か」を問題にしたとき、あらわれる。「魂」が最初に登場するのは178ページである。死とは……。
魂が、肉体から離れ別れることではないだろうか。(略)魂が、からだから分離されて、まさに魂だけのもの、となることではないだろうか。(178)
「たましい」は「ソクラテスの弁明」には「たましい(いのちそのもの)」という表記で出てきた。(訳・田中美知太郎)その定義を流用するならば、「いのちそのもの」が肉体から離れ「いのちそのもの」になる。しかし、「肉体」を離れ「いのち」というのはあるのか。ふつうに考える「人間の肉体」とは別のなにかがあることにならないか。別の「いのち」があることにならないか。
どこに、それがあり、それは何と呼ばれるものなのか。
魂に、まさに存在するもののなにかが晰らかとなる場がどこかにあるとすれば、それは思惟のはたらきのうちにおいてではないだろうか。(181)
私のことばの「よりどころ」は、ここである。「思惟のはたらき」というものがある。「魂」はどこに存在するか、私は確信がもてないから魂の存在を私は信じない。しかし「思惟」というものがどこにあるかは確認することができる。「ことば」のなかにある。「ことば」はソクラテスがそうしたように話しているときは、つぎつぎにあらわれて消えていく。ほんとうに存在するかどうかわからないが、プラトンがそうしたように書いてしまうと存在としてあらわれ、残る。ことばをたどると、「思惟」がどうかわっていったか(はたらいたか)、確認できる。
私は「思惟のはたらき」を「思惟の運動」「ことばの運動」と、自分なりに言いなおしている。この「思惟のはたらき/ことばの運動」が「いのちそのもの」ではないのか。
ソクラテスは「真実」は「肉体(目や耳)」を通してはつかみきれない。「魂(思惟のはたらき)」を通して近づきうるものであると考える。その考えの途中で、こういうことを言う。
からだ(肉体)をつうじては、それらのもつ究極の真なるかたちは観られるだろうか。(略)みずからの考察の向うべきものとした、そのおのおのを、まさしくそれそのものとして思考しようとする態度を、最大限にまたもっとも正確におのがものとしているようなひとがあれば、--そのひとこそが、まさにそのおのおのを知ることに、もっとも近くまでいたりうるのではないのだろうか。(略)おのおのの存在に向うのに、あたうかぎり思考それのみをもってし、つまりはどのような視覚をも、思考する過程につけ加えることもなければ、他の感覚のいかなるものも、これを引き入れて思惟することのはたらきに伴わせることのない人ではなかろうか。(183)
「からだ(肉体)」がある一方、「思惟(思考)」がある。「思惟のはたらき」は「ことばのはたらき(運動)」である。人間に「肉体(からだ)」があるなら、「ことば」にも「からだ(肉体)」があると言えるのではないか。
私はよく「ことばの肉体」という表現をつかうのだが、私が「ことばの肉体」という表現を思いついたのは、この部分が影響している。
「人間の肉体」は完全に個人のものである。「ことばの肉体」も基本的に個人の物である。それぞれが固有の「ことばの肉体」を持っていて、それを私はたとえば「プラトン語」とか「ソクラテス語」とか「鴎外語」と呼んだりする。そして、その「ことばの肉体(固有の言語)」は奇妙なことに、固有の存在であると同時に「共有される肉体」でもある。他人の肉体を「使用する」ときは、たとえば会社の労働のように労使関係が生じ、賃金を支払わなければならなかったりするが、「ことばの肉体」はつかうひとの自由になる。自由になるといっても「ことば」にも「肉体」があるから、思いどおりには動いてくれない。「ことばの肉体」が反乱をおこすこともある。あるいは「ことばの肉体」がかってに予想外の場まで思考を連れていってくれることもある。
私は「肉体」ということばをつかうことで、いわゆる「肉体」と「ことばの肉体」をつなぎあわせようとしている。「肉体」と「魂(思惟)」という「二元論」ではなく、ただ「肉体」というものだけがあるという「一元論」を考えたいと思っている。
「ことばの肉体」の一方、「肉体」だけではなく、「肉体のことば」というものもあると考えている。「肉体」で実際に存在するものに触れる。存在を確信する。そしてその存在に働きかけるとき「肉体の運動」がある。この「肉体の運動」は「ことば」に影響する。「肉体」のはたらきかけがなければ、「ことば」は変化しようがない。「ことば」は「人間の肉体」を手がかりにして、具体的に言いなおせば動詞を手がかりにして、「ことばの肉体」を確立し始める。「人間の肉体」を動かすときの「動詞」を、「ことばの肉体」を動かすときの動詞として「共有」するのである。ここでも、手がかりは「肉体」だけである。「肉体」が「共通項目」なのである。
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