詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野沢啓「権利請求と応答責任--言語暗喩論の進展のために」

2022-01-09 12:43:33 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「権利請求と応答責任--言語暗喩論の進展のために」(「未来」冬、2022年1月1日発行)

 野沢啓「権利請求と応答責任--言語暗喩論の進展のために」は、野沢の『言語隠喩論』への反響に対する野沢の反応である。
 「言語」の問題は「言語」だけの問題ではない。「思想」そのものの問題である。「ことば」なしに、人間は考えられない。もちろん音楽や絵画、数学、物理で考える人もいるが、その人たちは音楽的言語、絵画的言語、数学的言語をつかっている。ひとりひとりつかう「ことば」が違う。だから、「ことば」を一般化して語るのは非常に難しい。野沢は、私を含めて多くの読者が野沢の論を正しく理解していないと批判しているが、そういうことは、私に言わせれば当たり前である。「ことば」は何よりも、他人を理解するためにあるのではなく、自分の考えをつきつめるためにある。個人的な言語は翻訳不可能だから、理解などできないのだ。
 他人のことは知らないが、私に関して言えば、私は他人の論を「正しく理解する」ということを一度もめざしたことはない。筆者の考えと自分の考えを一致させることが「正しい理解」とも考えない。そういうことは学校教育でおしまいにしたい。
 私は極端な「一元論者」であり、存在すると確実に言えるのは「私の肉体」だけ、と考えている。「他人」というのは、「私の肉体」に何か解決しなければならない問題があって、その問題を解決する手がかりとして私の前にあらわれてきたものと考えている。「ことば」も同じである。「他人のことば」が私の前にあらわれたのは(私がそのことばと出会ったのは)、私のことばに何か解決しなければならないことがらがあって、それを考えるためにここにあるのだ、と考えている。
 「ことば」を読むとは、単に「他人のことば」を読むことではなく、「他人のことば」に「私のことば」が読まれることであり、読まれることによって私は「私のことば」のなかにある自覚できなかった問題と向き合う。そこから「私のことば」を鍛えていく、ということを考え続けている。そういう私には「結論」というものはない。ただ「考える」ということがあるだけである。私は「私の結論」を信じていないから、当然のように「他人の結論」も信じてはいない。「結論」を破壊しながら、新たに考えようとしているだけである。
 「私の肉体」と「私のことば」、あるいは「ことばの肉体」については、何度も書いているので繰り返さない。ただ、野沢と私では「思想」にいても、「ことば」についても考え方がまったく違うから、意見の違いを「誤読」「誤解」(理解していない)と言ってしまっては何もはじまらないとだけは書いておきたい。私はむしろ「誤読」をすることで、私の考え(ことば)を動かしていく。ことばはただ「考える」ためにだけある。そして、そのときの「考え」というのは、あくまでも「私の考え」である。

 私が考えたのは、こういうことである。
 野沢は40ページから41ページにかけて、こう書いている。

 言語のなにものにも依拠しない本質的隠喩性とその創造力にかんしてさまざまな哲学者や言語学者、批評家、詩人の言説を引用してきたのは、こうした言語の隠喩的創造力にかんしてなにかヒントを得られないかという努力の痕跡にすぎない。そして、言語の本質的隠喩性についてはなにほどかの確認を得ることはできたが、それがとりわけ詩というジャンルの言説のなかでときに獲得する、未知の世界のなにものにも代えがたい絶対的な新規性はどうしたら実現するのかという説明と理路はついに得られなかった

 自分がつかみたいものを「他人のことば」から得ようとしても、私の考えでは絶対に見つからない。それは自分で探すしかない。自分を壊し続けない限り見つかるはずがない。私はそう思っているから、野沢が、次々にいろいろな外国人の思想家を引用するたびに、そんなものは私は知らないと言うのである。
 あるひとりの思想家のことばについて野沢がこう考えたというのなら、それは野沢の「対話」として読むことができるが、野沢の考えを整え、発展させる(説明と理路を確立する)ために利用しているというのでは、野沢のことばを読んでいるのか、私の名前の知らない誰かのことばを読んでいるのかわからなくなる。野沢の考えていることを知るために、野沢が引用している著述家のことばを読むとしたら、私はそのとき野沢ではなく、その著述家と向き合う。当然、「野沢の読み方」と「私の読み方」は違ってくる。もし、野沢と対話するなら、野沢が引用している著述家の文章に対してどう読むかという対話しかありえない。野沢は著述家の文章を野沢の考えを補強(?)するものとして引用しているが、その引用された文章が「著述家の言語暗喩論」であるかどうかがまず問題になるはずだ。野沢の引用している著述家が「言語暗喩論」を展開しているのなら、それはそれでいいけれど、私にはどうも、そういうふうには思えない。

 野沢は、私の文章を引用した上で、批判を展開している。まず、私の文章を引用しておく。

「隠喩」を問題にするなら、もっと「ことば」そのものにこだわって、どのことばがどのような「暗喩」になっているのか、それを指摘しながら、自分の知っている世界と、高良、氷見の書くことで出現させた世界がどう違うのか、それを書かないと「暗喩」について書いたことにならないのではないか、と私は疑問に思う。

