詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

検査行なわず?

2022-01-25 11:25:10 |  自民党改憲草案再読

 2022年01月25日の読売新聞。https://www.yomiuri.co.jp/national/20220124-OYT1T50166/ 
濃厚接触者、検査行わずに症状で診断可能に…厚労相が表明

 政府は24日、新型コロナウイルスの感染拡大時の外来診療について、感染者の濃厚接触者に発熱などの症状があれば、医師の判断で検査を行わずに感染の診断を可能にするなどの新たな対策を発表した。オミクロン株の急拡大を受け、自治体の判断で外来診療のあり方を見直せるようにする。

 一見、診断→治療のスピードアップに見えるが、ほんとうなのか。もし、濃厚接触者に「自覚症状」がなかったときはどうなるのか。検査をおこなわないまま「行動制限解除」ということになるのか。診断に検査が必要ないなら、検査なしで自由行動、ということになってしまうだろう。いままでつづけてきた「検査」→「感染者数発表」という流れはどうなるのか。
 だいたいねえ。
 コロナが発覚して以来、ずーっと自民党政権は「検査数」を抑制してきた。検査しないことで、感染者の実数を隠してきた。態勢が整わないとか、テキトウな理由をつけているが、あれから2年もたつ。いまだに検査体制が確立されないというのは、どうみたって何もしていないということだ。
 きっと最初にもどって「検査したって、検査で感染者が減るわけではない」というところへもどるのだろう。確かに検査をしようがしまいが、感染する、しないには関係がない。しかし「感染させる可能性があるかどうか」には密接な関係がある。症状がなくても、感染者が動き回り、他人と接触すれば、感染が拡大する。「感染しない/感染したらどうするか」と同時に「感染させない」ことが大事なのに、あまりにもずさん。
 「検査体制」で「感染させない」を無視しておいて、飲食店に「感染拡大防止のため営業自粛(禁止)」を求めるというのは、やり方として矛盾しているだろう。私が飲食店経営者だったら、絶対に文句を言う。
 と、書いてきて、思うのだ。
 今回の措置は「医療体制」に配慮したもの。「蔓延防止」にもとづく「営業抑制」は飲食店への働きかけ。一方は「医師(病院)」、他方は「中小の飲食店」。どちらが金持ち? 一概には言えないけれど「病院」だね。金持ちの「苦労」にはどんな対策でもひねりだすが、貧乏人の「苦労」には知らん顔。というよりも、貧乏なのは「自己責任」。貧乏人だから助けてもらえない。助けてほしかったら、最初から自民党に献金しておけ。献金しないものには「公助」があるとは期待するな、ということだな。自民党が「公助」に支出するときの「公」とは「お友だち」ということだ。安倍のお友だち、菅のお友だち、岸田のお友だち(まだ発覚していないみたいだが)なら助けるが、あとは知りません。
 ほんとうに、むごい。

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(3の追加)

2022-01-25 09:10:34 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(3の追加)

 前回の文章は、少し書き急ぎすぎた。これまで書いてきたこととの関係を省略しすぎた。少し追加しておく。
 Garcia Marquezの文体の特徴のひとつに「強調構文」がある。口語的なことばのリズムがそれを引き立てている。
 私が最初に取り上げたのが、

lo fueron a esperar 

 という単純なものであった。単純すぎて、その文章にGarcía Márquezの「独自性」を見出せないかもしれない。特にネイティブのひとは何も考えずに読むと思う。でも、これは「lo=santiago Nasar」を強調したスタイルなのである。「fueron a esperarlo」では、「lo」が「esperar 」という動詞にのみこまれてしまう。焦点が「 fueron a esperar 」という動詞の主語、「los gimelos 」になってしまう。さらに、ことばのスピードも落ちる。「 esperarlo」は「 esperar」より長いからだ。
 これと逆の「強調構文」が133ページに出てくる。Desde el lugar en que ella se encontraba podía verlos a ellos, この最後の部分

 verlos a ellos 

 「los 」=「a ellos (los gemelos )」。「a ellos 」はなくても意味は同じ。でも、García Márquezはあえてつけくわえている。文章が長くなるにもかかわらず、この構文を採用している。この文章の「主語」であるPlácida Lineroの動きをまず書きたかったからだ。この部分では「主役」はPlácida Lineroである。しかし、los gemelos も忘れてはならない。だから、それを強調するために「 verlos a ellos 」と書いているのだ。
 また「構文」とは関係ないのだがClotilde Armentaの次の描写も強烈である。

Clotilde Armenta agarró a Pedro Vicario por lacamisa (P131)

 「agarró」はなんでもない動詞だが、私はここではっと目が覚めた。それまでの登場人物は双子の兄弟に触れていない。肉体接触がない。だれも彼らを直接止めようとしていない。市長はナイフを取り上げたが、彼らに触れてはいない。彼女だけが自分の肉体をつかっている。このあと、彼女は地面に突き倒される。
 ここから目が眩むような殺人が描かれる。「agarró」ということばがきっかけで、実際の行動がはじまるのである。殺人計画が準備準備だけではなく、実際に動き始める。実際の犯行の前の、その「動詞」が犯行を強烈に浮かびあがらせる。「agarró」は、すぐに反対のことば「tiró」になって動く。「反動」が鮮烈である。さらに「empellón」に肉体を印象づけることばがつづく。

Pedro Vicario, que la tiró por tierra con un empellón,(P132) 

 「agarró」→「tiró」→「empellón」。これも「強調」のひとつなのだ。

 もう一つ、「dos veces 」の結果として生まれてくる不思議なことばがある。

remanos deslumbrante(P134)

 「remanos 」は、常識的には「deslumbrante」ではない。私はネイティブなので誤解しているかもしれないが、「remanos 」は、むしろdeslustrado やpenumbraであり、oscuroである。しかし、異様に覚醒した状態、絶対的な正気(lucidez )では、矛盾が矛盾ではなくなる。
 似たような矛盾したことばの強烈な結びつきは「rencor feliz」(P108)に出てきた。これも「強調」なのである。
 García Márquezzの文章は、頻繁に「realismo magico 」と呼ばれるが、「remanos deslumbrante」や「rencor feliz」のような強烈なことばが出てくるからかもしれない。しかし、これは「魔法」ではない。Garcia Marquezが生み出した現実である。こういうことばを読者が自然に受け入れられるようにするために、García Márquezは強調構文を積み重ねているのである。
 これは、こんなふうに考えてみればわかる。
 私は人を殺したことがない。殺されたこともない。だから、García Márquezが書いていることが「真実」かどうか判断することができない。本当はできないはずである。しかし、それを「事実/真実」と思ってしまう。ことばの力が「事実/真実」をつくりだすのだ。
 書かれていることが「絵空事」(現実には起こり得ないこと)であっても、そこに書かれていることばは「事実」そのものなのである。ことばが、架空の存在ではなく、いつも現実に存在する。だから読むことができる。「文体」もまた「事実」である。架空のものではない。だから、私は「何を書いている」ではなく「どう書いているか」について感想を書く。「文体」について感想を書く。

 

 

 

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