 これに対して、野沢は、こう書いている。

谷内は詩のことばのひとつひとつが何に対するの暗喩なのかを明らかにしないと《「暗喩」について書いたことにならないのではないか》教訓めかして書いていて、驚くしかない。

 しかし、私は「ことばのひとつひとつが何に対するの暗喩なのかを明らかにしない」と書いているわけではない。たとえば「ばら」という比喩が出てきたときに、その「ばら」が「美人」の比喩(暗喩)であるというようなことを野沢に指摘しろと言っているわけではない。私がこだわっているのは「何が」ではなく「どのような」である。
 野沢の「言語暗喩論」は「何が」ではなく、「どのような」を問題にしている。言語は「どのように」して発生してきたか。ことばは「どのようにして」詩になるのか。問題にしているのは「どのように(どのような)」ではないのか。
 野沢自身、私が先に引用した文章の中で、「絶対的な新規性はどうしたら実現するのか」と「どうしたら」ということばをつかっている。野沢の評価している詩は、その「どうしたら」の部分をどう展開しているのか。「何が」「何の」比喩なのか(暗喩なのか)という「名詞」(対象)の部分ではなく、「どうしたら/どのようにして」に踏み込んで書くことが「暗喩論」、なぜ創造的なことばが必要なのか、創造的とはどういうことなのかを具体的に書くことになるのではないのか。

 詩ではなく、「散文」を例にして、私の考えを書いておこう。『白の闇』というタイトルで翻訳されているサラマーゴの小説「Ensayo sobre la cegera」を私はスペイン語版で読んだ。ポルトガル語版ではないので、正確ではないが、その書き出しは、「Se iluimino el disco amarillo.」この「el disco」(丸い形)は「信号」のことである。こう書けば「何が」「何を」比喩しているか、という問題になる。「el discoとは何ですか?別のことばで言い換えなさい」という「学校のテスト」の問題である。私は、そんなことを野沢に要求していない。
 「暗喩」の問題、「ことば」の問題は、なぜ、作者がそのことばを選び、それをつかったかである。それが「思想」というものだからである。なぜ、どのようにして、が問題なのだ。
 「Ensayo sobre la cegera」は人間が突然盲目になる小説である。盲目といっても「暗闇」ではなく世界が「真っ白」に見えてしまう盲目。そこでサラマーゴが問うているのは、「目が見える」とき、人は何を見て、何を見落としているか。もし何かを見落としているとしたら、それは一種の「盲目」といえるのではないか、という問題である。この問題が最初の書き出しで提示されている。
 つまり。
 信号を見るとき、私たちは普通、その「色」しか見ていない。車の運転手は、信号の赤、黄、青の「色」を見ているのであって、そのとき信号灯が丸いかどうかなど気にしない。つまり「丸い」を見落としている。それは運転手が、車用の信号を見るときではなく、歩行者用の信号を見るときも同じ。青が点滅するのを見ながら、もうすぐ車の信号もかわると思うのに似ている。歩行者用の信号が「四角」であることを意識しない。その信号の中に人間のシルエットが描かれていることを意識しない。ただ、色と、点滅に注意する。つまり、意識の中から「形」を排除している。排除することで、神経を集中させている。そのことが、書き出しに「暗喩」として書かれている。
 「どのようにして」「どのような」をつかって言いなおせば。
 サラマーゴの「el disco」(丸い形)という「見えるもの」を描きながら(これが「どのようにして」にあたる)、この「見えるもの」を私たちは見落として生きている(これが、「どのような」にあたる。という「暗喩」として提示しているのである。そして、この「暗喩」から、サラマーゴは、私たちが意識しなかった「未知の世界(新しい世界)」をことばの力で展開していく。ストーリーの展開にしたがって、私が目撃するのは、すべて知っていること(想像できること)であるけれど、すべて明確に認識してこなかったこと、あるいは意識的に「排除」してきたことである。それをサラマーゴは「白い闇」に襲われた人間を通して(つまり、どのようにして)描いている。
 野沢は、そういう具体的な指摘を『言語暗喩論』のなかで展開しているか。していないのではないか。いろいろな詩や、著述家の文章を引用してくるけれど、その「ことば」が「どのような(どのような)」世界を暗喩しているのか、その暗喩を通り抜けることで、野沢の意識はどうかわったのか、それが具体的には書かれていないと私には感じられる。高良の詩についても、氷見の詩についても、野沢の書いていることは、私から見ると「抽象的」である。
 私に関して言えば、「Ensayo sobre la cegera」を読むことで、私は多くのものを「見落としてきた」(私は盲目だった)ということを発見した。サラマーゴの「暗喩」がなければ、私は、それに気がつかなかった。信号が「丸い」ということを意識せずに、ただ信号の色を見ていただろう。
 ところで。
 私が、いま、ここでサラマーゴを取り上げたのは(すでにブログでも取り上げているが)、野沢が「詩」を特権的にあつかっているが、小説でも「暗喩」があるし、そういう取り組みを「ことば」をつかう人なら誰でもやっている。それを言いたいからである。

 

 

 

 

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